寄想
前触れは、あった。しかし気付いた時には既に遅く、視界はすうっと黒に染められて
しまっていた。
あぁ、倒れる。
こうなってしまえばもう立ってはいられなくなることを、彼は最近になって知った。
昨晩、日付も変わろうかという時間になってエンツォから電話が入った。居留守をするか、と
普段なら思うところだが、生憎その時は電話を取らざるを得なかったのだ。兄の、陰湿な遊びから
逃げる為に。
結果的には完全に逃げることは出来ず、半端にバージルを煽ることになってしまったのだが、
それは今は置いておく。
とにもかくにも、エンツォはえらく切羽詰まっている様子だった。
頼むから請けると言ってくれ、と、いつもならどんなに焦ってもある意味で余裕を失わない
エンツォが、見えないがきっと必死の形相なのだろう勢いでまくし立てて来たのだ。
ダンテは首を捻りつつ、仕事を請けた。エンツォが早口に言う仕事の内容に、どうも第六感に
引っ掛かるものを感じたからだ。
久しぶりに来たか、とダンテは受話器を置きながらにやりとした。悪魔絡みとなると、ダンテの
テンションは上がるばかりだ。もしかすれば外れかもしれないが、ものは試しである。ここ暫く
悪魔絡みの仕事がなかった所為もあり、ダンテはエンツォに恩を着せつつ仕事を請けたの
だった。
エンツォが何故あんなにも焦っていたのか、深く考えることもせずに。
どさりと床に倒れ込む。そうなる筈が、どうしたことか躰は冷たい床に横たわることは
なかった。
誰かの腕に支えられているのだと、閉じかける意識の片隅でそれだけを認識する。
それはある意味で手の込んだ、しかし陳腐な罠。
指定されたのは、ダンテが初めて足を踏み入れるバー。奥まった個室じみたボックス席に
導かれ、面倒だと思いながらも革張りのソファーに腰掛けた。
依頼主はダンテを待ち侘びていたように、本人だけが魅力的だと思っている微笑を浮かべて
ダンテを迎えた。
執拗に肩や腕、脚に触れようとする依頼主に辟易して、ダンテは嫌悪を隠しもせずに依頼主を
睨み付けた。早くあんたの言うビルに案内しろ、と。
聞けば、とある廃ビルを買い取り新しい高層ビルに建て替えようとしているらしい。しかし
いざビルを取り壊す段になって、工事に取り掛かろうとした業者が次々に奇妙な死に方をする。
気味悪がって他の業者は仕事を請けようとはせず、工事は事実上停止したままなのだそうだ。
ダンテの仕事は、その廃ビルを調べ、原因を見つけてそれを排除すること。
依頼主は件のビルに何か得体の知れないものが棲んでいると信じているらしく、場所は
教えられても案内は出来ない、などと言い出した。ダンテにすれば、この不快な男とは早々に
別れたかったのだから、願ってもないことである。
ビルは、意外にも市街の真ん中にあった。立地的には一等地であろう。しかしその一等地に
建つビルが、何故廃ビルになってしまったのか。もっとも、そんなことはダンテには関係も
なければ興味の欠片もないことだ。
周囲の人工的な明かりに照らされた無人――――であろうビルは、不気味な化粧を纏っている
ように見える。ダンテはフェイクファーのコートを翻し、憶することなくビルに足を踏み入れた。
中は当然だが、暗い。窓から僅かに射し込む明かりが、ぼんやりと薄汚れた壁を照らす程度だ。
何もない、という印象しか持ちようのない、がらんとしたビルの内部。ダンテは肩を竦め、
階段を上った。依頼主は何かがこのビルに棲んでいると信じて疑わなかったが、そんな気配が
あるようにはダンテには思えない。本当にここに悪魔やそれに繋がるものがいるとすれば、
こんなにも空気が軽いわけがないのだ。
これはハズレか。
舌打ちをしながら、ダンテはおもむろに腰のホルスターから銃を引き抜いた。手首を捻って
背後に銃口を向ける。引き金にあてた指は軽い。
「やっぱりハズレか」
いつもの軽い口調で、ダンテはさも詰まらないとばかりに呟いた。独り言ではない。ダンテの
背後には、銃を突き付けられた男が一人。前方にも五、六人、いる。
何のことはない。ビルの取り壊しを請け負った業者は、この男たちによって殺されたの
だろう。もしくは、業者の死そのものが作り話であるか。後者の場合、依頼主がダンテを
騙していたことになる。
暗がりから姿を現わした男は全部で七人。この男たちが依頼主と結託しているかどうかなど、
ダンテにはどうでも良いことだ。
詰まらない。エンツォはどうせ、あの依頼主に銃でも突き付けられて自分に電話をして
来たのだろう。本当に詰まらない。何の為にあの依頼主がそんな真似をしたのか、考えたくも
ない。
「ったく……」
忌々しげに舌打ちし、ダンテは銃の引き金を引いた。勿論、殺すつもりはない。サイレンサー
など付けていない銃声は、慣れていなければ暫く耳鳴りがする。ダンテの愛銃は特に音がよく響く。
銃に慣れたものでも、至近距離にいては堪ったものではないだろう。
案の定、ダンテを背後から襲おうとした男は、ぎゃあ、と情けない声を上げて床に蹲った。
ダンテはそんなものなど見向きもせず、前方へ向けて挑発する。
「来いよ。その為にここで張ってたんだろ?」
指でちょいちょいと手招きすれば、カッとなった男が銃を乱射して来た。しかし理性はまだ
あるらしく、狙いは足許ばかり。ダンテの命が目的ではないのだと、すぐに判った。まずは
身動きを取れなくし、ダンテの身を確保するつもりらしい。
そんな悠長なことで良いのかねぇ。
ダンテは軽く床を蹴って跳躍し、あ、と男たちの見上げる中で躰を捻って天井を一つ蹴る。
その間に、ダンテはもう一梃の銃を構えていた。弾丸は六発。唖然とする男の手首の筋を、
それぞれの弾が正確にかすめて床にめり込む。
ひぃ。ぎゃあっ。それぞれが叫び、床に降り立ったダンテを囲んで転げ回る。ダンテは
やれやれと大袈裟に肩を竦めた。
「んな痛がんなよ? たかが手首の筋じゃねぇか……」
言いながら、ダンテは不意に頭がぐらりと重くなった気がして、額を押さえた。拙い、これは。
悟った時には既に遅く、視界は黒に染まろうとしていた。
「っ、ぁ……」
駄目だ。今倒れたら。どうにか脚を踏ん張ろうとするが、無駄だということをダンテは
知っている。いや、成り行き上、知らざるを得なかったのだ。
こんなところで、よりにもよって。
恨みがましく双子の兄を呪いながら、ダンテはぐらりと傾く躰を自分で支えることが
出来なかった。
誰かが彼の躰を受け止める。それは、初めにダンテを背後から襲おうとした男だった。
「手間取らせやがる……」
何が薬を盛った、だ。効くまでに自分以外の全員が、暫く銃も扱えぬようにされてしまったでは
ないか。舌打ちをした、その時。
「我らが主に触れるな」
「その薄汚れた手を退けよ」
自分たち以外には何もいない筈の部屋に、嗄れた声が響く。何、と男が暗がりを見回した。
その視界に、奇妙な光景が飛び込んで来る。
手首の筋をやられ、呻いていた仲間が二人。何故その二人なのか。今の今まで蹲って激痛に
苦しんでいたというのに、全くの無言で立ち上がったからだ。しかも二人のシルエットは奇妙な
ものだった。
腕が、ごきごきと音をたてて変形している。それも、片腕だけが。一人は右腕。もう一人は
左腕が、変形していない腕の倍はあろうかという逞しいそれになっていくのである。そして屈強と
化した腕には、奇妙な形状の“何か”をひと振り、それぞれ携えている。
呆気に取られる男の背後から、上階に潜んでいた仲間が降りて来る足音がした。確保したか、と
問う声に、男は答えられなかった。合流したのは、男と同じ穴の貉であろう男が八人。ダンテの
評判を知っていて、もし下の七人で手に負えない際に備えて控えていたものらしい。
彼らはぐったりとしたダンテを見て笑みを浮かべたが、苦しむ仲間の中に異様な影を見つけ、
訝る。
「何だ、お前ら」
「その腕は何だ」
問う声に、答えはない。いや、問いに対する答えがないと言うべきだろう。
応えは、あった。ただし彼らの全く知らぬ声で。
「兄者、我らは何ぞと問うておるぞ」
「ふむ、考えたことがない故、答えようがない」
「然り。我らは何ぞや」
「我らは何ぞや」
繰り返す、その声そのものは恐ろしい響きがあるのだが、やり取り自体は妙にずれている。
存在を忘れられていそうな男たちは、どう反応したものか判らない表情で立ち尽くすしかない。
「兄者、我に思い浮かんだぞ」
ぎし、と変形した腕がのこぎり状の刃をした剣を構えた。
「我らは主を護る者」
その言葉を受け、もう一方もまた同じ形状の剣を構える。
「まさしく然り。ゆくぞ、主に害なすものを排除すべし」
「応」
背中合わせになった二人が、同時に駆け出す。ぎくりとした男たちは、慌てて銃を構えて闇雲に
引き金を引く。しかし撃ち出された弾丸のいずれも、突進する二人を止めることは
出来なかった。
弾は、確実に当たっているのだ。それなのに、止まらない。仲間である人間を躊躇いなく
撃ってしまう程、彼らは動揺していた。何故。疑問が一層彼らを困惑させ、次の瞬間には
ぎざぎざの刃に腕を切り裂かれていた。
「ぐぁっ……」
血が飛び散り、まだ無傷でいる男を恐怖させる。次の瞬間には、駆け付けた全員が銃を手に
していた腕をぼろ切れのようにさせて床に這いつくばっていた。
全身を穴だらけにし、血にまみれた二人の狂人が愉悦に満ちた声をあげる。
「おぉ、久しく浴びぬひとの血の、何と甘いことか」
「然り。今暫く、甘きひとの血を堪能しようぞ」
舌なめずりすら聞こえてきそうな不吉な声と言葉に、男たちは恐怖に戦慄した。何だ、これは。
今まで弱いものを怯えさせたことしかない彼らは、自分たちが狩られるという立場に立たされて
初めて、恐怖に打ち震える。
不吉な声は、じわりじわりと彼らを追い詰めた。
「ひ、ひぃ……っ」
助けてくれ。這いずって逃げる男を、のこぎり状の剣が追い詰め、襲う。その時、
「兄者よ、」
ぴたりと剣が止まった。
「うぬ?」
「今は主の無事を優先させようぞ。ひとの血なぞ、いつなりと味わえるではないか」
「……然り。我としたことが、主を失念するとは」
舌打ちし、剣を引く。殺されると思い込み、かろうじて命を拾った男は股を濡らした
情けない姿で失神している。
二人は血まみれのまま、意識の戻らないダンテの傍らに膝をついた。そして一方を「兄者」と
呼んでいたものが、ダンテを軽々と抱き上げる。さも大事なものを扱うかのように、そっと。
手には剣を握ったままだが、邪魔ではないらしい。
「主よ」
ダンテを抱き上げた男が、愛おしそうに囁いた。ふ、と男の持つ剣が青い光を放ち、同時に
強い風が吹き荒れる。明らかに自然では有り得ぬ風に応じるように、もう一人が手にした剣が
赤く光り、こちらは赤々とした炎を撒き散らす。
風に煽られた炎は凄まじい勢いで拡がり、血を流す男たちに今にも襲いかかろうと勢いを
増す。
誰が初めか、我先にと必死に逃げ出した男たちを、しかし炎と風の渦が追うことはなかった。
不自然な嵐が消えた時、部屋には誰の姿もなくなっていた。
暗い、路地。アグニの生み出す炎が小さな明かりとして空中に浮かんでいる。さながら火の玉の
ようだが、目にするものはいない。
彼らは今夜の仕事に、ダンテの共として連れられていた。いや、彼らが我らを共にと強く請うた
のだ。
何か嫌な予感がした。今となってはそう言える。
アグニがふと、ダンテの頬を撫でた。張りのある膚は、しかし柔らかい。ルドラの腕――――
正しくはルドラが寄生した名も知らぬ男だが――――に抱かれたダンテの、長い睫毛が
ふと震えた。
覚醒するのだろう。薬を盛られたと聞いたが、ダンテの躰が弱っていたからこそ効いたのだ。
それでも効果としては、本来の半分も続かなかったのだろうことが判る。
「……ぅ、ん……」
見知らぬ男に抱き抱えられていると知れば、ダンテは殺気立ってしまうかもしれない。アグニは
ルドラを促したが、ルドラはダンテの顔を覗き込んだまま動こうとしない。肩を竦めて、ダンテの
目覚めを待った。
薄く持ち上がった瞼。硝子玉のような瞳は炎の赤を映して煌めいている。
あぁ……
二人はどちらともなく溜息を吐いた。ダンテはやはり、美しい。
「……っだ、れだ……?」
掠れた声が上がり、ダンテがルドラの腕から逃れようとゆるく抗う。
「…………」
アグニは無言で、ダンテの腕を取った。何を、と振り払おうとするダンテの手首を、さして力も
込めずに掴み。そっと。白い膚に口付けを。
驚いてか、ダンテが顔を強張らせた。それを空気のみで感じながら、がらん、と音をたてて
“アグニ”がアスファルトに落ちる。同時に男の躰が崩れるように倒れた。
「……ぁ……」
竦んだようになるダンテを、やはり言葉はなくルドラが抱き締める。この姿でダンテに
触れるのは、本意ではない。しかし。
「…………」
存在することすら知らなかった心というもので、叫ぶのは一つの言葉。
衝動を抑え込み、ルドラはどこか茫然とするダンテの、薄く開いた唇に口付ける。ほんの少し、
触れるだけのもの。それだけで満足するしかないのだと、奥歯を噛み締め。
また一つ、アスファルトに剣が落ちる。
沈黙を守るそれらを見つめ、ダンテは暫く、その場から動くことが出来なかった。
アグルドダンです。頂戴したネタを使わせて頂きました。