唇紅クチビル









ひとつ、噛んだ。
ぷつりと溢れた紅い玉は、まるで。







誰かの声で、目が覚めた。









近頃どうも、バージルの機嫌がよろしくない。もともと機嫌の良い時の方が少ないだけに、 慣れているといえば慣れているのだけれども。ダンテには、バージルの機嫌が悪い原因がどうにも 判らず、だからこそ少なからず不安なのだ。

バージルは感情の起伏がかなり乏しい。割合としては怒っている時が多く、その原因はだいたいに おいてダンテが中心にいる。バージルがダンテに関係した以外の物ごとに感情を動かすことは、 まずないと言って間違いではない。
その、兄が。今はダンテの判らぬ何かに腹を立てている。それが、ひどくダンテを落ち着かなく させた。

(…………)

ここ数日――――バージルの機嫌が下降を始めた日を境に、バージルはどうしてか、目すら 合わせてくれなくなった。触れてもいないのだから、セックスなどしていよう筈がない。
毎日のように髪を梳いてくれていたというのに、ダンテが洗い晒した髪から雫を滴らせて いようが見向きもしない始末だ。

(なんで……)

バージルの指先の優しさを想い、ぐ、と込み上げた涙を、唇を噛み締めて飲み込んだ。





境となったその日に何があったのか、ダンテは朧気にすら覚えてはいない。





それはほんの小さな、だれも気付かぬ程の僅かな綻び。









「バージル……?」

朝、バージルがキッチンにいないことなど初めてで、ダンテはらしくもなく戸惑いを覚えた。
いつもならばダンテがリビングに入る前に、薄めのエスプレッソを淹れてくれているのだ。 それが今日に限って、何故。

(まただ……)

バージルの姿が見えないだけで不安がいっそう募る。もしかすれば、バージルはもうこのまま 戻らないつもりかも知れぬのだ。

前に捨てられた時も、そうだった。

何も言わずに突然姿を消して、挙句にダンテを殺そうとした。結果的にはダンテとともに こちらに戻って来てくれたけれど、――――そう、あの時から既に、ダンテは不安で堪らなかった のだ。
バージルがいつまた、不意に姿を消すかもしれない。いや、もしかすればバージルは魔界に 墮ちており、帰って来たというのはダンテが作り出した夢なのかもしれない。
夢ならば、いっそありがい。醒めさえしなければ、二度捨てられることはないのだから。

バージルにもう一度捨てられるようなことがあれば、ダンテはおそらく狂ってしまうだろう。 それでもなお死ぬことの出来ぬ躰を引きずり、悪魔を狩り続けるのだろうか。

兄の帰りを、待ち続けるのだろうか。

考えただけで寒気に似たものが全身を襲う。ダンテは自分を抱き締めるように肩を抱き、 ぎゅっと目を瞑った。

「バージル……っ」

捨てないで。何度繰り返したか判らぬ言葉。その断片すら、バージルには届いていないのだと、 ダンテは知っている。
双子の片割れを必死になって取り戻そうとするのは、ダンテだけ。バージルはその気になれば いつなりと、ダンテを捨てることが出来るのだ。

求めているのは、自分だけ。

セックスこそ、ダンテが誘うことはめったとないが、言葉や行動にしないだけで、本当に したいと思っているのはダンテの方だと、バージルは知っているのだ。だからバージルは、 誘わずともダンテを抱いてくれる。激しさを望めばその通りに。優しさを求めればどこまでも 慈しんで。

「……俺は……」

やはりバージルにとって、重荷になっているのだろうか。こちらから与えるものなど 皆無というのに、ダンテはいつでもバージルの総てを求めてしまう。
それは甘えというにはあまりにも一方的な、ただの我儘だ。

「バ……ジ、ル……」

舌がうまく回らないのは、どうしてだろう。ダンテは頭の片隅でぼんやりと思った。口の中に 何かがあるらしいと気付き、舌でまさぐる。尖った何かが舌に引っ掛かった。それが自身の異常に 鋭く伸びた犬歯だと、舌を貫く感触で初めて気付いた。

「……ぁ、っう……?」

自分の血の味は、ひどく生臭く喉に染みた。

悪魔の力を発現させたのは、一年も前のことではない。それもバージルに心臓を刺し貫かれた ことがきっかけであり、ダンテの血に宿る本能が自己を守る為に無理矢理扉を押し開けたような ものだった。
テメンニグルはこの世と魔界の境にある、空間そのものが魔力に満ちていた。その内部に あったからこそ、ダンテは自身を保ちつついくつもの魔族と契約を交わし、その力を得られた のだ。

テメンニグルの一件以来、ダンテが力を制御出来ずにオーバーヒートを起こすことは、少なく なかった。









躰が体温の調節能力を失うとこうなるのか、とダンテは床に這いつくばってぼんやりと考えた。 脳は上がりすぎた体温の所為か、全く回っていないらしい。感じるものは自らの体温を吸った 床板の熱さと、喉を焼く血の臭いのみだ。
牙――――と呼ぶのだろう――――が槍の尖端のように舌を突き、肉を裂く。じくじくとした 痛みを厭って口を大きく開けるが、牙は肉を追うようにして伸び、貫くばかり。床に血と唾液の 混じった小さな池が出来、不快な臭いにダンテは躰をよじった。

「ぅあ……ぁ……はっ……」

漏れる息の熱にすらうなされるように。ダンテは血を吐きながら涙を溢れさせた。

バージル。

求めるものの名はただ一つ。けれどその声は届かない。

「っは……ぁ、じ、……ば……じ、る……」

呼ばわった先には何もないのだと、思いたくないのに。









不快なばかりの鉄錆に混じって、何か甘い匂いを喉が感じる。
ふっと、いつの間にか落ちていたらしい意識を取り戻した。焦点が次第に収縮し、目の前に あるものをはっきりと映し出す。それは、気が遠くなる程呼び求めた、双子の兄の美貌。

ダンテは無意識に笑みを浮かべた。バージルの腕に抱かれているらしく、床の固さを 感じない。

「ぁ……ジ……」

バージルの名を呼ばわろうとして出来ず、ダンテは口に何かを銜えていることに気が付いた。 自らの牙でずたずたになった舌を這わせ、目を瞠る。バージルの長い指だ。そしてこの甘い匂いは、 バージルの血――――

己の牙が、バージルの指に深々と突き刺さっている。

ダンテは慌ててバージルの指を離そうと顎をこじ開けようとするが、バージルが何故かそれを 制した。戸惑うダンテを見下ろし、バージルが言う。

「遅くなって済まなかった」

どうしてバージルが謝るのか、ダンテには判らない。ただバージルに捨てられなかったと いうことだけが、ダンテの心を満たしていた。

バージルはダンテに自らの血を吸わせながら、眉間に寄った皺を深くする。

「落ち着いて、聞け。良いな」

うん、聞くよ。バージル。アンタの言うことなら、なんだって。

「お前のそれは、魔力のたがが外れる予兆だ。外れてしまえば、お前の意識は四散し塔で契約を 結んだ悪魔がその躰を喰い破る」

悪魔は未熟なものを主とは認めない。力の制御も満足に出来ぬ半魔に、どこまでも従うもの ではないのである。
ダンテはしかし、ぼんやりとしてバージルを見上げるばかりだ。

「意識を俺の指に集中して、そのまま噛んでいろ。少し痛むぞ」

「……ぅ、ん……」

バージルになら、どうされようと構わない。
ダンテはバージルの指を噛み、血を啜りながら笑った。バージルが美しいおもてに渋面を浮かべ、 おもむろにダンテの首筋に犬歯を立てた。ダンテのそれのように鋭く伸びた牙の尖端が、皮膚を 破り肉を侵す。ダンテの躰が、意図せず跳ねた。

「っ……ぁ! ……!」

ず、と血と何か得体の知れぬものが吸い出され、そして流し込まれる生々しい感覚に全身が 痙攣する。ダンテは堪らずバージルの指を深く噛んだ。肉を抉られるような痛みと未知のものへの 恐怖に、乾いていた涙がまた溢れ出した。

バージルが空いた手で、ダンテの髪を鷲掴みにするように指を絡めた。くん、と抜けるのでは ないかと思う程に髪を引かれ、ダンテはしかし痛みよりも安堵を覚えた。
バージルの指が頭に触れ、髪を梳いてくれる。そうする間も得体の知れぬ何かが躰中を のたうつが、恐怖は明らかに薄れている。俺の指に集中していろ。そうバージルは言ったでは ないか。

恐れる必要はない。

ダンテが恐れるものは、バージルに捨てられること、ただそれだけなのだから。

「っん……!」

びり、と背筋が震えた。体内を侵す何かが、ダンテの中で言い知れぬ快楽に変わる。バージルが 己から吸い、そして流し込む何かの這い回る感触にに、ダンテは掠れた喘ぎを漏らした。

「ん……ふぅ……っ」

次第に牙が元の形に戻り始めていることに、ダンテは気付かない。バージルの指先に舌の裏を なぞられて、ダンテははっきりと下肢に集まる熱を感じた。

「んふ……っぁ……じる……んっ」

バージルがぬるりとダンテの首筋から牙を抜いた。丸い穴が二つ、ぷつりと開いている。 ダンテの口から指を引き抜き、顔を上げたバージルの瞳は、紅い。

「……バージル……」

見上げる目はきっと、慾情しているのだろう。バージルの紅い瞳が笑った。

「……落ち着いたか?」

「まだ……って、判ってんだろ?」

判っているくせに訊いてくるは、いつものこと。くつくつと笑うバージルを、じとりと睨む。

「なぁ、今の……何したんだ?」

「……お前の魔力に、俺のものを混ぜただけだ」

「だけ、って、何だよ、それ。アンタそんなこと……」

「数日前から前兆があったからな、調べていたんだ。ようやく魔力を融合させる方法に辿り着いて 帰って来てみれば、お前が血を吐いて倒れていた」

間に合わないかと思ったが。語るバージルは無意識にか、ダンテの髪を指に巻き付けては ほどいて遊んでいる。

「前兆?」

「覚えていないのなら、それで良い」

何があったのか訊こうとして開けた口を、閉じる。喉の奥に何か甘いものの匂いが蘇って、 消えた。バージルが良いと言うなら、それは思い出す必要のないものなのだ。
大事なことは、バージルが自分の為に方策を案じてくれたということ。

「だから、ここんとこずっと……難しいカオしてたのか?」

怒っていたのか、とは、何となく訊けなかった。

「あぁ」

短い答えに、ダンテは目を瞑った。何故だかひどく瞼が重い。

「眠れ。まだ魔力が巧く混じっていないのだろう」

眠っている間に、違和感はなくなっている筈だ。

バージルの低い声は子守歌のようで、ダンテは柔らかな笑みを湛えて眠りに落ちた。





次に起きた時に、バージルはきっとそばにいる。
いなくなることへの恐れは、完全に消えたわけではないけれど。

今この眠りだけは、安らかに。









「ダンテ、」





呼び覚ます声は、この世の唯一。



















戻。



リハビリ週間?第8弾。頂いたネタでございます。
いっそ壊れてみれば良いんじゃ…と思ってるのは秘密。
やってる最中にがっと兄の肩に噛み付くのも考えたんですけど…
なんとなくやめました。何となく。