溺愛
いつものように濃いめのエスプレッソを淹れ、マグカップを手にリビングのソファーに
腰掛ける。一口飲み、カップはテーブルの上へ。空いた手で新聞を手に取った。
かさり、と広げた一面に、人質を取って立て籠もった男が機動隊によって射殺されたとの記事。
機動隊が踏み込んだ時、人質は皆――――十二人だと昨日の新聞には載っていた――――殺されて
いたと伝えている。
毎日、どこかで誰かが死んでいる。自然死は勿論のこと、殺される人間は多い。
この国では、十人のうち九人が銃を所持している。護身用として常に携帯せねば安堵を
得られぬ程、治安が悪いのだ。逆に言えば、皆が銃を携帯しておらねば起こらずに済む殺人も
ある。
誰もが他人というものを信用しないこの国で、銃を捨てろなど言えたことではないが。
毎日、どこかで誰かが死んでいる。
総ては他人事だ。
エスプレッソを口に含み、別の記事に目をやる。
新聞には毎日目を通す。それは日課であり、習慣である。何かの記事を目当てに買っている
ものではない。
この紙に載っている文字はどれもこれも、現実でありながらどこか非現実的だ。どれか
一つでも当事者として関わっていれば別だが、生憎そうではない人間の方が圧倒的に多い。
人は他者には無関心で、それ故にどの記事もどこか空虚である。
ぱさ、と新聞を畳み、テーブルに放る。総て読まぬうちにやめてしまうことは、なかなかに
珍しい。いつもなら、詰まらない記事ばかりでも一通りは目を通すというのに。しかし今日は、
読もうという意思が一切失せてしまっていた。
飲みかけのエスプレッソをそのままに、ソファーから立ち上がりリビングを出る。向かう先は、
階段。急くな、と自分に言い聞かせ、一段一段を確実に上る。廊下から向かって左のドア。
鍵などかかっていないことは、確かめるまでもなく知っている。
静かに、音を殺してドアを開けた。遠慮、というものは普段からしないが、今だけは
違った。
静かに、静かに。自分を落ち着かせる為にも、そう強いる。
部屋は自室とほぼ同じ構造になっている。しかし雑多なものが多く、片付けることを知らぬ
こちらは、自室とは全く違う部屋のような雰囲気がある。言うなれば、それは生活感の有無かも
しれない。
ものが散らかっている光景は好きではないが、しかしこちらの部屋の空気は嫌いではない。
暖かい。そう、思う。
ベッドに腰掛けると、ぎしりと軋んだ。古いわけではないのだが、要は扱いの悪さだろう。
人の形に山の出来た毛布を越えて手を付き、躰を屈める。少しだけ毛布をめくれば、銀糸の
髪と白磁の肌が現れた。ひそりと閉じた瞼を縁取る睫毛は長く、やはり銀。すっと通る鼻梁は
高く、赤い唇はぽってりと厚い。
吸い付いてやりたい衝動を抑えるように、親指の腹で下唇をなぞる。人差し指で口端を辿り、
下唇を揉むようにして摘む。ふっくらとした唇の肉は柔らかい。
一つのことに集中するとそればかりになる子供のように、唇を弄りすぎたらしい。ふ、と
寝息が途切れ、彼の睫毛が震えた。瞼が薄く持ち上がる。
銀の衣の向こうには、空を切り取った蒼い双眸。
硝子玉のそれに似た、焦点の合わぬ瞳に自分が映る。吸い込まれそうだ、と不思議な程自然に
そう思った。
次第に彼の瞳がはっきりとして、焦点が合って行くのが判った。寝起きの掠れた声が自分を
呼ばわる。それが何故か交合の合間――――それとも後か――――の声に聞こえてしまい、
無意識にぞくりとする。
馬鹿なことだ、と自身を嗤い、彼の頬に手を滑らせた。顔を寄せ、額に口付ける。鼻に
かかった息が彼の喉から漏れた。
毛布に隠れていた腕が伸びて、首の後ろに回される。言葉はないが、求めているのだと勝手に
解釈して、しかし唇ではなく瞼や頬に細かな口付けをいくつも落とした。
名を、呼ばれた。足りないと言いたいのだろう。彼の欲しいものは、慈しむばかりの小さな
口付けではなく、奪うようなそれだ。
寝惚けているのか、彼は自分から唇を合わせて来た。赤い舌がちろりと覗き、唇を舐めら
れる。その舌に噛み付いてやると、びく、と彼の躰が震えた。そのまま舌を絡め、口腔を犯して
やる。
朝っぱらから、自分達は何をしているのだろう。
そんな疑問をこれは感じないのか。
いつになく熱心に口付けに応える彼に、半ば呆れてしまう。しかし最も呆れるのは、彼が
寝惚けていると判っていながら、いつまでも唇を離せずにいる自分自身にだ。
溺れている。この行為にではなく、彼に。
生まれる時からともに在ったのだから、言うなれば互いが互いの一部のような関係だ。
溺れる、というよりも、むしろ一つになろうとしているのかもしれない。性的な意味を別に
して。
微かに出来た隙間から、はぁ、と溜息のような声が彼から漏れ、同時にことりと首がのけ
反る。訝る間もなく、眠ってしまったのだと知れた。心地好さそうな寝息が聞こえてくるまでに、
数分もかからなかった。
濃厚に舌を絡ませていて、よく眠れるものだ。
熱を持ち始めた自身をちらと見やり、小さく嘆息する。ここで、無理矢理にこれを起こして
――――眠ったままでもさして問題はないが――――交合を強要しても良いのだが、
しなかった。
交合をするつもりで、ここに来たわけではないのだ。
理性で熱を抑え、軽く息を吐く。彼は規則的な呼吸を繰り返している。首に絡められていた
腕は、彼が寝入るとほぼ同時にぱたりと落ちた。その腕を取り、手首に口づける。
毛布をめくると、寒いのか、彼が僅かに震えた。するりと彼の隣に躰を横たえ、毛布を被る。
不意に増えた自分以外の体温に、彼が無意識にすり寄って来る。猫のように背中を丸めた彼を、
微笑を浮かべて抱き締めた。
互いの体温が、心音が、息が、やがて一つになる頃、自身もまた穏やかな眠りに落ちて
いた。
心地好い眠りは、きっと暖かな夢をもたらすだろう。
双子は一つ、同じ笑みを浮かべて夢を見る。
大切な“現実”はただ、この腕の中にある唯一。
またしても微妙な短さで失礼します。
何となく、自分の好きなものを書こうとしてこうなりました。
暗いもの、血みどろ好きな変態の私ですが、気怠いものも好きです。
兄の淡々とした雰囲気は良いですね。てか、一言も喋ってないとかありなのか…?