恋歌
水が滴る。蛇口が緩いのだろう。さっきシャワーを浴びた時、しっかり締めそこねたらしい。
ぴちょん。ぴちょん。
気が付いてしまえば、耳障りな音。だが、わざわざ蛇口を締めに行くのも面倒だ。
ついでに言えば、こいつも。
「違うことを考えているな?」
こちらを覗き込むように視線を合わせ、笑う。そんな余裕、すぐに出来なくなる。雄弁に語る
その目が、酷く煩わしい。
しかし彼は拒むことなく、ふいと視線を逸らした。男が、あからさまにではなく笑うのが
判る。
「可愛いね」
頭が腐っているとしか思えぬ言葉を吐き、男は彼の腰を抱え直した。より深く、彼を犯せる
ように。
ぐちゅ。結合部が卑猥に鳴く。わざとだろう。男は水音が大きく響くように腰を使い、彼を
揺さぶった。
快楽は、ある。男に抱かれることに馴れた躰は、どんなに想いが付属していなかろうと、官能を
引き出し悦びを貪ろうとする。そのお蔭で、感じは、する。が、それだけだ。
萎えはしないが射精もしない陰茎に、男の指が絡む。ねっとりと扱く指は、蛇か、もしくは蛭を
思わせた。
気持ちが悪い。思うが、ここまで来て突き飛ばすのも気が引ける。何故なら、誘ったのは
こちらの方だからだ。
――――あんた、暇か?
いつものように仕事の上がりで飲んでいると、座り慣れたカウンターの端に見掛けない顔が
あった。三十代後半か、もう少し年嵩の男。躰付きはそれなりに良く、背も高そうだった。
スツールの下に伸びた脚は長い。
少しだけ、興味が沸いた。
その日、彼の機嫌はあまりよろしくなくて。それが男を誘いたくなった第一の要因だった。
一緒に飲もうぜ。
言葉の裏にある別の誘いに、男はすぐに気が付いたのだろう。しかし突然声をかけたにも拘らず、
男は大した驚きもなく、にこりと若造には出来ぬ笑みを浮かべ、首を傾げて見せた。
――――君のような若い子と、話が合うかな。
いけるかな、と思った。男を誘えるかどうかではなく、彼自身が楽しめるかどうかという
意味で。
店を出ると、男が自然に彼をエスコートした。向かったのは安い連れ込み宿ではなく、
ごく普通のホテル。
部屋に入ると、男が飲み直そうかと問うた。彼は肩を竦め、男を壁に押しつけてその足許に
膝をついた。無言で、仕立ての良いスラックスから男のものを取り出し、舌で舐った。
酒に酔うのではなく、早くセックスに溺れたい。
無言の要求はあからさまではあったが、男を不快にさせる筈はない。この男は、もう誘いに
乗っていたのだから。
案の定、男は満更ではない溜息を吐き、彼の髪を梳いた。
まずは、シャワーが先だろう?
昂ぶり始めたものから彼の口を外させ、さぁ、と笑う。彼はのろのろと立上がり、浴室へ
行った。
その時既に気持ちが冷め始めていたことを、彼は気付いていて、熱いシャワーを頭から浴びる
ことで誤魔化した。
ぎし、ぎし。規則的に軋むベッド。短調な挿出。
ぴちょん、ぴちょん。水音は響く。もしかすれば、結合部のその音よりもよく響いているかも
しれない。そう思うと、面白くなってくる。
何を笑っている?
男が彼の頬を指の背で撫でる。まだ余裕があるのかと、男は少し呆れているらしい。
彼は内心で溜息を吐き男の腰に脚を絡ませた。ベッドに入って初めて彼が見せた積極的な行動に、
男が片眉を上げる。
「足りない、ということかな?」
どうとでも解釈すれば良い。彼は投げやりに思い、早く、と聞きようによれば勘違いをして
おかしくないことを、あえて口にする。実際、早いところ終えたいという気持ちが強かった。
面倒だ。セックスも、この男も。
きつく締め付けると、内で男が達した衝撃に襲われた。これも、心地好さは欠片もない。
あぁ、面倒臭い。
彼は男に促されるまま、本意ではない射精を果たした。
鍵を開けることも億劫で、いっそ蹴破ろうかと思ったが、やめた。後の始末こそ、面倒だ。
事務所と自宅兼用の玄関をくぐり、真っ暗な中を突っ切り風呂場へ向かう。このまま寝て
しまいたいのは山々だったが、それ以上に冷たい水を頭から浴びたい気分なのだ。
男の匂いが、躰中にこびりついている。
(気持ち悪ぃ……)
誘ったのは、自分だ。だから文句など言えない。しかし自分でしたことだからこそ、嫌悪が
募る。
服を脱ぐこともせず、彼は浴室に入りシャワーのコックを捻った。水が、髪を濡らし、服を、
全身を洗い流す。
顔半分を覆う前髪が鬱陶しくて、緩慢な動作で掻き上げた。冷たい水が顔に直接当たり、
気持ちが好い。
溜息を吐く、その息の白さなど気にも留めず、水を浴びる。
「……何をしている」
水よりも遥かに冷たい声が、気配もなく掛けられるまで。
その言葉が欲しくて。
その声が聞きたくて。
流れ落ちていく、名も聞かなかった男の匂い。
しかし不快な匂いを本当に消してくれるのは、水ではない。
「何てざまだよ。なぁ……」
白く血の通わぬようにかじかんだ手を、握り。
壁に、打ち付ける。
頭から浴びる水は冷たくて。
けれど、
瞳から溢れるものは、熱い。
「…………っ」
声にならなかった言葉は、喪った、半身の名。
どうしようもなく、恋しい、ひと。
兄が生きているかどうかは、あえて明言は避けておきます。