象牙アイボリー











酷い腹痛に見舞われ、苦しみ悶えた後少年は意識を失った。いや、後、というには語弊がある。 少年は苦しみながら気を飛ばしたのだった。バージルの名を呼び、助けを求めながら、 そのまま。

バージルは何もしてやることが出来なかった。いったい何が出来ただろうかと、自問する声は 一種の言い訳であるとバージルは自覚している。だからこそ、眠る少年を見下ろしただ悄然と しているのだ。
意識をなくしてなお、少年は時折バージルの名を呼ぶ。決まってバージルが彼のそばを離れようと するときだ。独りきりになることをひどく恐れているようで、バージルは傍らを離れられずに いる。

(せめて、)

そばにいる程度のことはしてやろう、と。そう決めていることはバージル本人すら気付いて いない。

少年は、あれから眠り続けている。もう丸一両日が過ぎようとしているが、目を覚ます気配は 全くない。このまま目覚めなければどうなるのか。それはあまりにも非現実的であるし、まだ たかが一日しか経っていないのだ。案じるには早すぎる。





それまで苦しみ続けていた少年が意識を失ったと判ってから、バージルは彼を抱き上げ風呂へ 入れた。激しい交合の直後のことだったので、寝台へ連れていくよりもまず身を清めてやらねば ならなかった。バージルが彼の内へ吐き出したものも、きれいに掻き出してやらなくては ならない。きちんと処理しておかねば、腹を下してからでは遅いのだ。
少年が腹痛を起こしたのは、もしかすればこのせいだったのか。そう考えなかったわけではないが、 違うだろうとすぐに自ら否定した。腹を下していたならば、何故出るものがないのかという疑問が 解決しない。原因は別にあると考えるよりなかった。

風呂場でも少年の意識が回復することはなく、バージルは慎重に(はたから見れば少々手荒だった かもしれないが)彼の躰を洗い、ついでに自らもシャワーを浴びた。幼児を風呂に入れるのとは 違い、手間はかかるがバージルは苦には感じなかった。少年に関してかかる手間のすべてを、 バージルは苦と思ったことはない。それは当然のことであった。

バージルの世界、それはひどく矮小なもので、その内にはバージル自身と双子の弟しか存在しない。 以前はそこに母がおり、今よりも少しは広い範囲を示していたが、彼女が亡くなって以降は弟を 残してぴたりと閉じた。以来、誰の侵入も赦してはいない。
その、世界の唯一の住人に、バージルは手間をかけることを厭うわけがなかった。ときに面倒だと 思うことはあっても、放棄することは有り得ない。バージルが持つすべての慾と情は、彼に注ぐ ためだけにあるのだから。

なめらかな膚から湯気をたてる少年を、バージルはふかふかのタオルで包んで隅々まで水分を 拭った。無意識にバージルの首へ抱きつこうとする少年を、抱き締め背中を撫ぜてやって。
ままごとのようだと思いながら、それをやめられぬ自身を内心で嗤った。口許には、自嘲ではない 笑みが浮かんでいた。

その後、少年を自室へ運び寝台へ横にならせた。このところ朝夕が少し肌寒くあるので、薄手の 毛布を細い躰にかぶせてやる。膚触りの良いそれは、弟の気に入りだ。バージルもその毛布は なかなかに気に入っている。弟が好んでよくかぶっているために、彼の匂いが染み付いている のだ。





丸くなって眠ることの多い(そしていつも、バージルの胸に頬をすり寄せる)少年だが、今は 手足をだらりと伸ばしている。それが妙に不自然に思えて、バージルは眉根を寄せた。常時皺の 絶えぬそこには、深い縦線が刻まれ消えそうにもない。これは己で操作出来ぬ類のものである ため、バージルにはどうしようもなかった。見ている者もなく、無論のこと指摘する者もないの だから、言ってしまえばどうでも良いことである。
少年の寝息は、一応安らかなものだ。痛みは気を失うと同時に消えたのだろうか。それならば 少しは救いがある。目覚めた後は判らないが、せめて眠っている間はゆっくり休ませて やりたい。
他者からすれば、バージルの優しさは一種の道化じみたものに見えるかもしれない。嫌がる少年を 恐怖によって縛り、抵抗する意思すら奪って何度も蹂躙したバージルが、今はことさら少年を 労ろうとしているのだから。

少年が起きていれば、この純真無垢な子どもは素直に喜んだに違いないけれども。それすらも、 第三者の視点で見れば、おかしな光景であるのだろう。
そもそも彼らの関係において、普通という観念はどこにも存在しないのだ。世間一般に照らし 合わせれば、という意味である。

バージルの世界は弟ただ一人を残して閉じている。その世界において、世間一般で言うところの 普通や常識といった観念を問うことはいかにも無意味である。
その、ずれを生じさせたのはバージル自身であるのか、それとも弟のほうであるのか、バージルは 考えたことすらなかった。小さな問題でありすぎるからだ。バージルにとっての大事は、弟が 傍らにいるかどうか。その髪の一本から爪の一つ、そして命に到るすべてが自分のものであれば、 あとの何もかもがどうでも良いことに違いないのだ。
そんな世界に、弟は半ば閉じ込められている。無論バージルによってだ。幼い頃より“教育”を 施してきたためか、弟はそのことに対しさほどの疑問も抱いてはいない。彼の矜持は他者よりも 高くあるが、そのことに関してはひどく盲目であった。わざと目を逸らしているようにも、 バージルには見える。もちろん、彼は無意識にしていることだ。加えて言うならば、それを させているのはバージル以外の何者でもない。

彼は籠の中の鳥だ。空を望めば籠の扉は開くが、見えぬ鎖が鳥を遠くへは行かせない。必ず、 籠の中へと連れ戻す。

「お前は俺のものだ」

自分が声に出して呟いているとは気付かず、バージルは眠る少年の額にかかった前髪を払って やった。秀でた額を指先で撫で、躰を屈めて唇を一つ落とす。子ども向けの童話の一節に沿う ならば、唇に口付けをすれば目覚めることになるが、まぁ、所詮は作り話だ。真に受けるなど 愚かにすぎる。

だが。

バージルは焦れていた。自覚がないというのが妙な話ではあるが、バージルは確かに焦れている。 そして無自覚のまま苛立ってもいた。こちらは焦躁よりもはっきりとした感情である。

「ダンテ、」

呼ばわるが、返答がないことは判りきっている。もう何度、こうして名を呼ばわったか知れない のだ。その間一度も、彼からの応えはない。バージルが傍らにいるということを、どのように 認識しているのかは判らないが、バージルがこの場を離れようとせぬ限り、少年の唇が動くこと はなかった。それが少し、物足りぬようにも思う。
ダンテという名を、バージルは何度も唇に乗せる。どんな人物の名を紡ぐことも、面倒だし必要が なければしようとも思わぬバージルが、弟の名だけは違っている。物心つく前より、そうだった。 大事なものはダンテ一人。無論母も大事だったが、彼女と弟はまた違う。それはバージルにしか 判らぬ感覚に因る区別であった。

「ダンテ、」

呼ばわり、少年の額や頬を撫ぜる。バージルのそれよりも高い筈の彼の体温が、少し低く 感じられる。冷たいというほどではなく、それだけが救いであったかもしれない。もし冷たいと 感じたなら、バージルはそのときどんな行動をするか、自分でも判らない。

自分以外の何ものかに、弟の命を脅かされることをバージルは何よりも厭っている。恐れ、という べきだろうか。過去の事象が、バージルに一種の心的外傷を与えているのだ。やはり恐れという 言葉が適切であろう。

名を呼び、頬を撫でることしか出来ぬ自身を、バージルは腑甲斐ないと思う。同時にひどく、 もどかしい。
ため息を吐いたバージルの耳に、古めかしい電話の受信音が届いた。事務所に据え置かれた 骨董品じみた電話(ダンテの趣味だ)は、主を呼んでけたたましく鳴き続けている。バージルは 眉を寄せ、居留守を使うべきか少しの間、悩んだ。少年のそばを離れるわけにはいかない。かと 言って電話に絶対に出られないわけではないのだ。少年を、事務所まで抱き抱えて連れて行けば 良いだけのことである。

飯のことも、ある。

一日くらい食事を抜いたところで、影響が出るかといえばそんなこともないのだけれども、彼には 水を飲ませてやりたい。意識はなくとも、少しずつ、唇を湿らす程度ならば飲ませることが 出来る。

電話は途中で鳴りやむだろうが、それはそれで構うまい。もし鳴りやまなければ、まぁ取って やっても良いか。当たり前のように上から目線でものを考え、バージルは着せかけた毛布ごと 少年の痩身を抱き上げた。いっこうに肥る気配のない細い躰は、見た目を裏切らずひどく軽い。 バージルもそうであるように、弟が肥ったところも見たことがなかった。しかしもう少し肉が ついても良いように思うのは、バージルの身勝手というものだろうか。
バージルが普段と変わりない歩調で歩いても、少年が目を覚ますふうは全くない。腹痛がない ことは良いのだが、こうも眠り続けねばならぬ理由が判らぬだけに安心は出来ない。彼の命が 失われるようなことだけは、絶対にあってはならないのだ。





「……それで、何だ」

受話器を右耳にあて、バージルは機嫌が良いとは言えぬ声音で電話の先の相手に応じた。腕には 無論、少年を抱いている。胸に、横向きにした少年の躰を凭れさせ、その状態で、黒檀の机と揃いの 椅子に腰掛けていた。右手で握っている受話器の、先にいるのは情報屋であるエンツォだ。

電話は、バージルが階段を降りている最中に鳴りやんだ。そして最後の段を降りると同時に再び 鳴り始めたのだ。

昨日の今日で何の用かと、バージルはまず眉を顰めた。バージルの機嫌が下降しようとしている ことに、けして鈍くないエンツォは即座に気付いたようだ。頼むから切るなと何度も言うのへ、 バージルはため息を一つ落としただけで応じてやった。エンツォが何やら怯えきっていたよう だが、知るものか。
左手で少年の髪を梳きながら、片手間にエンツォの話を聞く。用件は仕事の依頼であるらしい。 しばらく請けるつもりをしていなかったバージルは、当然ながら渋面を作った。

「何故俺でなければならん。他をあたれ」

にべもないバージルに、エンツォはしかし逃すものかと食らいついてくる。このあたりの度胸と 根気は評価するに値するが、バージルにとっては七面倒臭いばかりで評価どころではない。

「断ると言ったのが判らなかったか?」

地を這うような声音を、バージルは意図するではなくエンツォへ投げた。受話器の向こうで エンツォがひぃっと情けない悲鳴を上げている。人と話しているとそんなことの多いバージルには、 別段訝るような反応ではない。弟以外の何ごとにも、バージルは興味を持たぬたちである。

「判ったなら二度言わせるな。この件は……」

言いさした言葉が、バージルにはまったく珍しく消え失せる。『は?』とエンツォがぽかんと したらしい間の抜けた声を上げているが、バージルの耳には入っては来なかった。
バージルは電話で話していることも忘れ、ただ、腕の中の少年を凝視している。ふた呼吸ほど 置いて、彼のぼんやりとした瞳と視線が絡んだ。

「ダンテ、」

無意識に口が紡いだ名に、彼はぱちりと一つ瞬きをして。

「バージル……?」

不思議そうに、兄の名を唇に乗せた。
























次?
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