黒鳴クロノナキ









黒い猫が、尻尾を垂らしてダンテの膝にひょいと乗った。痩せた猫は確かに小さく、 さしたる重さも感じぬのだろう。ダンテは猫に乗られても、全くぴくりでもない。
猫はダンテの膝でひとつあくびをし、折り畳んだ前脚に頭を預けて目を瞑った。







「お前も一回洗ってやろうか」

良いことを思い付いたとばかりに、ダンテがへらりと笑う。黒猫――――ダンテにユタと 名付けた元野良――――は自分を抱き上げるダンテをじっと見つめ、詰まらなさそうに目を 細めた。

「あ、おま、今馬鹿にしただろ」

罰としてシャワーの刑だ。などと。楽しそうに言うダンテに、ユタはやれやれと言いたげに あくびをした。

ユタがダンテに拾われた経緯に、さして特別なことは一つもない。ユタは捨てられていたわけ でもなく、飢えていたわけでもない。人に飼われた経験のないユタだったが、どうしてか、 ダンテには酷く惹かれるものを感じたのだ。いや、ダンテは一言にひととは言えぬ生き物であり、 ユタにはそれが初めから判っていた。
そのひとではない部分が、自分を惹きつけたのだということも。

風呂だ、風呂、と無意味にはしゃぐダンテに抱き抱えられ、ユタは強制的に風呂場に連行された。 毎日毛繕いは欠かさずしているのだから、それ程汚れているとは思わないのだけれど。ダンテは ユタの言葉など判らないし、人の目と猫の目では、映り方も違ってくるのだろう。

「にゅう……」

諦めの入った鳴き声に、ダンテはやはり気付かない。








動物は長い歳月を経ると、時に自然の理に反した変化を遂げることがある。そうして“生まれた” ものは人間にはおおむね忌避されるもので、多くは姿を隠し、息を潜めている。ユタはその中で、 街に棲みひとを見つめる変わり種だった。

自分がいつ変化したかなど、記憶にない。随分昔のことだからかどうかすら、よく覚えては いなかった。ただ、ひたすらにひとを見つめ続けて来た。
物好きな、と言ったのは生まれた時から知っている変化だ。
確かに物好きだと、自分でも思う。少しでも正体が露見すれば、残酷なひとはユタを殺し かねない。心配もされているのだと、ユタは判っていながらもひとを見つめることを やめなかった。

誰か、と。

いつも一匹で鳴いていた。

ひとに飼われたいわけではなく、少しだけ、ほんの少しで良いから、ぬくもりが欲しかったの かもしれない。

ひとは残忍だ。酷い傷を負い、泣きながら死んでいった変化の骸をいくつ見ただろう。それでも ユタはひとの側にあり続けた。
そんな途方もなく無為な時間を、その日もまた刻んでいた時だった。嗅ぎ慣れぬ匂いがして、 あまり近付いたことのないスラムの一角に足を延ばした。







つんと鼻をつく柑橘の香りに、ユタは小さな鼻をひくつかせた。良い匂いなのかもしれないが、 猫の鼻には少し刺激が強すぎる。もぞもぞと身じろぐユタに、素裸になったダンテが嬉しそうに 言う。

「ゆー……ユズ、って言うんだとよ。バスタブに浮いてる緑の塊な」

塊と言うよりはゴルフボールと喩えるべきだろう丸いものが、いっぱいに張られた湯に ぷかぷかと浮かんでいる。ダンテ曰く、バージルが日本人街の店で購入した輸入ものらしい。

それにしても、ダンテは初めから自分が風呂に入るつもりでいたようだ。当たり前のように服を 脱いだダンテは、子供のようにユズを指でつついている。
自分はついでか。
ちょっと不貞腐れたユタの首根っこを、不意にダンテが摘み上げる。

「このまま入れたら拙いか……」

ダンテの独り言に、ユタは頷く。第一湯船にそのまま放り込まれたのでは堪らない。泳げない わけではないが、正直まだ、このきつい香り自体に鼻が全く慣れてない。
じたばたするユタをまた床に下ろし、ダンテは仕方ないと風呂桶を取り上げた。浴槽の湯を ひとすくい、ついでにユズを一つころりと入れる。

「これなら良いだろ。ほら、ユタ、入れー?」

やはり子供だ。ユタはにこにこしているダンテを見上げてひとつ鳴き、そうっと風呂桶に脚を 漬けた。熱くはない。が、やはり匂いはどうにもならない。

ちゃぷり。

我慢強く風呂桶にすっぽりと収まったユタを見て、ダンテが満足そうに笑った。

「気持ち良いか? 後でちゃんとからだも洗ってやるからな」

と。まずは自身の躰を洗うのだろう。ボディーソープをタオルにつけ、泡立てる。ユタには ユズよりもそちらのソープの匂いの方が断然好ましいのだが、猫の言葉の判らぬダンテに訴えた とて仕様のないことだ。





もみくちゃにされるように全身を洗われ、へろへろになったところで頭から湯をかぶせ られた。力ない鳴き声が届いたかどうかはともかく、ダンテによって抱き上げられ、湯船に 入れられた。一匹で、ではない。ダンテが一緒だ。
ダンテの膝に伸びた体勢でへばりつく。長い尻尾が湯に浮かんで、時折ぶつかってくるユズを ぴしりとはね除ける。尻尾に何かが触れるのは好きではないし、匂いの元を出来るだけ自分から 遠ざけたかった。――――無駄な努力かもしれないが。

「あー……気持ちいい……」

ユタのささやかな戦いには気付かず、ダンテはふと間延びした溜息を吐いた。その表情は本当に 気持ちよさそうで、溶けるのではと思う程にリラックスしているようだ。

「にゅー……」

「ユタぁ、おまえその鳴き声、やっぱ変だって」

生まれつきなんだ。仕方ない。

ユタがぼそりとぼやくと、ダンテは何故か「そっか」と呟いた。

「生まれつき変なんだ」

失礼極まりない。が、ユタはじっとダンテを凝視した。言葉は通じない筈だった。それが、 今確かに“会話”をしていた。これはいったいどういうことなのだろう。
ユタが驚き惑っていることに気付いていないのか、ダンテは目を閉じ、ぼんやりとしている ようだ。

「にゅう、にゅ……」

寝るな、こんなところで。

膝を揺するが、ダンテは小さく首を振るだけ。

「んん……」

今し方の受け答えは、ただの偶然ではないだろう。ユタはすっかり寝入るつもりらしいダンテの 膝を離れ、湯船の縁にしがみついた。器用に縁に乗り、すすすっとダンテの頬に身を すり寄せる。

「……にゅ……」

うっすらと赤みのさした白い頬は暖かい。ユタの濡れた毛の感触に、ダンテが不快を感じてか 眉をぴくりとさせた。が、閉じられた瞼は持ち上がることなく、息は次第に緩く、深いものに 変わっていく。
ユタは尾をひと振りし、湯船の縁から床にひょいとおりた。綿毛でも落ちたかのように、軽い。 猫なのだから当然のことだが。

黒い毛並みにしっとりと纏わりつく水気を躰を震わせて弾き飛ばして、ユタはふいとドアを 見上げた。ぴったりと閉じられたドアのノブが、誰かの手に捻られるかのようにくくっと回る。 それからドアがやはりひとりでに開き、僅かな隙間を作った。ユタはするりと隙間を抜け、 マットで肉球を丁寧に拭っておいて駆け出す。
その背後で、またドアが誰かに押されたかのようにぱたりと閉まった。



ユズの香りを振りまき、ダンテ曰く変な鳴き声を上げてドアを引っ掻く黒い猫に、バージルは 怪訝な顔をした。しかし何かしら察したらしく、肩を竦めて階下に降りて行くバージルを見送り、 ユタもまた内心で肩を竦めた。





小一時間程して、ユズの香りを染み込ませたダンテがバージルに抱えられて部屋に運ばれるのを、 ユタは廊下の奥から眺めていた。暗がりにも光らず、完全に闇に溶けた瞳の見つめるものは、 のぼせて意識がなくなっているのだろうダンテだ。

少しずつ、ダンテとの繋りが深いものになっていることを認識して、闇色の猫はひとつ 鳴いた。



















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猫もの第3弾をお届けです。初めての猫主観。…微妙;
お猫様が普通の猫ではないことを、やたら主張してみました。