水鏡
夏の猛暑が和らぎを見せ始めた初秋の昼、それでも食い縋る鬱陶しい湿気を払おうと、
ダンテはバスルームへ行った。夏の間はほとんど使われることのなかった浴槽に、ざばざばと
水を張る。勢い良く溜る水に手を浸し、その冷たさにほっとする。
暑さは随分緩和されたと言っても、元が超の付く程夏に弱いダンテには、まだまだ暑いものは
暑いのだ。
今年の夏は特に暑く、耐え兼ねて何度水風呂に入ったことか。無論、ダンテは、だ。
双子の兄であるバージルは、ダンテとは違い暑さに強い。というと多少なりとも語弊があるの
だが、今は置いておく。
水風呂には、子供の頃からよく入っていた。
幼い頃、庭にこしらえたゴム製の簡易プールに入っていた名残のようなものだろう。優しく
美しかった母が、よく小さなプールに入れてくれたものだ。
ひと夏に何度も、ダンテは水風呂をする。家事の総てを兄に任せきっているダンテだが、
これだけは自分で準備をし、片付けもする。時には気持ち良さがあまって眠ってしまうことも
あり、結局バージルの手を借りることもあるのだが。
浴槽に半分程水が溜った辺りで、ダンテは身に着けているものを脱ぎさった。シャワーで
軽く汗を落とし、まだ水が注がれている湯船に足を浸す。きん、と脳天に突き抜けるような
鋭い冷たさが走り、しかし怯むことなく躰を沈めた。
痛い程に冷たい水。
全身を刺すような感覚に陶然として、ダンテはうっそりと瞼を閉じた。
クーラーのない自室に籠り、バージルはいつものように読書に耽っていた。先刻までは
双子の弟であるダンテがいて、暑い暑い、とこちらが暑くなりそうな程煩くしていたのだが、
今はそれもない。
バージルは特筆する程には暑さに弱いわけでもなく、かと言って強いわけでもない。
暑い時は暑いと思うし、その辺りの感覚は人並みにあるのだ。ただ、ダンテ程異常に暑さを
嫌厭するということがないだけのこと。
尤も、夏の盛りにすら汗一つかかないのだから、ある意味異常だ。
バージルは読んでいた本をぱたりと閉じた。丁度、章の区切りだ。ともすれば、どんなに
分厚かろうと一冊読み切るまで本に没頭するバージルである。ここで一旦区切りを付けたのは、
少々気になることがあるからだった。
水に浮かぶ白磁の肌。
濡れた銀糸の髪。
長い睫毛に縁取られた瞼は閉じ。
赤い口唇はうっすらと開いて。
眠る、ひっそりとした呼気。
やはり、とバージルはバスルームのドアに凭れるようにして、呆れてしまった。
ざばざばと水が浴槽から溢れ、排水口に流れている。
バージルの部屋からダンテが姿を消して、約一時間。その間ずっと、この水は出しっ放しに
なっていたのだろう。
浴槽には、漂うようにダンテが眠りこけている。いかにも気持ち良さそうな顔が、何故か
無性に雄を誘うものに見えて、質が悪い。
バージルは足許が濡れるのも気にせず、浴槽に近寄り蛇口を締めた。
ざぁざぁと溢れていた水が、間もなく止まる。
静かになってもなお、ダンテは起きる気配すらない。よほど心地が好いのだろうが、
バージルにはあまり理解の出来ない感覚だ。
バージルは溜息を吐き、浴槽の縁に仰向きに頭を乗せたダンテの、額に張り付いた髪を
掻き上げた。
「起きろ、ダンテ」
前髪を掻き上げた手を後頭部にやり、すくうように軽く持ち上げる。しかしダンテは僅かに
眉を寄せただけだ。
力なく垂れた首がことりと傾げ、バージルの腕を枕にまた寝息をたて始めるダンテを、
バージルは憮然と見下ろす。あくまでも目覚めぬダンテに憤りを覚えたのではない。
くたりとしたダンテの頭が、何故か胴から離れたそれと錯覚したのだ。
ぞわり、と全身を何かが這うような感覚に、バージルは思わずダンテの首筋に指を沿わせた。
頸動脈に宛てた指先に、とく、とく、と規則的な鼓動が伝わって来る。当然のことである筈の
それが、奇妙な程バージルをほっとさせた。
しかしそれは、決して喜ばしいことではなかった。
脈。血。――――命。
無意識に、バージルは頸動脈に宛てた指を曲げ、脈打つそこに爪を立てた。いつも短く切り
揃えてある筈の爪が、いつの間にか鋭く尖ったものに変じている。
ぴし、と手の甲の皮膚が裂け、鱗のような硬質の黒光りする装甲に変わっていく。
ぷつり、と爪がダンテの皮膚を破った。鋭利な刃物で付けた傷ではないのだから、当然痛みは
強い。しかしダンテは、顔をしかめ、小さく呻くだけでやはり覚醒はしない。
「……ぅ、う……」
吐息混じりの呻きが、バージルを昂揚させた。
ダンテの首筋から、血が一筋流れ落ちる。紅いそれは間もなく水に滲み、透明に埋もれて
しまう。しかしバージルの優れた嗅覚は、微かな鉄錆の匂いを嗅ぎ取った。
自分のものと同じ、しかし自分のものよりもひとに近しいその朱が、バージルを一層昂揚
させる。
常から感情の起伏の小さいバージルを奮い立たせるものは、それがどんな意味合いであろう
ともダンテをおいて他にない。
爪に染みた血を、バージルは自ら付けた傷に塗り付けた。それはあたかも愛撫のような、
妖しい光景。しかしそれを見るものはなく、咎めるものもない。ダンテは未だ起きず、抗いは
皆無。
ただ悪夢を見ているかのように、苦しげな呼吸を繰り返している。
「……っ、ん……はぁ……っ」
喘ぎのような、息を。
指を押し付けた傷が拡がったか、また赤いものが溢れ出した。次々に水に溶けていくそれを
見つめながら、不意に、バージルの喉を笑いが衝いた。
「っ、くく……ははは……」
狂気。
第三者的に、己は狂っていると冷静に感じた。文字通り血を分けた弟の血を見て、悦び、
笑うなど正気の沙汰ではない。
あぁ、早く起きろ。
早く。
「さもなければ、」
―――― 起きなければ、
「或いはお前も死ぬぞ」
つい最近読んだ日本文学にあった、理髪店の店主に剃刀で喉を掻き切られて死んだ客の
ように。
それとも、有名な戯曲にあるように、恋人の狂気に堪えかね、自身を狂死に追いやった
哀れな女のように。
眠ったまま、死にたいのか。
―――― 殺されたいのか。
首に宛てられたものは剃刀ではないけれど。ひとのものとは鋭さがまるで異なる爪は、
ある意味で剃刀よりも切れ味がある。
傷口に爪の先を突き込み、太い血管を破ることは容易に出来る。
首を胴から千切ることも、或いは。
「…………」
バージルは血を絞るようにして傷口に指を這わせ、真っ赤に染まったそれを舌で舐めた。
脊髄が痺れるような、甘美なばかりの血の味が舌に快い。
半人半魔であるバージルは――――勿論ダンテもそうだが――――、人の血肉を喰らうという
習性はない。五感は確かに悪魔寄りではあるけれど、生物としてのモラルは限り無く人に近い。
それは多分に育った環境によるものだろうが、そうでなくとも、バージルは人を喰いたいと
思ったことは一度もない。
血は見慣れているし、人を殺そうと思えば実行出来る冷酷さはあるが。
甘い、と思い、旨いと感じるものは、ダンテの血を除いて他にない。
指で血を溢れさせたそこに、堪り兼ねて唇を押し当てた。舐めるだけでは足りない。
それは本能的な衝動。
何故かいっこうに起きようとせぬダンテは、まるで既に死んでいるかのようで。
傷口に歯を立て、ちゅく、と舌ですくうように血を啜る。己は何をしているのだろう。自問は
すぐに霧散した。
甘い。
それは一種の快楽。
以前も同じようなことがあった。魔力が満ちる満月の夜に、ダンテの血を啜り肉を喰らった。
あの時は、己の中の魔人が暴走したと言い訳もたったが、今はどうだ。
ダンテの血に酔った、ただの狂人ではないか。
「……く、くく……」
また、笑いが漏れた。
狂っている。
そうだ、俺は狂っているのだ。
この双子の弟に、狂った愛を注いでいる。
「……ぃ、し、て……」
無意識に零れかけた言葉を、バージルははっとして飲み込んだ。自身の下で、ダンテが
ようやく覚醒しようとしていることを感じた。
「ん……ぅ……?」
顔を上げると、ダンテの長い睫毛が震え、薄く瞼を持ち上げようとするのが視認出来た。
バージルは浴槽の縁に置いていた手で、口許を覆う。血にまみれているのを見られたくない
訳では、ない。今し方口走りかけた言葉がそうさせたのだ。
「ぁ……れ、ば……じる……?」
寝惚けた声がバージルの名を呼び、とろんとした眼がバージルを映す。
痛みは感じていないのだろう。バージルの唾液が染みた所為か、首筋の傷はもう半ば
塞がっている。血ももう流れてはいない。
「……早く上がれ。風邪を引くぞ」
温くなった水で口許と手を濯ぎ、バージルは立ち上がった。
「んー……」
バージル、とダンテが何を思ってかバージルに向けて両腕を伸ばす。意図が判らず眉間に
皺を寄せたバージルに、ダンテはへらりと笑って曰く。
「起こして」
「何故だ」
間髪入れずに返すと、ダンテはちょっとむくれて唇を尖らせた。
「けち」
まだ頭が寝ているのだと判る、舌っ足らずな口調。しかし諦めるでもなく腕は伸ばされた
まま。
バージルは溜息一つでその手を軽く叩き、屈み込んで首に回させた。
「服が濡れる」
ぼそりと文句を言って、ダンテの引き締まった躰を抱き上げた。当然ながら服はびしょ濡れに
なり、バージルの機嫌を下降させる。ダンテはと言えば、何が嬉しいのか、ぎゅうっと
バージルの首にしがみつき、匂いを嗅ぐように肩口に鼻面を埋めている。
寒い、というわけでは、おそらくないだろう。
「バージル、」
呼ばわる声は、思いの外熱っぽい。それが何故なのか、バージルには判らない。しかし
ダンテの気分が少なからず昂揚しているのだろうことは、判る。
濡れた白磁の肌はほのかに赤く色付き、無防備に晒された性器が僅かに首を擡げている。
バージルの肩口に顔を埋めたままなのは、恥ずかしいからかもしれない。
「…………」
バージルはダンテの耳の後ろにちょっと歯を立ててキスを落とし、びくりと肩を跳ねさせた
ダンテの耳に囁いた。
「ここか、それともベッドが良いか、選べ」
「っ……どこでも、良い、から……」
切羽詰まったような声音は血のように甘く、バージルの理性を揺さぶった。
どれ程に歪んだ愛であろうとも、その言葉だけは、決して口にしてはいけない。
どんな時でも。
何があっても。
もしまた、血に酔い自身を見失うことがあろうとも。
――― それだけは、
決して。
水風呂で入眠、後バージルがいろんな意味で危険なことに。
頂いたネタをこれでもかと言わんばかりに使わせて頂きました。セリフとか!!
言わせたかったんです、頂いた時から物凄く!内容はアレですが、満足です。
ついでに個人的妄想…ダンテ、どこかの時点で起きてたら萌。