霞夢
ぼんやりとした視界に映る、銀の絹糸が頬を撫ぜる。柔らかな感触が心地好くて、うっとりと
目を閉じた。
額に、髪に、全身に触れる手と指が、堪らなく好きだ。
言葉にされることはなくとも、愛されていると思えるから。甘えさせてくれると判るから。
好き、とも愛しているとも口にはしないが、互いの想いは知っている。それで、
満足出来る。
……満足、する。
珍しく朝方に目が覚めた。部屋はまだ暗く、時計を見れば短針が六の数字を指している。
既に冬が近い秋の朝は、遅い。
いつもなら当然する二度寝を、ダンテは少し躊躇った。何故か。兄の姿がないからだ。
当たり前だが、バージルがおらずとも二度寝は出来る。バージルがいないからというだけで、
二度寝を思い止どまったことはほとんどない。眠いのだ。どうしようもなく。けれど、
眠れない。
ダンテは寝着のまま、ベッドから下りて部屋を出た。
昨晩、バージルはダンテを抱かなかった。珍しいこともある、とダンテは首を傾げた
ものだ。
髪を梳く指と、触れるだけのキスの心地好さに、ダンテはいつの間にか眠っていた。
毎日のように同衾して、当然のようにセックスする。それに慣れていたから戸惑いはしたが、
結局のところ、バージルに触れられるだけでも心地好く眠れるらしい。セックスなし、になって
しまうのは、少し、いやかなり堪えられないけれども。
快く眠れたことはともかく、昨晩に限って何故バージルはダンテを抱こうとしなかった
のか。
ダンテはひやりとした廊下の空気に僅かに震え、腕をさすりながら階下へ向かった。ダンテに
とっては夢の中にいる時間でも、朝の早いバージルには起きてコーヒーを飲んでいる時間だ。
いかに外が暗かろうと、時間で動くバージルには関係ない。
ぺたぺたと裸足で階段を下り、リビングに明かりが付いているか確認する。……暗い。実は
自室にいるのだろうか。
二階を見上げた時、かちゃり、と陶器の擦れる音が耳に届いた。やはり、いる。この薄暗い中、
明かりも付けずにコーヒーを淹れているのか。
バージルのやることはよく判らない。
再確認しつつ、ダンテはリビングのドアに近寄った。ノブに手を掛け、捻る。しかし、
ダンテはドアを開けることが出来なかった。いや、少し隙間を作っただけで、それ以上開けられ
なかったのだ。
『バージル、』
この家にいる筈のない、子供の声がバージルを呼ばわる。幼くほっそりした後ろ姿の、髪は
艶やかな銀。瞳は見なくとも判る。自分と同じ、蒼。
バージルが少年を見やり、ふっと笑った。
「もう少し待てるだろう、ダンテ?」
優しい声は、しかしダンテに向けられたものではなく。幼い“ダンテ”が少しむくれて頬を
膨らませた。見なくとも、どんな表情をしているか判る。あれは確かに自分だ。
(なんで……)
疑問は、幼い頃の自分がそこにいることに対してではなく、バージルにだ。
ダンテがいつも使っているカップを手に、バージルがキッチンからテーブルへと移動する。
纏わりつくように、少年がバージルにすり寄った。
バージルは少年の頭を撫で、微笑む。
「そこに座れ」
言葉こそ命令口調だが、声音は優しい。
どうして。
ダンテは唇を噛んだ。
それは俺じゃない。俺はここにいるのに、どうして。
どうしてそいつにそんな顔をする。どうしてそんなに優しくする。
(何でだよ、バージル……!)
ぎち、と握った掌に爪が食い込む。ドアを開け放ってリビングに飛び込んでやりたいのに、
何故か出来ない。まるで結界でも張られているかのようだ。
その間、バージルは少年の髪を愛しげに撫ぜ、少年は気持ち良さそうに目を細めて、
バージルの淹れたものを舐めるように飲んでいる。きっと、甘いココアだ。子供の頃、ダンテは
生クリームを乗せたココアが大の好物だった。
噛み締めた唇から血が滲んだ。鉄錆の味が口内に広がり、不快感をもたらす。しかしダンテは
彼らを凝視したまま、瞬きすら忘れていた。
嫌だ。そこにいるべきなのは俺なのに。
嫌だよ、バージル。そいつに触れないで。
そんなに、そいつが良いのか。
そんなに“弟”が良いのか。
バージルはダンテのことになど気付きもせず、少年の隣に腰掛ける。少年は嬉しそうに
バージルに凭れ、甘えるようにバージルを見上げた。バージルが少年の前髪を掻き上げ、
あらわになった額に……
ダンテはざわりと総毛立ち、叫んだ。
「っ……やめろ!!」
力任せにドアを開け放つ。その瞬間、総てが消えた。
「ダンテ、」
静かに名前を呼ぶ声に、ダンテははっとした。そこはリビングではなく、バージルの部屋。
それもベッドに頭だけ乗せ、床に尻をつける恰好で
「何をしているんだ、お前は」
バージルが訝るのは、尤もなことだ。ダンテ自身、何故自分がここにいるのか、全く
判らないのだから。
「……バージル……」
ぽつりと出た声は、酷く不安げで。
バージルが一層不審そうに眉根を寄せた。
「どうした?」
ベッドの上で上体を起こしたバージルが、ダンテの額に触れる。熱を計るつもりなのかも
しれない。ダンテは兄の手に自身の手を重ねた。
どうした。バージルが再度問い掛ける。
ダンテは目を閉じ、小さく首を左右にした。
「何でもねぇよ……」
バージルは深く追及することはせず、そうか、と呟いた。問い詰めぬ方が良いと判断したの
だろう。聡い兄に、少しだけ感謝する。
「なぁ、バージル……」
「何だ」
薄く瞼を開けると、薄暗い中でバージルと視線が絡んだ。
「もう起きるのか?」
問えば、バージルはあっさりと言う。
「あぁ、」
予想はしていたが、きっぱり言われてしまうと少しばかり哀しくなる。気持ち落ち込んだ
ダンテに、バージルが肩を竦めて見せる。
「来い」
謎の言葉とともに。
きょとんとするダンテを、バージルがベッドの上に引き上げる。
「な、何」
「眠りたいのだろう?」
端的すぎるバージルの言葉に、ダンテは戸惑うばかりだ。確かに眠い。しかしダンテは
バージルが起きるならば、自分もこのまま起きてしまおうと思っているのだ。
ここで寝ていろ、と言うバージルに、ダンテは首を左右にした。
「いいよ、起きるから」
「眠らんのか」
バージルが不思議そうに言う。ダンテはこくりと頷いた。また下手に寝て、あんな夢を見る
のはごめん被りたい。
ダンテの夢のことなど知る由もないバージルは、呆れたように溜息を吐いた。そうしたいのは
こっちだ、とダンテは思う。と、
「こうしていてやるから、眠れ」
言って、座った恰好のまま毛布をかぶせられる。腰に回されたバージルの手に、ぐいと
抱き寄せられた。まるで、小さな子供が母親の膝に乗り、しがみつくような体勢だ。
このままで眠れと、バージルは言う。
「な……んで、これ……」
ベッドの上にいるのだから、二人とも横になれば良い話であろうに。敢えてこうする必要が
どこにあるのか。
バージルはやはり淡々と、嫌ならやめる、とダンテの腰から手をどけようとする。
「い、嫌じゃねぇよ」
「なら、黙って眠れ」
ダンテは少し言葉をなくした。相変わらず、この兄のやることは脈絡がない。その上
強引だ。
ぽん、ぽん、と子供をあやすようにバージルに背中を叩かれる。けれどもそれは、不思議に
心地好いもので。
「……ん……」
誘われるように、意識は少しずつ、黒に染まって行く。バージルの体温と背を打つ掌の
心地好さを感じながら、ダンテは眠った。
願わくは、今度はあの夢を見ずにおれるように。
夢ものと同列にするのはどうかと思ったんですが、まぁ気にしない。
自分に嫉妬するダンテ…。兄が限りなくショタコンっぽい。
ダンテが乙女くさいですね。うーん…。