黒眼クロイメ









暗いメトロに揺られながら、黒しか映さぬ意味のない窓をぼんやりと見つめる。そこには 覇気のない、腐った男が一人いた。

くすんだ銀の髪はぼさぼさで、肌の色は濁った白。唇はかさかさに荒れ、色も悪い。 鍛えられた体躯は見る影もなく痩せ、身の丈程もある大剣を軽々振り回していたとは 思えない。

腐った男は、陰気で虚ろな眼をきょろりと巡らせ、ふいと目を逸らした。

ギシギシと軋むメトロは、しみったれた客を乗せて鬱々と走る。乗り心地はまず最悪。 しかし今の彼には心地好くすらあった。
夜のメトロには乗ってはいけない。そう言ったのは母で、念を押したのは兄だった。彼は 言われた通り、きちんと守った。
破ったのは、独りきりにされてからのこと。

真っ黒な窓に憔悴した自分の姿を映し、ただ眺めていた。今のように。

メトロが駅に着いたらしい。女の金切り声のようなけたたましい音が耳に痛い。

降りよう。

使ったことのない駅で、メトロから降りた。構内は意味もなく明るい。所々、電球の切れた 蛍光灯が喘鳴のような点滅を繰り返している。
むき出しのコンクリートの壁を指先でついとなぞり、掌で撫で、二の腕を押し付け、肩から 凭れかかった。こつ、と頭を付けると、ひやりとした無機物の冷気が脳に響く。

このまま眠れそうだ。

思うが早いか、彼はひっそりと瞼を閉じた。
点滅する電光の下で、壁に凭れて動かない。それは人からすれば、随分と奇異な光景だった ろう。しかし人々は皆自分自身のことに必死で、誰一人彼を注視したものなどいない。
通り過ぎる一瞬の風景の中にいる、誰か。その程度のことでしかない。
孤独は、人の溢れる雑踏に紛れた時にこそ感じるもの。彼はまさに孤独だった。

誰もいない。

人々は自分のことに必死で。

ここには誰も、いない。

どれくらいの時間、そうしていただろうか。何本もメトロが停まっては流れていくのを、 片耳に聞いた。
ふと、こちらに近付いて来る気配に気付く。見なくとも判るその気配に、彼の耳がぴくりと 動いた。静かな足音が、メトロにかき消されずにはっきり聞こえる。

「おい、」

名前は、呼ばない。それは二人だけの暗黙の了解ルール

「……なんだよ」

素っ気なく答える声が、自然と笑ってしまう。だってそうだろ、と誰にするでもなく自分自身に 弁解する。何も言わずにふらりと家を出て来たのに、こうして見つかるなんてこと、普通ならば 有り得ない。しかも男は、捜した、という雰囲気がないのだから。
当たり前のように見つけて、当たり前のように言う。

「帰るぞ」

逆らうことを赦さない、絶対の王のような口調で。しかし彼は壁に頭を預けたまま、あえて 動こうとしなかった。王の舌打ちが耳に届き、肩をぐいと引かれた。

「何を拗ねている?」

決め付けたように言う。どこまでも王者だ。……なら、自分オレ は?

「拗ねてなんかねぇよ」

「ならば、何だ」

「……別に」

この男は何も覚えていないのだろうか。今日、この日に何があったか。

「なぁ、」

呼ばわった意味を、判ってくれるとは思わないけれど。
小さく溜息を吐くと、不意に顔が近寄せられ、唇を塞がれた。ほんの一瞬、触れるだけの 口付け。ただ過ぎて行くだけだった人の流れが、僅かに乱れたようだったが、彼の目には 入らなかった。
じと、と男を睨む。

「何すんだてめぇ」

男はしれっとして彼の前髪を掻き上げた。

「もの欲しげな顔をしていたのでな」

「んな顔してねぇよっ」

かっとなって噛み付くが、男には何の効果もないことは判っているのだ。

「喚くな。続きは帰ってからだ」

どこをどうすれば、そんな勘違いを起こすのか。彼には男の脳内構造など判る筈もない。 時折、覗いてみたいと思うこともあるが、それこそ理解不能な何かが詰まっていそうで怖い。

「アンタ、本当に人の話聞かねぇよな」

ふん、と男が嘲笑うように鼻を鳴らす。

「お前に言われたくはない」

「は? 俺がいつ、」

言いさしたが、男に遮られて最後まで言わせては貰えなかった。

「帰るぞ」

戯言には付き合わない、とばかりに背を向ける男の、自分と同じ筈の背中がやけに大きく 見える。

「……ぁ……」

無意識に名を呼びそうになって、咄嗟に飲み込む。どうして外では互いの名を呼び合わぬ のか、理由など忘れてしまった。

もたもたしていると、男が五歩程離れたところで肩越しにこちらを振り向いた。早くしろ。 緑がかった碧眼が静かに、しかし強く促す。

「横暴だな、相変わらず」

苦笑して、広い背中を追うべく足を踏み出した。





暗い、陰気な男はもう、黒い窓のどこにもいない。



















戻。



あとがきなんていうたいそうなものを書くようなしろものじゃない…。
電車待ちをしながら何となく書いたものです。
イメージとか、想像の産物なので、いろいろ指摘したいことがあるかとは思いますが、
そっとしておいてやって下さい…(微笑)