深紅スカーレット











あれから、どうにもバージルの様子がおかしい。

ダンテは唇を尖らせて、膝を抱き締める恰好でソファーに座り込んでいる。恨めしげな瞳は、 キッチンで昼飯の準備にかかっているバージルを、ただじっと見据えていた。ダンテがこんなにも 熱心に視線を送っているというのに、バージルはこちらを、一度も見ようとしない。まるで無視 されているようだと、ダンテは思った。
どうして。それはこの数日、ダンテの心に巣くったまま、どうにもこうにも離れてくれない思い だ。

名を呼べば、バージルは変わらず返答をくれる。どうした、と頭を撫でてくれる。それはいつも 通りで、ダンテもそのときばかりはほっとして、笑顔を見せたりもするのだけれども。
それ以上は、触れてくれないのだ。どうしてかなど判らない。シャワーを済ませた後は、 ふかふかのタオルで髪を拭ってくれるけれども、それだけなのだ。キスも、ほとんどして くれない。夜は同じベッドで眠りはするが、それだけなのだからダンテは不審に思わずには おれなかった。
初めこそ、バージルの強いてくる行為にただ恐怖しか見出だすことの出来なかったダンテだが、 今は違う。数日前の行為によって、ダンテの心境には小さからぬ変化があらわれていた。

バージルに幾度も強いられた“こわいこと”――――あの行為が、実は大切なことだという ことを、ダンテはようやく思い出したのだ。

(学校の先生が言ってた……)

だから、確かなことの筈だ。教師だけでなく、兄も同じように言っていたのだから、間違いない。 しかしそこから導き出される答えをバージルに告げたところ、バージルは何故だか妙な顔をして いた。そしてそれ以来、バージルはダンテに触れることを極端に減らしてしまったのだ。
何がいけなかったのか、ダンテは何度も自身の言動を思い返してみたけれど、結局判らないで いる。バージルに直接問おうとしたことはあるが、ダンテは今も口を噤んだままだ。叱られる ような気が、したから。何故気付かないのかと、かえってバージルの怒りをぶつけられてしまう ように思って、何も訊けず終いなのだ。

キッチンで手際良く料理を進めるバージルを、ダンテは先刻よりも切々とした表情で見つめた。 どうして。内心で疑問をぶつけるけれども、答えは当然ながら返って来ない。それが奇妙な程に 悲しくて、ダンテはバージルから視線を外して両腕に抱えた膝に額を押しつけた。
俯くと、涙が重力に従ってほろほろとこぼれ落ちそうになる。バージルに気付かれてはいけない と、ダンテは慌てて手の甲で涙を拭き取った。何故泣いているのかとバージルに訊かれれば、 総て喋ってしまわなくてはならなくなる。それは絶対にいけない。バージルの強いる行為には 馴染んだダンテであるが、バージルの怒りには変わらず畏れを抱いたままなのだ。ただ従順で ある為には、余計なことを口にしてはいけないとダンテは思っている。

「ばーじる……」

呟く声音は、いかにもか細い。弱々しい声だと、ダンテ自身も思う程に。けれど声を張るだけの 気力は、今のダンテには残されていないのだから、仕様がない。ため息とともに、バージルの名を 再び囁いた。と、

「眠いのか?」

早々と準備を終えたらしいバージルが、皿をローテーブルに置きながら問うてきた。ダンテは さっと首を左右にする。眠いのではない。そうではないのだけれど、説明出来ることではない のでただ首を振るのみだ。
バージルは「そうか」と呟き、とくに追求するでもなくダンテの隣に腰を下ろした。冷めない うちに食べろと、ダンテにフォークを渡したきり、言葉も呉れずにパスタを食べ始める。
あまりに素っ気ないバージルに、ダンテはまたしても双眸に涙が滲むのを感じた。バージルに 悟られないよう目尻を擦るふうを装って涙を拭い、ダンテはソファーからずり落ちるようにして 床にぺたんと尻をつけた。バージルのように皿を片手で引き寄せて食べるよりも、自ら皿に 近寄って食べるほうがダンテには合っているのだ。ごちゃごちゃとパスタを掻き混ぜ(これは 無意識にしていることだが)、フォークに巻き付けて口に放り込む。あっさりしたトマトソース が、喉にさらりと溶けていく。相変わらず、バージルは料理が巧い。

黙々と、ただ食べることに集中すること、五分。パスタと夢中で格闘するダンテを余所に、 バージルは早々と食べ終えていた。せっせとフォークを動かしているダンテのつむじを、 じつと見つめる双眸にはどこか複雑な色がある。が、ダンテは全く気付くことなく、さらに 十分後、ようやくパスタを食べきったのだった。





このところ、ダンテは沈み込んでいるように見受けられた。

腹をさする仕種を見るたびに、どうしたものかとバージルは考えあぐねる。原因はもちろん、 ダンテの突拍子もない発言だ。あの発言を頭ごなしに否定して良いものなのか、バージルは 思い悩んでいた。
あんなにも嬉しそうにされては、それは間違いだと否定してやることがどうにも不憫に思えて ならない。何ごとにも情け容赦のないバージルには珍しく、躊躇をしたまま数日が経って しまった。それだけ、バージルはこの弟を大事にしているということなのだが、しかし大事に するだけではこの問題は解決しようがないことも、バージルはよく判っている。判っていながら ずるずると、答えを出すことから逃げている状態なのだ。

(子ども、か)

内心で呟き、バージルは少年を見下ろした。腹が一杯になり眠気に襲われたらしく、少年は ソファーに頭を凭せ掛けてうつらうつらとしている。
あの発言があってからというもの、バージルは彼に触れることにすら奇妙な躊躇いを覚えるように なっていた。深い理由があるわけではない。真直ぐに見つめてくる大きな双眸が、自分に何をか 求めているように思えて、どうも腫れ物に触れるように対してしまうのだ。
こてん、と。彼の頭がとうとうソファーに沈んで動かなくなった。さまざまなことがあって、 彼は現在、見目は十四歳前後、中身は十歳程度というややこしい状態に陥っている。本来は 当然ながら双子の兄であるバージルと同年齢なのだが、元に戻るような兆しはいまだ見られない。 変わらず、彼は幼いままだ。

バージルは寝入ってしまった少年を、起こさぬようにそっと膝に抱き上げた。バージルの脚を 跨ぐ恰好で座らせ、腰をしっかり抱き寄せてやると、少年は赤ん坊のようにバージルにしがみ つき、頬をすり寄せてきた。その位置が心地好いのか、うっとりとしたように微笑を浮かべて いる。ほんのり赤く色付いた頬を見ていると、こちらまで笑みを浮かべてしまう。

よく懐いたものだと、思う。その反面、懐かぬわけがないとも。

いかに精神が退行し、バージルを兄と認識出来ぬとはいえ、彼がダンテであることに変わりは ないのだから。

柔らかな銀の髪に顔を埋め、バージルはしっとりと膚に馴染む感触をしばし堪能する。眠って いれば、彼もおかしなことは言い出さない。だから、だろう。近頃バージルが彼を抱き締める のは、彼がこうして眠っているときに限られていた。
触れないわけでは、ない。風呂はともに入るし、頭もきちんと洗って拭うところまでバージルが やってやる。夜はいつものように同衾する。が、あれ以来、交合をしていないことは確か だった。

子どもの名は何が良いか、と。問うてきたときの少年の、きらきらとした瞳をバージルはまだ ありありと思い出すことが出来る。嬉しそうな、期待に満ちた眼差しを一心に向けられて、 バージルは不覚にも絶句してしまった。

あの日は、初めてダンテに苦痛のない交合を教えた。精神は退行しても、躰は変わっていない のだ、過ぎる程敏感な少年は慣れぬ快楽に明らかに溺れていた。可愛いものだと思い、バージルは まるで初めて少年を抱くかのように、自身もよくよく猛っていたと自覚をしている。いつになく、 深く快楽を得た。その結果、少年のあの言葉を貰うに至ったわけだが……
男が子を孕むことはない。それは世の理であり、何故と訊かれても誰にも答えることは出来ない だろう。子を産むことが出来るのは女であって、男ではないのだ。少年には、その知識が欠けて いるのに違いなかった。
交合によって子を成すことは知っているのだろう。それが男女間にのみ起こり得ることだという、 あと一歩の知識が足りていないが為に奇妙な方向へ話がこじれてしまったわけだ。

もっともバージルは、

(絶対に不可能、とは思わぬが……)

などと真面目に考えても、いる。
自分ならば、やりようによってはダンテを孕ませてやれるのではないか、と。元より人間の 常識など通用せぬ躰だ、少し弄れば、どうとでも出来るようにバージルは思うわけである。 無論、自身の躰を、ではない。考えたこともないが、もしバージルが子を作るならば、やはり 種を植え付けるのは弟の腹以外には有り得ない。

話が少々脱線したが。
まず、バージルは少年を諭すところから始めねばなるまい。それはバージルとて重々承知して いる。しかし、だ。――――と、こうして躊躇を重ねているうちに数日を経てしまったことも、 バージルはよく理解している。どうにかせねばならぬのだが、さてどうしたものか。

「……、ん……ぁ……じる……」

微かな吐息に混じって、少年がバージルの名を呼ばわった。が、目が覚めたというわけでは なさそうで、少年はバージルの胸にぴったりと頬をすりつけたまま動かない。
今は閉ざされた碧い瞳が真直ぐにバージルを見つめるとき、いつも、その視線はバージルに 問い掛けてくるのだ。嬉しくないの? と。子どもが出来たと思い込んでいる少年は、 バージルがいつにも増して渋い表情でいることにすぐに気付いたのだろう。向けてくる視線は 熱心でありながらひどく哀しげで、バージルに目を合わせることすら躊躇わせる。
邪気がないだけに、困る。ふざけたことを言うなと、頭ごなしに言えば少年は確実に泣く。 悪くすれば心を閉ざしてしまいかねず、そうなったときの対処をまた講じなくてはならなくなり、 二重に面倒だ。出来ることなら、それは避けたい。

(さて……)

バージルをこうも悩ませるのは、後にも先にもこの少年ただ一人だ。面倒だとは思うが、 迷惑だとは感じない。どんな状況にあっても、バージルにとって弟は可愛くてならない存在に 変わりないからだろう。
バージルにすり寄りながら、少年は何やらむにゃむにゃと寝言を漏らしているらしいのが耳に 届く。何を言っているのかはバージルの聴力を持ってしても判らないが、時折紡がれるバージルの 名ははっきりと聞こえるのだから、不思議なことだ。

可愛い、少年。

彼を落胆させたいとは、バージルは思わない。折に触れて少年を苛め抜くバージルだが、 今回ばかりは話が違う。

(育児というのは、こんなものか)

ひどく納得するものが、ある。もっとも、これが自分の子であれば、などとは思ったことも ないが。
バージルは少年を懐深くに抱き直し、艶のある髪に口付けた。
さすがにこれ以上、少年の勘違いから目を背け続けるわけにはいかないだろう。良い解決策を 思い付いたというわけではなかったが、それでもどうにかせねばならぬ物ごとというものは ある。

「まったく、困らせてくれる」

微苦笑を浮かべ、バージルは小猿のように胸にしがみついた少年を抱いたまま、反動もつけずに 立ち上がった。少年は僅かな浮遊感に気付かなかったようで、健やかな寝息に変化は見受けられ ない。
リビングを出て、階段を登る。向かったのはバージルの自室だ。そういえば、ダンテがこうなって から、ダンテのベッドで彼を眠らせたことは一度もないと気付いたが、かといって開けるドアを 変えることはせず。閉め切られたダンテの部屋に一瞥を呉れただけで、バージルは自室のドアへと その身を滑り込ませた。

少年はバージルの腕の中で、ただ静かに眠り続けている。
























次?
戻。