雪解
凍えた雪は音もなく解け、冷たい水はひっそりと流れて川になり、海に注ぐ。樹々は芽吹き、
草木は萌え、そうして静かに、しかし確かに、春は来る。
朝から仕事、というのは響きからして面倒で、そして怠い。ダンテはいつものように愛用の
大剣をコートの背に負い、腰のホルスターに双銃を差した。ダンテは便利屋を生業としているが、
それは表向きの名目であり、本当は悪魔狩りだ。
便利屋などという得体の知れぬ稼業を専らにしていれば、悪魔などといううさん臭い化け物に
出遭う確率も高い。しかし実際には悪魔に関連した仕事なぞめったになく、あってもダンテの
大剣の一振りで両断されるような小物ばかりだった。それでも、他の仕事に比べれば断然
ましなのだけれども。
朝から仕事、とあっては、いつもは昼まで夢の住人であるダンテも、嫌々ながら早起きを
するしかない。本当は断りたかった仕事であるだけに、怠いことこの上なかった。
依頼は、いつも行くスラム街の酒場でいつものようにエンツォ・フェリーニョが持ち込んだ
ものだった。自称情報屋のエンツォは、副業だと言って仲介屋などしているのだ。
エンツォは安い仕事は適当な荒事師にばら蒔き、これというものをダンテに残しておく。その、
エンツォが選ぶものには大抵裏があり、報酬も良い代わりに手間の掛かるものが多かった。
文句を言えば、エンツォはわざとらしい汗など浮かべて見せ、言う。そんな怖い顔すんなって。
それより聞けよ、今度の仕事は最高だぜ? ……聞き飽きた。それでも仕様がないと肩を竦めて
聞いてしまう程度には、ダンテはエンツォを信用していないわけではなく、嫌いということ
でもない。
エンツォから持ち込まれる仕事の三分の一は断っているのだから、お互い様だ。今朝の仕事は、
断り切れなかったのだから腹が立つ。
(くそ、エンツォの野郎……まんまと俺を売りやがって……)
誤解を招きそうな言い回しだが、あながち語弊ではない。今回の仕事を依頼した人間は、
ダンテをと言って聞かなかったらしい。以前にも一度、ダンテを名指して依頼をしてきた人物だと
いうことだが、ダンテの記憶にはない名だった。聞けば、前回はエンツォがダンテ以外の腕の
立つものを紹介すると強く拒み、どうにか断ったのだと言う。
では何故、今回もそうしなかったのかと問えば、どうしてもだと言うから納得出来よう筈が
ない。問い詰めれば、エンツォは何故かダンテの肩をがしりと掴み、
――――何かあったら、殴っても構わねぇ。だから、頼む。
何があると言うのか。あまりの剣幕に、ダンテはつい頷いてしまった。
そして、後悔した。
朝から仕事というのは、眠い上に面倒で、怠い。しかもその内容が内容であれば、精神は
限界に達するというもの。
「…………」
この、もうすぐ春とはいえ冷え込むことのある時季にすらストロベリー・サンデーを素で
食べるダンテも、この状況ではなかなかスプーンが動かない。それを訝ったらしく、目の前に
座る男が首を傾げた。
「食べないんですか?」
妙に丁寧な言葉を使う男は、確実にダンテよりも年上で。しかしダンテよりも線が細い。
三十にはなっていないようだが、良いところのお坊ちゃんという雰囲気がありありと醸し出されて
おり、ダンテはそれだけで辟易してしまう。要は、嫌いなのだ。こういう男が。
そんな嫌いな類の男でも、飯の種と思って一応我慢はしているダンテだ。しかし、限度という
ものがある。
細いスプーンでストロベリーソースに染まったクリームをすくって食べるが、いつものような
幸福感は一切ない。理由は当然、この男だ。
「味があまり良くない? 作り直させましょうか?」
「……別に」
ぼそりと拒み、ダンテは無理矢理スプーンを動かした。いかに好物が目の前にあっても、食べる
状況で食欲がなくなるものなのだと、初めて知った。良い経験だ、などと双子の兄なら言いそうだ。
他人事だと思って。脳裏の兄に悪態を吐き、溶けたアイスを口に頬張る。ストロベリーの
甘ったるさが、この時程忌々しく思ったことはない。
まるで敵に向かうようにストロベリー・サンデーを食べるダンテを、男は満足げに、かつ
仕合わせそうに見つめている。居心地が悪いどころの話ではない。
依頼主であるこの男がダンテに望んだことは、今日一日の時間だった。朝食に始まり、昼食、
午後のお茶、夕食まで、丸一日行動を共にして欲しい、とそれだけの単純で退屈な依頼である。
護衛ですらないのだから、ダンテは男から直接依頼の内容を聞かされて、思わず唖然として
しまった。貴方の今日一日の時間を下さい、と。ちょっと頬を赤くされて、他にどんな反応が
出来ただろう。
依頼の通り、ダンテは男と共に朝食・昼食を摂り、現在はいわゆるティータイムである。紅茶を
優雅に飲む男は、ダンテの好みを事前に調べていたらしい。何も言っていないのに
ストロベリー・サンデーが目の前に置かれ、男がにこりと微笑んで見せた時、ダンテはエンツォの
「殴っても構わない」という言葉を遅まきながら理解した。
男はダンテを、出張ホストか何かと勘違いをしているのか。エンツォは知っていて、だから
一度目の時はどうにか断ってくれたらしい。しかし男は諦めも悪く、更に今度はエンツォを
断れぬよう追い込んでまでダンテを望んだ。
たちが悪すぎて、吐き気すらしそうだ。
「顔色が優れないようだけれど、大丈夫ですか?」
今の今まで仕合わせそうにこちらを見つめていた男が、急におろおろとし始めた。ダンテの
機嫌が最悪であることに、今になって気付いたとでもいうのだろうか。いや、こいつは気付いて
なんかいない。ダンテが即座に否定する程に、この男は総ての感覚が鈍い作りになっていた。
ダンテは男を睨むが、男はちょっと驚いたような顔をし、それから何故か、照れたように
はにかんだ。……気色が悪い。
「気分が悪いなら、横になった方が良いかもしれませんよ」
男が指差したのは、傍らのソファーだ。もうすぐ春だというのに毛皮張りのソファーなど
置いて、どういうつもりなのか。まさか年中このままか、などと余計なことを考えるうち、
男は立ち上がってダンテをソファーに導こうとした。さぁ、遠慮しないで下さい。猫撫で声が
鬱陶しい。さっさと寝ろ。冷たい声と視線で命じられる方がましだと、ダンテは無意識に思い、
肩に添えられた男の手を払い除けた。限界だ。
「やめろ」
椅子を引かずに立ち上がると、がたんと派手な音をたてて椅子が後ろに倒れた。
「どうしたんです?」
ダンテよりも少し背の低い男が、目を瞠ってこちらを見上げてくる。性懲りもなく触れて
来ようとする手を、躰を捻って避けた。
「触んな。もうヤメだ」
「え?」
「金は要らねぇ。オママゴトがしたいんなら、他を当たれ」
やってられるか、と吐き捨てれば、男は初めて顔を歪ませた。
これがこいつの本当の顔なんだろうと、ダンテはふと思った。が、どうでも良いことだ。
「お前は今日一日、僕のものだっ。どこへも行かせたりするものか!」
誰か、と声高に男が叫ぶ。どこに控えていたのやら、あまり柄のよろしくない黒服の男が
五人余り、部屋に押し入って来る。ダンテはそれらを一瞥することもなく、ため息を吐いた。
何なのだろう、この陳腐な展開は。しかも既に勝ち誇ったような顔をする、この男は。
「こいつを掴まえろっ」
喚く男を、殴る価値もないと無視して、ダンテはブーツを踏み鳴らして窓辺へ近寄った。
嵌め殺しの窓は強化硝子でも嵌め込んであるのだろう。ダンテはおもむろに銃を抜いた。背後で
同じように銃が抜かれ、銃口がこちらに向けられる。詰まらない脅しだ。
一発、撃った。しかし背後に向かってではなく、窓――――細かく言えば窓枠に向けて、だ。
続けて三発窓枠の四方に向けて撃ち、最後に強化硝子の真ん中に放つ。総てが着弾するより速く
銃をホルスターにしまい、ダンテはちらと背後を見やった。
「じゃあな、」
ビシ、と強化硝子に弾丸が埋まる。ダンテは無造作に硝子を蹴った。ばきりと窓が枠ごと外れ、
硝子が砕ける。そのまま、ダンテは床を蹴って窓の外へ身を投じた。わぁっ、と慌てふためく声が
遠ざかる。ここは高層マンションの最上階に近い部屋だ。その窓から飛び下りたとなれば、
通常ならば地面に叩き付けられて肉塊となって死ぬ。が、ダンテは通常のヒトではない。
一分後には、何もなかったふうにアスファルトを踏むダンテの姿があった。
「サイアクだ」
気持ちの悪い依頼主から戦術的撤退を成功させ、家に辿り着くなり自室のベッドで眠りこけた
ダンテは、夕食を前に目を覚ましてげんなりした。
「何なんだよ、おい……っ」
言葉を投げる先には、双子の兄バージル。そのバージルは、ベッドにぐったりと横たわる
ダンテを見下ろし、何がだ、などと嘯いた。
「何がだ、も何もねぇよっ! 何してくれてんだ、俺のコートに!?」
あまりの疲労感にコートも脱がずベッドに倒れ込んでいたダンテであるが、目が覚めてみれば
そのコートがとんでもないことになっていたのである。まだ年が明ける前に、気に入りだった
コートを台無しにしてしまったのを見て、バージルが買ってくれたファーコート。ダンテの好み
からすれば少し地味な感はあれど、柔らかなファーが気に入って今では出かける時は必ず
このコートだ。それを、バージルは。
ずたずたに、裂いてしまった。
「不服か?」
平然としているバージルの手には刃物と呼べるものはない。ただ、鋭く伸びた爪が猛禽の
それのようにきらりと光っている。あれで、革を裂いたのか。
「不服かって、そういう問題じゃ……っ、な、何を……!」
バージルが、ダンテの言葉など聞こうともせずおもむろにベッドに膝を乗り上げ、中途半端に
起き上がったダンテの肩を押さえ付けた。不意のことに抵抗も出来ず、ダンテはベッドに縫い
止められてしまう。
「何すんだよ、バージルっ?」
訊くが早いか、バージルの伸びた爪がダンテのシャツの襟首をついと引っ掛け、そのまま
一直線に引き裂いた。当然、ダンテはぎょっとする。しかも爪の先が皮膚をなぞるようにされた
ものだから、堪らず躰が竦んでしまった。
「ひっ……!?」
引きつった悲鳴に、バージルがにやりと笑う。
「そうだ、そうして、震えていろ」
何という悪趣味なことを言うのか。ダンテが茫然としていると、バージルは調子に乗って
ダンテの穿いた革パンツにまで爪を立てて来た。まさか、とダンテが青くなるのを尻目に、
バージルは何の躊躇いもなく革を裂く。それも、何故か大腿の内側から。セックスでも
しているふうに、ぞろりと撫でるように。
「ぁ……ッ」
ぞくりとしたものに、不本意ながらバージルの要望通り震えてしまう。ただでさえ快楽を
好むこの躰は、バージルの愛撫にはとみに弱い。バージルはそれを判っていて、ダンテに
触れる。
裂けた革パンツの隙間から爪で膚を撫ぜられ、バージルの思惑通りと判っていてもびくりと
してしまった。
「んっ……やめ……」
咄嗟に出た拒絶の言葉を、バージルは鼻で笑う。
「どこぞのゲイにでも触れられた方がまし、か?」
「え?」
「次からは、俺に断りなく仕事を請けるな。エンツォにも言ってある」
「な、アンタ……っ」
「不服ならば、鎖に繋いでベッドに縛り付けてやろう。……いや、檻にでも閉じ込めるか……」
バージルの目は、本気だ。ダンテは戦慄に似たものを感じた。この兄は、嫌な意味で行動力に
溢れている。やると言うからには、必ずやる。そういう男だ。
「わ、かった、よ……」
不承不承頷いたダンテに満足がいったか、バージルはまたダンテの革パンツに爪を掛けた。
び、と嫌な音を立てて革が裂ける。
「なぁ、何でこんなことすんだよ?」
もはや抵抗する気力も失せたダンテに、バージルがやはり平然と宣った。
「そろそろ、時季だろう」
「……何の?」
「衣替えだ」
絶句した。いや、唖然とするしかなかった。
バージルはダンテの脚をひょいと持ち上げ、どんどん革を裂いていく。どことなく、何となく
愉しそうに。
ダンテはそんなバージルに脱力してしまった。
「なんだ、そりゃ……」
どんな衣替えだ、とか、どこの誰がこんなふうに衣替えするんだ、とか、突っ込みたいことは
あったけれど。ダンテは力なく微笑むだけで。
「……もう、アンタの好きにしてくれ」
四肢をだらりと投げ出して目を閉じた。もしかすれば、また服を買ってくれるつもりかも
しれない。バージルの選ぶものだから、きっとダンテの好みとはずれているだろうけれど、
それでもダンテは、きっと好んで着ると断言出来る。だって、
「眠るのか?」
「ん……」
曖昧に頷けば、爪の伸びた手が髪を撫で。狂気じみた行動をしていたかと思えば、これだ。
ダンテは内心で笑い、バージルの爪と指を感じながら眠りに落ちた。腹は減っていなくもないが、
今は妙に眠りたい気分だった。
春が、来る。
密やかに、けれども確かなその気配を。
触れる爪の鋭さに感じるのは、ただひとり。
頂いたネタを恥ずかしげもなく使いまくる吉見です。(挨拶)
物騒兄ぃが好きです。振り回されダンテが大好きです。
救いようありません。(私の脳内が)