青銅
夜更けに、ダンテは目を覚ました。覚えてもいないというのに悪夢を見た気がするのは、胸が
警鐘のように激しくがなりたてているからだ。
怖い夢を見て飛び起きるなどと、まるで子どもだ。自嘲して、ダンテは額に掌をあてた。
じっとりと汗が滲んでいる。
夢の余韻が去ってしまえば、冬の冷気で汗が冷えてひどく寒い。ダンテは手の甲で額を拭い、
毛布の中に潜り込んだ。と、
「どうした」
横合いから、声がかかった。ダンテを抱き込む格好で眠っていた男――――ダンテの双子の兄だ。
いつから目が覚めていたのか、上目遣いに兄を見やれば、今起きたのではなさそうなしっかりと
した双眸と視線が絡んだ。
悪夢(かどうかは判らないが)にうなされて起きてしまったとは言いにくくて、ダンテは
つと視線を泳がせて言葉を濁した。
「……べつに、何もねぇ……」
実際、毛布をかぶり、兄にすり寄ってしまえば寒さはさほど感じなくなった。しかし兄は
ダンテの曖昧な態度が気に入らなかったらしく、眉を顰めたのが気配で判った。拙いと
思ったが、もう遅いということは経験上よく知っているダンテである。
「ふん……?」
知らず強張った躰に、兄が気付かぬ筈はない。値踏みするように鼻を鳴らした兄の、節の高い
すらりとした指と広い掌がダンテの尻を鷲掴みにし、身を竦めたダンテを自分の腹の上に
引きずり上げた。と言っても、ダンテ一人を抱き上げるくらい、兄にとってはわけもないことだ。
ダンテの躰が、悪魔から受けた毒の影響で十四、五歳程の少年のそれにまで縮んでしまっていると
なれば、余計にだ。
仰向けになった兄の胸に押し付けるようにして、ダンテは顔を伏せた。兄は何が愉しいのか、
ダンテの尻を撫ぜたり揉んだりしている。寝着越しとはいえ、こうも執拗にされては堪った
ものではなく。兄はただの嫌がらせのつもりなのだろうが、快楽に馴らされたダンテはそうと
割り切れるものではなく、息が上がるのを抑えることが出来ない。
「っふ……く、ん……」
どうにかやり過ごそうと、唇を噛んで声を殺したのが悪かったのか。
「どこまで堪えられるか……」
不穏な囁きと同時に、兄の手が尻から離れてダンテの下肢をおもむろに剥いた。大腿の
半ばまでしか下ろされなかった寝着と下着が、ダンテの脚を戒める。
「やっ……バージル……っ?」
何をするつもりなのか、問うのは愚かだと判ってはいても。顔を上げれば、兄の人の悪い笑みが
そこにあって。
ダンテはそっと、息を飲む。
「俺に隠しごとをしようなどと、二度と思わぬよう躾けてやろう」
死の宣告のような言葉に、ダンテは蒼白になる。
そして、兄の宣言は文字通り実行され……夜明けを迎えてもなお、兄曰くの躾けは終わることを
知らなかった。
初めてこれと躰を繋げたときのことを、バージルはよく覚えている。これというのは、
バージルの双子の弟のことだ。
実の兄弟であり、正しく血を分けた双子の弟と行為に及ぶことに、バージルは欠片も疑問や
背徳を感じたことがない。弟は、バージルにとって文字通り半身だ。その半身を抱き、貫いて
我がものにすることは当然のことだとバージルは思っている。
女の代わり、などとは思ったこともしたこともない。バージルにすれば、女こそダンテの代わりに
などならぬからだ。
ソファーに腰掛けたバージルの膝に、弟は上半身を乗せる格好で眠っている。疲れの見える
寝顔だ。夜更けから、世間が明るくなるまで行為を強いていたのだ、疲れるのは当たり前かも
しれない。が、悪いのは弟だ。バージルに隠しごとなど、しようとするのがそもそもの
間違いなのだ。
眠るというよりも気を失った弟を、寝着のままリビングへ運んだのはバージルだ。エスプレッソ
コーヒーを淹れ、ソファーへ座ったバージルの膝によじ登るようにして上半身を乗せてきたのは
弟である。無論、無意識のことだ。
子犬か子猫のようにくるんと手足を丸めて眠る弟を、バージルは時折撫ぜてやりなどしながら
新聞に目を通す。相変わらず、世界はさまざまな意味で賑々しい。が、バージルには関係のない
ことだ。
弟がもそりと身動ぎした。寝返りのつもりなのか、バージルのほうを向いていた頭が仰向け
気味になる。秀でた額を指で押すように撫ぜると、弟が眉根を寄せてむずがるように唸った。
「んん……むぅ……」
無意味だが、可愛らしい寝言だ。バージルは笑みを浮かべ、弟の額や鼻、頬をぷにぷに押しては
するすると撫ぜてやった。一番の気に入りは艶やかな髪の手触りだが、膚の滑らかさはバージルの
指に心地好く馴染む。弟の総ては自分の為にしつらえられていると思って疑わないバージルだ。
自分のものを愛でることを、バージルは手放しに好んでいる。
撫でてやれば気持ち良さそうに(それこそ猫のように喉でも鳴らしそうな程に)、弟はもっとと
ねだってくる。この弟が快楽には相当弱く出来ているということは、初めて躰を繋げてから程
なく気付いたことだった。
何も知らなかった弟に、性的快楽を教えたのはバージルだ。そういう意味合いでは、弟は類を
見ぬ覚えの良い生徒だった。教えてやった快楽を弟の躰はすぐに覚えてしまい、より強い快楽を
求めるようになるのだ。男ならば、溺れるのが当然というものである。
しかしバージルは、弟の乱れるさまを好んでいながら、その反面で不快を覚えることも少なく
なかった。弟を淫らな躰に作ったのは自分で、それだけを考えれば満足も出来る。が、弟は
あまりにも淫乱に過ぎるきらいがあり、相手がバージルではなかろうが、快楽を与えてくれる
ものならば誰にでも同じように乱れてみせるのだ。それが、バージルは忌まわしく思わずには
おれない。
淫乱、と。罵りを口にすれば弟は決まって悔しそうに唇を噛む。誰の所為かと睨んでくることも
ある。涙に濡れた瞳が、いっそう男を誘うのだとは気付きもせずに。
「……ん、んぅ……」
悩ましげな吐息が、弟の唇から漏れる。バージルは目を細めた。頬を撫ぜていた指で、弟の
耳朶を挟む。柔らかい骨を味わうように弄り、それから首筋に狙いを移した。頸動脈の真上に
指をあてると、とくとくと血の通う音が伝わってくる。
「……ふん……」
薄く笑った。自分たち双子は、悪魔の血が流れている為か、人間と比べれば死からはかなり
遠ざけられている。剣で心臓を貫いても死なぬのだ、例えば首が千切れる程にここを裂いて
やったとして、弟は生きているだろうか。
試したい――――が、バージルは血腥い衝動をどうにか抑えた。バージルの血への衝動は、
ふとしたときに首をもたげる。対象は弟のみだ。弟以外の血などに興味はない。バージルが
執着するのは、この世界でただ一人、弟のみなのだから。
「……ダンテ、」
抑えているとはいえ、一度沸いた血への衝動は簡単に消えるものではない。弟の首に
絡み付かせた自らの指――――爪を、軽く膚に滑らせるだけで、望む緋が顔を覗かせるのだ。
バージルの唇が、細い月のような酷薄な笑みをはいた。
猛禽のそれのように伸びた鉤爪が、蒼く透ける膚をなぞる。間もなく、爪が緋色に染まった。
鋭い痛みに、ダンテはぎくっとして瞼を開けた。まだしっかりと目覚めていない双眸に、
冷ややかだがひどく整った顔立ちがこちらを見下ろしているのが映り込む。蒼い瞳が氷のようだと
ダンテは思った。そして次に、疑問が生まれた。そのまま、言葉を紡ぐ。
「だれ……?」
ごく自然な疑問だった。しかしダンテを見下ろす男には予想外の言葉であったらしく、
氷の眼がじわじわと見開かれていく。驚きと、それから怒りとが混じった瞳の色に、ダンテは
何故だか不安になった。間違ったことを言ってしまったのではないかと、思ったのだ。
「ぁ……」
ダンテは息を飲んだ。男の手がダンテの顎を掴む。指先の冷たさに身が竦み、ダンテは躰を
捩った。
「逃げるな、ダンテ」
男の口から自分の名が紡がれたことに、ダンテは驚いて大きな目を真ん丸に瞠った。
「どうして、名前……」
茫然として呟くと、男が目を眇めてダンテの顎のラインを親指の腹でなぞった。
「何故か、本当に判らないのか」
苛立ったような、低い声音。ダンテはふと、誰かに似ているように思ってことりと首を傾げたが、
寝起きの頭では記憶を手繰るのもはかどらない。ダンテはきゅっと眉をしかめた。
「……わかんない……」
口にすれば、何故判らないのかと男に叱られる気がしたが、判らないものは判らないのだから
仕様がない。案の定、男の秀麗なおもてが歪んだ。
「俺を……忘れたというのか、ダンテ。お前が……」
怒りを宿らせた双眸に射抜かれ、ひっと喉の奥で悲鳴を上げたダンテの躰を、男は軽々と
抱き起こした。男の脚を跨ぐように座らされて、そこでようやく、ソファーに寝転んでいた
らしい、と知る。
真正面から男と視線を合わせると、ダンテはいっそうこわくなった。男の瞳は、それ程に
厳しい。
こんな目を、自分は知っているとダンテは思った。だが、やはり思い出せない。男が
誰なのかも……
「ダンテ、」
名を呼ばわる声は低い。こわいが、その反面、ひどく耳に心地好い声音だとも思う。何故かは
判らない。
腰に回された力強い腕と、抱き寄せられた厚みのある胸板。ふわりと鼻をくすぐる匂い。
こわいけれど、不思議と気持ちが良い。こんな感覚は初めてではない気がして、ダンテは目を
瞬かせた。
ふっと思い浮かんだ言葉を、ほとんど無意識に呟いていた。
「……とうさん……?」
優しい父の、こんなにもこわい瞳は見たことがないけれども、自分を抱いてくれる腕の暖かさは
よく似ている。しかし男は父ではない。判っているのに、口をついてしまった。また、叱られる。
思った瞬間、耳朶に痛みが走った。噛まれたらしいと気付くまでに、時間がかかる。
「一から躾け直さねばならぬのか……?」
耳に吹き込まれた囁きの意味は判らなかったけれど、男が怒っていることはひしひしと伝わって
きて。ダンテは男の腕から逃れようと、躰を捩った。しかし男がそれを許してくれる筈も
ない。
腰を抱く腕が強さを増してダンテを引き寄せ、明らかに機嫌を損ねた声がダンテの耳朶を
かすめた。
「逃げるな、と言った筈だ」
ダンテはびくりと肩を揺らした。男がダンテの首筋に唇を押し当て、ちゅっと音をさせて膚を
吸った。ぢくりとした痛みが走る。
「ひっ……!」
こわい。どうしようもなく怖くて、ダンテはぎゅうっと目を瞑って唇を噛んだ。男は何度も、
ダンテの膚に口付けてはそこを吸い、舌で舐め上げる。そうすることにどんな意味があるのか、
ダンテにはまるで判らない。あんまり怖くてじわりと溜まっていた涙が、ほろほろとこぼれて
男の肩を濡らした。
「っ……ぅ……うぇ……」
堪えきれなかった嗚咽が唇の端から漏れ出てしまう。ダンテは咄嗟に口を手で覆ったが、
男の耳にはしっかりと届いていたらしい。ぴくりと眉を顰めると、ダンテの耳朶を鋭い犬歯が
食んだ。ぷつりと皮膚が破れる音がして、ダンテは悲鳴を上げた。
「ッ、たぁっ……!」
長いような気がする男の舌に、傷付いた耳朶をねっとりとねぶられる。
「嫌か、ダンテ。俺に触れられることが、泣く程に」
肩を捕まれ、男の胸板から僅かに距離が取られる。息の触れる近さから真直ぐに合わされた
視線――――男の双眸は、やはり氷のように冷たくて、そして。
(怒ってる)
途方もない怒りが瞳の奥に燻っている。
ダンテは声を出すことも出来ず、竦んで震えた。逃げなければ。本能、とでも言うのだろうか、
どこかが警鐘を鳴らしている。逃げなければ、どうなってしまうか判らない。けれども。
(にげられないよう……)
男の腕が片方、ダンテの肩から外れて首にかけられる。首筋をなぞるように絡み付く長い指に、
ダンテはびくりとする。
こわい。けれど逃げられない。
どうすれば良いのか判らなくて、ダンテは唇をわななかせた。
「やだ……こわいよう、お兄ちゃん……ッ」
くりりとした大きな瞳から、涙が一粒、滑らかな頬を流れて落ちた。