涙望
まだ夜明けの遠い、夜半。ダンテは弾かれるように目を覚ました。
息が止まっていることに気付かず、見開いた瞳で自身を見下ろす。夜目にぼんやりと輪郭のみ
見える、手。腕。腹。毛布に隠れた脚。変わったところは何一つない。しかし、なかなか息を
することが出来なかった。
こわい。
何にか判らず、ぶるりと躰を震わせた。その時、どうした、と低い声がかかり、ぎしりとベッドが
軋む。兄が目を覚まし、躰を起こしたのだ。
背中に触れる兄の手を感じ、咄嗟にびくりとその手を払ってしまう。
「ぁ……っ」
気付いた時には、遅い。ダンテはしかし、謝るよりも先にベッドの端に逃げていた。何故
そんなことをしたのか、自分でも判らない。無性に怖かった。
どうした。兄が再び問うて来る。その声音に怒りはなく、こちらを案じる色がありありと
伝わる。ダンテは不意に、泣きたくなった。
ごめん、
謝る声は、情けないが震えている。兄が訝るのは当然だ。
ダンテ。兄の自分を呼ばわる声が、ダンテは好きだ。昔から、この声に名を呼ばれるのが好きで
堪らない。髪を梳いてくれる手と指も、好きだ。
それなのに、今は。
怖い。
――――こわい。
闇の中から、ぬぅと伸びた腕が手首を掴もうとする。ぎくりとして逃げるダンテを、兄の声が
押しとどめた。逃げるな。やはり怒りはなく、どこか寂しげにすら感じる声。
ダンテははっとして、しかし自ら兄との距離を縮めることは出来ず、兄の手が手首に絡むのを
ただ見つめていた。
ぐい、と引き寄せる力は強い。しかし思いの他柔らかく、ダンテは兄の胸に倒れ込んだ。
背中に、というよりも腰に回された腕が、より近くに引き寄せる。抱き締める、その暖かさに
ダンテはきつく目を閉じた。
ダンテ。
兄の、声。息をしろ、と言われ、ダンテは曖昧に頷いた。息、してないのか。他人事のように
思う。兄がまた、息をしろ、と繰り返す。ダンテは兄の肩に顔を擦り付けるようにして、首を
左右にした。
判らない。
息の仕方が、どうしても思い出せないのだ。
ぎゅう、と兄の寝着を掴む手が震える。耳許で、兄の溜息が聞こえた。瞬間、躰が離される。
嫌、と言う間は与えられず、そう思った時には唇を塞がれていた。
閉じた唇を、舌でなぞられる。甘噛みをするように柔く食まれ、ぞくりと背筋が粟立った。
唇がわななくように薄く開き、するりと差し込まれた兄の舌が口内をまさぐった。
歯列をなぞり、歯茎を撫で。口蓋をくすぐり。小さくなって震えているダンテの舌を、
悪戯っぽくつつく。おずおずと舌を伸ばせば、兄がふっと笑うのが気配で判った。
搦め取られる、舌。どちらのものとも判らぬ唾液が顎を伝う。
ダンテはいつしか、自ら求めるように舌を絡ませていた。はふ、とくぐもった溜息が漏れる。
息。意識しては出来なかった息を、無意識に繰り返していた。
兄はそれを判っていて、しかしすぐに唇を離すことはしない。ダンテがもっとと
求めるからだ。
深く舌を絡め、時に啄むような触れるだけのキスを。緩急を付けたキスは、確実にダンテを
追い詰める。しかし息苦しさはなく、ダンテはうっとりとすらなって兄に縋りついた。
僅かに離れた口の端で、兄の名を呼ぶ。バージル。言外に込めた意味を、兄は正確に悟って
くれるだろう。もう一度、呼ばわった。
バージル……。
言葉には出来ぬ“それ”を、声にすることが出来たなら。もしかすれば、今よりも仕合わせに
なれるかもしれない。
哀しい結末を、たとえ夢であっても見ずに済むかもしれない。
けれど。
戒めは、簡単には解くことが叶わない。
ダンテ。
名を呼ばれ、頬や目許に這う舌に、自分が泣いているのだと気付く。なんて情けないのだろう。
一度ならず二度までも拒んでしまった兄の腕が、こんなにも暖かい。
どうした、とは、兄はもう訊いては来なかった。
ダンテは涙を流しながら、泥濘に沈むように眠りに落ちた。
耳に、何か慣れない言葉を聞いた気がしたが、意識を手放すことで認識することを放棄する。
夢を、見た。
恐ろしい夢を。
けれども夢の中の自分は、どうしてか仕合わせそうで。
狂っているのだと、すぐに判った。
恐ろしい夢を見た。
あまりに恐ろしくて、子供のように泣いてしまった。
しかし、心の中で膝を抱いた自分がぽつりと呟く。
……うらやましい。
恐ろしくて、けれど酷く羨ましくて。
そんなふうに思ってしまう自分が、怖い。
それは羨望か、それとも渇望か。
狂った先にある“仕合わせ”を、手に入れたいと思ってしまった。
とある話の続き、というふうに見えなくもないかと。