蒼碧
深いため息が、赤い唇からこぼれ落ちる。
おなかに赤ん坊がいる状態で、強い衝撃や振動を与えてはいけない。大切な大切な赤ん坊が死んで
しまったら、ダンテはどうすれば良いのか判らなくなってしまう。だってダンテのおなかにいる
赤ん坊は、まぎれもなくバージルの子どもなのだ。大好きなバージルの子どもを、ダンテが
失いたいと思うわけがなかった。
その赤ん坊を、父親であるバージルが乱暴に扱うなど、あってはならないことだというのに。
ダンテは癖のようになりつつあるため息を、一つこぼして折り曲げた膝をきゅっと両腕で抱き
抱えた。小さく丸くなった状態で、ちろりと隣で眠っているバージルに視線を向ける。
いつも、ダンテが眠ってから眠りに就いているらしいバージルの、寝ている姿を見るのは初めての
ことだ。朝は当然、バージルのほうが早く起きるので、ダンテがバージルの寝顔を見る機会など
なかったのだが、珍しいこともあるものだ。
(……ねてても、しわ……)
こちらを向いて眠るバージルの、眉間にくっきり刻まれた皺を見つけて、ダンテは首を傾げた。
眠っているというのに、バージルは何故だか考えごとをしているかのような表情だ。嫌な夢でも
見ているのかもしれない。バージルが、というのがいまいちぴんと来ないけれども。
ダンテはもう一つため息をこぼした。
今は夜更けだ。いつもならば熟睡している時刻である。一度寝付いてしまえば、夜更けになど
めったなことでは目を覚まさないダンテなのだが、今日はどうしたことか、ふっと意識が浮上し、
それから眠れなくなってしまったのだ。
ベッド脇のサイドテーブルに置かれた小さなランプの明かりが、ダンテの横顔を照らしている。
その表情には憂いが、双眸には悲しみがあった。
ダンテが先刻まで眠っていたのは、バージルに寝かしかしつけられたからだった。しかし普通に
ベッドに入りシーツをかぶったのではない。ただ寝かしつけられたのだったなら、ダンテが
こうして夜中に目を覚ますことはなかっただろう。それ程に、ふだんのダンテの眠りは深い。
バージルがそばにいてくれると思えば、いっそう彼の眠りは安らかなものになるのだった。
バージルはひどく優しいが、その反面ひどくおそろしい。格差が激しいので、ダンテは狼狽える
ことしか出来ないのが常だった。とくに、バージルが怒りを湛えているときは。
ダンテは膝を抱く腕を強くした。バージルの怒りは烈しい。あれがいつもの怒りと同じものだった
のか、まだ幼いダンテにはよく判らないでいるのだが、それは彼にとって大きな問題ではない。
大事なことは、ダンテがバージルの怒りに触れたことですらないのだ。
(バージル、どうして……?)
切々とした声はバージルには伝わらない。それがひどく哀しくて、ダンテの眦にふくりと涙が
滲んだ。
少年が目覚めたらしいことに、バージルはすぐに気がついた。しかし瞼を閉じたまま状況を静観を
決め込んだのは、少年がただ目を覚ましただけではないようだったからだ。
少年はしばらくシーツの中でもぞもぞとしたのち、何か諦めたかのように躰を起こし枕許に
ちんまりと丸くなった。それから、時折ため息が聞こえてくる。何を考えてのことか、バージルには
判らなくもなかった。いや、判るのだ、よく。しかし曖昧な表現をせずにおれぬのは、彼が悩み
ため息など吐く理由がいかにも見当外れであるが為だ。
バージルは内心でため息を吐いた。そう、ため息をこぼしたいのはこちらのほうで、
彼ではない。
(無垢というものがこうも厄介だとは)
彼の精神が十歳前後の頃にまで退行していると知れたとき、バージルはそれをいかにも面倒なこと
だと思ったものだ。いつ元に戻るかも知れず、また一から躾け直さねばならないことは確かに
面倒だった。しかしこんなことになるとは、誰が想像出来ただろう。
子どもが出来たと、彼は思い込んでいる。厄介なことに、自身の腹に子が宿っていると信じきって
いるのだ。男には子は産めないという当たり前の常識を、幼い彼は知らない。これを教え込むには、
また随分な面倒が付きまとうであろうとバージルは予見していた。しばらく放っておいても
大事なかろうと、高をくくったのが間違いだったのだろうか。
まさか、赤ん坊が潰れる、などという理由で、交合を拒まれるとは思ってもみないことだった。
潰れるような赤ん坊など、彼の腹にいはしない。しかしそうと信じ込んでいる彼にとれば、
バージルの言い分こそ理解出来ぬものであるに違いない。決定的に、しかし倒錯的にすれ違う
思いに、バージルは苛立ちを覚えた。結果は彼の、あまり耳に心地が好いとは言えぬ憂いを
帯びたため息だ。
彼はまた、腹の子のことを考えているに違いない。それがバージルは気に食わなかった。彼の
思考を自分ではないものが占めていることが我慢ならないのだ。
腹を裂き、赤ん坊などどこにもいないことを見せてやれば、この少年は己の勘違いを認める
だろうか。
バージルの眉間の皺が濃くなったようにダンテは思った。どんな夢を見ているのか、想像も
つかないからこそ覗いてみたい。典型的な怖いもの見たさというやつだろう。好奇心の強い
ダンテには、よくある衝動だ。
後先考えずに行動するなと、兄にはよくたしなめられた。そう言うだけあって、兄はダンテの
ように行動が先行することはまずない。彼らは双子でありながら、全く別人と言って良い程に
正反対の性質を持ち合わせている。
ここにはいない兄のことを、ダンテは想う。この数日、兄に想いを馳せることがほとんど
なかったということに気付き、唇を噛んだ。兄はダンテの文字通りの半身であり、何をするにも
兄と一緒というのが当たり前だった。こんなにも長期間離れ離れになったことは皆無で、しかし
極端に寂しいと思わずにおれたのは、やはりバージルがそばにいてくれるからだろうか。
兄とバージルはよく似ている。酷いときと優しいときの落差が、その最たるものだ。
ダンテはバージルの眉間に据えていた視線を、ついとシーツの上に投げた。そうしてまた、
ため息を一つ。
(バージル……)
切なげに呟かれた名は、兄のものかそれとも傍らの男のものか、完全に無意識であったダンテには
判る筈もない。
視線を、大腿に隠れた腹にやる。ほっそりとした肉付きの薄い(という自覚はないが)腹。
ダンテは膝を抱く腕を外し、腹を庇うように腕で覆った。ここにいる、赤ん坊は無事だろうか。
痛みこそないが、外からでは当然ながら窺い知れない。
兄はダンテに子どもが出来たと知ったなら、どんな反応をするだろう。喜んでくれるだろうか。
きっと驚くには違いないけれども。
怒る、かもしれない。
そう考えて、ダンテはふるっと躰を震わせた。そうだ、兄ならば怒る可能性のほうが高い。
何故か、その理由まではダンテには説明することは出来ないけれど、兄はきっと怒り出すに
違いないという思いに囚われ、震えが止まらなくなった。
(どうしよう)
バージルの子どもは産みたい。けれど兄は何と言うだろう。頬をぶたれるかもしれない。
目の届かぬところへは行くなと言われているというのに、ダンテは今、兄と離れ離れになって
しまっているではないか。
兄の知らぬところで、バージルの子を腹に宿した。それを、あの兄が赦すわけがない。
「……どうしよう……」
ダンテは途方に暮れて、今にも泣き出しそうな声で呟いた。大切ないのちが宿った腹を、
きつくなりすぎぬ程度に抱き締める。
少年が何を考えてそんな呟きをこぼしたのか、バージルには判らない。いや、理解してやろうと
思わなかった、という表現が正確であろう。彼の思考は今、腹の子のことでいっぱいの筈だ。
バージルがそれを忌々しく思っているということには、まるで気付きもせずに。
純粋だからこそ、彼の扱いには慎重でなくてはならない。それが面倒であり、煩わしくもある。
しかし彼は彼だ。バージルの双子の弟であることに、何の変わりもあろうものか。
バージルは少年のほうへ顔を向け、やはり瞼は閉じたままだ。腕を伸ばし、彼を抱き寄せ己の下に
組み敷きたいという慾望はあれど、そうせずにいるのは小さからず躊躇を抱いているからだ。
まったく、らしくもないことだが。
この少年にかかれば、自分はひどく簡単に振り回されてしまう。それがおかしくもあり、同時に
苛立ちを覚えるのだ。いや、歯痒さ、かもしれない。弟を支配しているのは自分に他ならない
というのに、逆に弟に振り回されるなどあって良いわけがないではないか。
何故こんな奇妙なことになったのか、理由は至極簡単で明快なものでありながら、バージルは
どうにも出来ずにいる。だからこそ、歯痒い。
はぁ、という深いため息が聞こえて、バージルは眉間に皺が寄るのを抑えられなかった。
純心無垢な子どもが、いったい何を途方に暮れることがあるというのか。その腹には赤ん坊など
いるわけがなく、そのことで悩むなど見当外れも良いところ――――笑えも、しない。
バージルは黙ってはおれず、とうとう腕を伸ばし少年の二の腕を掴んだ。驚いた少年が喉の奥で
悲鳴を上げるのも取り合わず、掴んだ腕をぐいとこちらへ引き寄せた。どこもかしこも細い
少年は、大して力を込めずとも簡単にバージルのほうへ倒れ込んでくる。
小さな躰を胸で抱き留めると、バージルは少年の白いうなじに吸い寄せられるように唇を押し
当てた。少年がびくりと肩を跳ねさせる。行為には慣れている筈の躰。しかし中身はまるで違う。
バージルが何度も行為を強いた為に、始めよりは格段に馴染んだものの、まだ突然の接触には
馴れない。もっともこれは、精神が退行する以前でもさして変わらないのだが。
初心な反応は仕掛ける側にとって愉しみの一つだ。バージルにとってもそれは同じことで、
しかし今は違った。全く正反対のことをバージルは感じていた。つまりは単純に、面白くない、
と。
バージルは竦む彼のうなじに尖った犬歯を突き立てた。ぶつりと鈍い音が脳に響く。
「いたっ……!」
少年がぎくりとし、逃げようとしてかバージルの胸の上で手足を藻掻かせる。無論、逃がしてやる
程バージルは優しくはない。
「暴れるな」
うなじに唇を添わせたまま、低く命じた。たったそれだけで、彼の動きを易々と封じることが
出来る。震えながらも逃げようとはしなくなった彼の、うなじに舌を這わせて紅いそれを舐め
取った。やはり甘い。脳が痺れるような甘さに、バージルの機嫌も少しは浮上する。知らず笑みを
浮かべたバージルのシャツの胸元を、少年がきゅっと握り締めた。その手も、哀れを誘う程に
震えている。
バージルは舌で唇を舐め、少年のうなじに再度犬歯を突き立てる。びくっと跳ねる彼の躰を
腕一本で押さえ込み、もう一方の手を彼のふわふわの髪に差し込んだ。髪を梳いてやれば、
どんなにぐずっていてもすぐに機嫌を良くする彼のこと。加えて口付けの一つも落としてやれば、
すぐにとろりとした表情になる。その変化を、バージルはよく好んでいる。
「ぅ、ん……」
予想に違わず、熱っぽい吐息が耳朶をかすめた。猫のように目を細めているのだろう。バージルは
少年を横抱きにするように支えながら、上体を起こした。少年の体重が腕にかかるが、常人を
はるかに凌ぐ膂力を有するバージルにとっては、こんな重みなど苦にもならない。
ちゅ、と音をたてて少年の膚から唇を離す。ぴくんといちいち跳ねる躰を、腕の力だけでひょいと
ひっくり返した。うつ伏せのような恰好だったものが一瞬にして仰向けにされたからか、真ん丸に
なった少年の瞳がそこにあった。覗き込むと、ようやく状況を把握したらしく、ぱちりと瞬きを
する。
「ばぁじる?」
まだ戸惑いの残る声音を聞き流し、バージルは彼の首筋に顔を埋めた。まだ、彼の血を啜り
足りないのだ。有無を言わせず犬歯――――それは意図して通常よりも鋭く尖らせて
いる――――を押し当てた。弾力のある皮膚を、鋭いとはいえ刃物のそれよりは格段に鈍い牙が
破るのだから、当然噛み付かれるほうは痛みを訴える。少年がバージルの胸元をきつく掴んだ。
「っ、んく……ぅ……」
苦しげな吐息に、バージルは笑みが込み上げるのを抑えられない。我ながらおかしいとは思うが、
彼の苦痛に耐えるさまは何よりバージルの慾を昂ぶらせる。子どもの頃から、そうだった。
それには、彼の血で喉を潤しているから、という理由は当て嵌まらない。おかしいと自覚はして
いながら、バージルにとってこれは何ら異常なことではないからだ。
紅いものが滲んだそこを舐めると、ぶるっと彼の躰に震えが走った。
「あッ……」
小さな、けれども甘やかな声。既に猛りを見せているバージルの雄をさらに刺激するには、
充分すぎる音色である。
バージルは彼の耳朶に舌を這わせ、ねっとりと甘噛みをした。もちろん彼は、ぞくりと背を
震わせる。
「ダンテ、」
呼ばわれば、彼はほぅと熱っぽいため息をこぼし。愛らしく潤んだ声音でバージルの名を紡ぐ。
バージルは薄い笑みを湛え、さて、と思案する。
いもしない赤ん坊のことで頭がいっぱいのこの子どもを、どのように調教すれば良いだろうか。