憂悲
見えるものと、見えないものがこの世にはある。
在ってはならない尋常ならざるものは、大抵の人間の目には映らない。
不安定な、不確かな存在。
しかし、それらはいる。
一つの命が絶える時、それらは生まれる。
必ずではない。
深い執着と、時には無垢な思いがそれらをこの世に繋ぎ止める。
それらの見えるものは、幸か不幸か。
見えないものに気味悪がられ、しかし目を瞑っても、耳を塞いでも、見えるという事実を
覆す術はない。
見えないものは、幸か不幸か。
見えるものを疑い、己がもしかすればそれらになるやもしれぬことなど知らず、
ただ忌避する。
見えることが良いとは言わない。
見えぬことが良いとは言わない。
どちらか一方しか、誰も知らぬのだから。
夏の澱んだ空気に混じり、また一つ、命の成れの果てが生まれ落ちた。
買い物はいつも近場で済ます。
ダンテは遠出をしたがることもしばしばあるが、市街の大型デパートなど、頻繁に行く
必要性はないに等しい。それを言ってやれば、ダンテは唇を尖らせ、不服そうに言うのだ。
判った、と。
ダンテが自分の言うことを聞かない時は、まずないと言って良い。勿論己というものは
しっかりと持っており、納得の行かぬことがあれば絶対に考えを曲げぬ芯の強さはある。
そんなダンテが自分にほとんど逆らうことがないのは、常にこちらが正論を唱えるからだ。
今日の買い物も、そういう経緯があって近場の小さなスーパーと雑貨屋になった。
「一緒に行く」
と言って聞かないダンテを連れて。
時は誰そ彼。
薄闇の路地に、暗い水銀灯がぼうっと燈る。
それは、気付こうと意識する前に視界に入っていた。
ひしゃげた頭蓋。飛び出した目玉は片方だけ。肉は潰れ、裂けて折れた肋骨が肺を串刺して
幾本も突き出ている。
人らしい形をとどめていない、肉の塊。
ひゅー、ひゅー、と潰れた気管が虚しい隙間風を捻り出す。
哀れな、とは思わない。
既に死した血と肉の塊に、バージルは何の感慨も抱く趣味はない。抱いてしまえば、
きりがないのだから。
子供の頃から、バージルはそういったものが見える体質だった。
よく言うように、霊とか魂やらが見えるわけではない。それが死んだ瞬間、最も苦しみ
抜いたさまがそのまま視えるのだ。
人に限らず、生き物総ての“苦しみもがいて死んだ”さまが。
よくも気が狂わなかったものだ、とバージルは自分をしてそう思う。
今でこそ一瞥しただけで済ましていられるが、子供の頃はそうはいかなかった。
確かに、感情の起伏の少なさは幼い頃から変わっていない。可愛げの一つもない餓鬼だった。
しかし、それでもバージルは子供だったのだ。
ある日、夕食が出来たと呼ばわる優しい声に、バージルは条件反射のように顔を上げた。
弟と二人、アスファルトに白墨で絵を描いていた。
お腹すいた。
自分と違い可愛らしい弟が、腹を撫でつつ立ち上がった。それに続き、自分も腰を上げる。
何の変哲もない、いつもの夕暮れ。しかし、先に家の玄関に走った弟を見やった時、異様な
ものを見てしまった。
赤い、いや、赤黒い塊。
片方だけ残った尖った耳と裂けた口から、それが犬だったものだと判ってしまった。
バージルはただ竦んで動けなかった。何とも言えぬ嫌な臭いが、バージルの幼い鼻をついた。
吐き気がした。すぐにも家に駆け込みたいが、足が動かない。
それが、ずるりと動いた気がした。
息を飲むバージルを、不意に弟が呼ばわった。お兄ちゃん。舌っ足らずな声に、はっとした。
金縛りが解けたかのように、足が動く。弟の方へ一息に駆けた。
どうしたの? 問う声と仕種に堪らなくなって、バージルは弟を抱き締めた。
震えていたのだろう。弟が驚いて母を呼ぼうとしたが、バージルはそれを引き止めた。
弟の暖かな体温が、酷く心地好かった。
あれ以来、バージルには時と場所を選ばず肉の塊が見える。しかし狂わずにおれたのは、
弟が側にいたからだ。
弟の目にも、この尋常ならざるものは映る。自覚をしたのはバージルよりも後のことだが、
その時、ダンテは驚くことも怯えることもしなかった。
バージルには赤黒く変形し“死んだ”ものに見えるそれが、ダンテにはそこらにいる人や
犬猫と変わらぬ“生きた”ものに見えるのだ。
あまりに見分けがつかぬらしく、話し掛けることなどざらで、見分けがつくようになった
今では、“見える”ものをいちいち哀れんだ。
きりがない、とバージルが諭しても、可哀相だ、とばかり。
哀れみは救いではない。むしろそれをこの世に引き止める一要因になりかねない。
やめろ。バージルはダンテの目を塞ぎ、言った。不毛だ、と。
しかしバージルと違ってそれが生きていた頃の綺麗な姿にしか見えぬ弟には、無理なこと
だったのだろう。
今も、そうだ。
バージルが意図して目を背けた無残な影に、ダンテは話し掛けようと一歩近寄った。
「やめろ」
言ったところで聞くとは思っていない。しかし、止めずにはおれなかった。
それはもう、人ではないのだ。話し掛けたところで、何がどうなる。ただの自己満足に
過ぎないではないか。
しかし、弟は足を止めることなくそれの傍らにしゃがみ込み、躊躇うことなく話し掛けた。
人から見れば、何もないところに話し掛ける狂人に映るだろう。しかし奇異の目を向けるものは
ない。
ここに何かがいることを、それが見えぬものも感じているのだ。
「よう、調子はどうだい?」
軽い、弟の声。
“それ”の応えはない。気管を通る空気の音だけが、薄ら寒く響くばかり。けれど、
バージルには“それ”が何を言っているのか、判ってしまう。
―――― 私の愛しい人はまだ?
夫か、恋人かは判らない。
バージルは不快げに眉を顰めた。醜い肉にしか見えぬそれの、声だけはやけに綺麗に響き、
生前はさぞや美しい女性だったのだろうと思わせる。それが嫌で、堪らない。
ダンテにも彼女――――とは言えぬものだが――――の言葉は聞き取れているのだろう。
聞こえるものは同じでも、見えるものは違う。その違いが、“それ”に出遭う時のバージルと
彼の対処の差となって表れるのだ。
彼は何とか救ってやろうとする。
バージルは完全に無視を決め込む。
対照的なその差は、子供の頃から変わらない。
いくら無駄だと言って聞かせても、弟は“それ”を見付けては話し掛け、バージルの眉間に
皺を刻ませるのだ。
弟の優しさは、美徳と無謀の境を漂って酷く危うい。下手を打てば、“それ”に取り憑かれる
こともある。最悪死に至る場合もないとは言えぬのだから、バージルは気が気ではなかった。
自分達に限って、そんなことにはならぬと判ってはいるが、しかし。
兄が最愛の弟の身を心配するのは、当然のことではないか。
相も変わらずひしゃげた肉の塊と話し続ける弟を、バージルは強い調子で呼ばわった。
弟は立ち上がろうと腰を浮かせるものの、それだけで。バージルは苛々と弟の側に寄り、
腕を掴んで立ち上がらせた。
「ちょ、おい……」
待てよ、と静止を求める声も聞かず、バージルは弟を引きずるようにその場を後にした。
背後から、人の成れの果てが歌う澄んだ声音が聞こえて来る。
黙れ、と内心で叫び、弟の横顔を見やる。眉を寄せたその顔は、今にも泣き出しそうに
見えてバージルを一層不快にさせる。
そんな顔をするから、……。
その無償の優しさがあるからこそ、自分は狂わずにおれたと判っている。いるが、やり
切れぬではないか。
決して浄化されることのない、浄化を受け入れぬものにしか、弟は話し掛けようと
しないから。
そんな影を、何とか救ってやろうとするから。
「……なぁ、」
―――― 何だ。
「俺、何にも出来ないのかな」
―――― どうにか出来ると思っているのか?
「……だってさ、可哀相だろ、あんな……」
―――― 既に死んだものを哀れむなど、無意味だ。
「アンタは良いよな。何でもそうやってばっさりやれるから。俺は……」
―――― 所詮、死者に対して我々は無力だ。出来ることは一つ。
「放って置け、か?」
―――― それ以外に何が出来る? 考えるだけ無駄だ。
「判ってる。……判ってるよ。でも、それでも俺は……」
―――― …………。
「あぁ、何でこんなに無力なんだろう……」
力なくうなだれた頭を撫で、バージルは自分のものよりも柔らかい髪に鼻先を埋めた。
仄かな匂いが心地好い。
嘆く姿はいつもより体躯を小さく見せ、バージルに弟を守ってやらねばと何度も思わせる。
しがみつき、肩口に顔を押し付けてくる弟の、小刻みに震える背中をやわく叩いてやる。
首筋を濡らす冷たい感触。バージルは弟の髪に口付けた。
見えることは幸いか。
見えぬことは幸いか。
誰しもが、二つを同時には持ち得ぬ不完全なものであるが故、答えはこの世の終わりまで
出ることはない。
見えるものと、見えないもの。
仕合わせなのは、さぁ、どっち……?
この話は、いつもの方に頂いた素敵なssを基にしています。
お言葉に甘えまくって使わせて頂きました。ご気分害されましたら申し訳ありません…!
腹掻っ捌く覚悟は出来てます!多分!(えぇ)
書いたものの、いつもの方のものとは雰囲気が全く違う代物になってしまいました。
それが無念で仕方ありません…;