氷菓
よちよち、ぺそぺそ。
朱と碧の小鬼が二匹、幼児のような足取りでどこかへ向かう。
よちよち、ぺそぺそ。
一見、ぬいぐるみが歩いているようにも見えるのだが、この小鬼達、本来は一対の剣
である。
名はそれぞれアグニとルドラ。
炎と風を身に宿した魔界の妖剣で、現在は一人の男を自らの主人と認め、従い、
慕っている。
よちよち、ぺそぺそ。
そんな彼らが、何故にこんな小さな姿をしているのか。それはひとえに、大事な大事な主人の
為であった。
うごうご、もそもそ。
どうにかこうにか階段を登りきり、廊下を少し行けば主人の部屋に辿り着く。今日も主人の
起床は遅い。朝に極端に弱い主人は、普段から昼前後にしか起床しない。余程火急の用があるか、
叩き起こされでもしない限り、とことん寝る。
尤も、ここ最近はうだる暑さに辟易し、クーラーを利かせたリビングで二度寝、というのが
お気に入りらしい。
それが、今日はどうしたことか、最早十一時を回ったというのに、クーラーのない部屋から
未だ出て来ようとしないのだ。起きたらしき気配もない。アグニとルドラはほぼ一日中主人に
張り付いているのだが、実のところ、今朝はそうもいかなかった。原因は、主人の兄だ。
ぺそぺそ、もそり。
主人の部屋に到着した二匹は、とりあえずドアに手をかけた。小鬼の大きさでは、ドアを
開けることは出来ない。ノブまでの距離は、ちょっと絶望的だ。その為、部屋に入ろうと
思えば中から開けてもらうしかない。
ぺそり、ぺそり。
いつもなら二、三度も叩けば主人が気付き、中に入れてくれる。が、今日は全く
反応がない。
ぐっすり眠っているのだろうか。
アグニとルドラは顔を見合わせ、むぅ、と唸った。そしてどちらが先に、ということもなく、
ほぼ同時にドアに頭をへばり付ける。
じっ……
とあるのかないのか判らない耳を澄ませること、一分少々。二体の予想通り、中から声が
聞こえて来た。
「……やめ……外に……らが……」
間違いなく、これは主人の声だ。相手は、やはり兄だろう。
今朝、アグニとルドラは主人の兄によってバスルームに放り込まれていた。水を張った
湯船に……というわけではなく、文字通り放り込まれ、ドアをぴっちりと閉められただけだった。
が、自らドアを開けることが出来ない二体にとって、それは閉じ込められたのと同意である。
ぴぃぴぃと主人に助けを求めて喚いたが、主人は来てはくれなかった。
どうにか協力してバスルームを脱出したのがつい先刻。ゆうに四時間は閉じ込められていた
ことになる。
バスルームに放り込まれても、二体は全く反省せず、懲りもせずにまっしぐらに主人の部屋に
急行したのだ。すでにお判りだろうが、小鬼達が兄に制裁を加えられた原因は、疑うまでもなく
主人絡みだ。
毎日主人に付きまとっては兄の怒りを買い、こっぴどく叱られる彼らである。が、彼らには
彼らの言い分というものも存在する。
「主は我らの主なのだ!」
「主を兄上殿から守るのだ!」
可愛げの欠片もない、かさついた声で高らかに宣言し、小鬼達は短い手を振り上げた。
ぺそぺそぺそぺそぺそぺそ。
連打、ひたすらにドアを連打である。
「主、主」
ぴぃぴぃと鳴く声が届いたのか、中から聞こえる声が大きくなった。
「だからやめろって……! あいつらが可哀相だろっ? 離せよ……っや……」
ぺそぺそもふもふぺそぺそ。
おかしな音を挟みつつ、二体は必死にドアを叩いた。しかし主人が開放された気配はなく、
こうなったら、と互いに目配せをし合う。
バスルームに閉じ込めらるていた時は使わなかったが、アグニとルドラはまさに最終兵器を
導入する気持ちでそれを実行した。
「主よ、今助けるぞ!」
「今助けるぞ、主よ!」
みし、という鈍い音を、おそらく中にいる二人も聞いたことだろう。しかし何の音かは
判らなかったに違いない。
みしみし、バキッ……ガンッ!
吹っ飛んだドアが床にぶち当たって跳ねた。
何をしたのか。それはごく簡単なことで、ぬいぐるみから姿を変えたのだ。アグニは人型に。
ルドラは正体である剣に。そして後はご覧の通り、強行突破だ。
真っ二つにぶち破られたドア。その向こうには、目を丸くして唖然と立ち尽くす主人と、
今にも雷を落としそうな暗雲を背負う兄。しかしアグニとルドラの目には、主人の姿しか
入ってはいなかった。
すっかり十四、五歳の少年になってしまった主人。その細い肢体を包むものが、彼らの目を
釘付けにしたのだ。
先日来、兄は主人にキモノなる日本の正装を着せていた。それは今日も継続されている
らしいが、しかし、今日のキモノは一風変わった仕様のものだ。
基本の地は黒。唐草や花をモチーフにした柄は、総じて赤。帯は薄金。裏側の濃い山吹色が
見えるよう、一部分だけめくれている。それだけを見れば、何の変哲もないただの浴衣である。
が、浴衣なるものを知らぬ彼らでも、そのキモノが変わっていると判るのは何故か。それは
簡単なこと。
裾が異常に短いからだ。
更にその裾は、黒いレースで縁取られていたりする。
太腿の半ばからあらわになった、しなやかな脚。そして透き通るような白磁の肌。
「主よ、」
絶句して主人を凝視していた時間、約十秒。
「主よ、それは宇宙的な破壊力であるぞ!」
「何と愛らしくかつ艶やかな姿か、主よ!」
「主よ、我らの理性をことごとく滅ぼすつもりなのだな!」
「我らの理性はことごとく消滅してしまったぞ、主よ!」
「主よ、いざ!」
「参る、主よ!」
テンションは最高。勢いは絶頂。しかもルドラは、いつの間にやら剣から人型へと姿を
変えている。
未だ驚きから回復していない主人は、彼らの格好の獲物――――にはならなかった。
忘れるなかれ、ここにはアグニとルドラの最大の敵たる兄がいるのだ。
その兄の鉄鎚が、落ちた。
「……死ね……」
静かな殺気とともに放たれたものは、不可視の斬撃。幾重にも重なった十数の刃がアグニと
ルドラを切り刻む。
その段になってやっと自我を取り戻したらしい主人が、慌てて声をあげた。
「や、やめろ――っ!」
主人の制止は完全な後手。しかし、彼は無残な血飛沫を見ることはなかった。
「兄上殿、我らの邪魔をするか」
「あくまで我らを阻むか、兄上殿」
ぴぃぴぃと喚く声。主人は毒気を抜かれたように視線を足下に落とした。
アグニとルドラは躰を縮め、ぬいぐるみの姿になって兄の攻撃を免れたのだ。
「あぁ、良かったぁ……」
心底安堵の溜息を吐く主人にの足首に、二体はひしりと抱き付いた。この主人は、最早
ドアが大破したことなど頭にないに違いない。自分の気に入りが惨殺されずに済んだことに、
ただひたすらほっとしている。
それは心から主人を慕う二体とって、何ものにも替えがたい幸福であり。同時に主人の兄に
とっては、ただひたすらに不愉快なことでしかない。
その対立する気持ちを、全く理解していないのが主人である。
「大丈夫か、お前ら?」
優しい声。ひょいと抱き上げてくれる柔らかな手。きわめつけに、首筋に引っ掛けるように
して肩に乗せられる。子供特有の滑らかな肌が心地好い。
「アンタなぁ、こいつらに対してそれはないだろ?」
そう、兄を咎める主人。アグニとルドラはある意味での勝利にうち震えた。
「それを離せ。二度と邪魔出来ぬよう、ばらしてやる」
怒り心頭、兄が低く言う。しかし彼らは主人に守られている為、怖いものはない。現に、
「だからやめろって。大人気ねぇ」
主人は二匹を庇い、兄を非難さえする。
たとえ主人が一番に慕う相手は兄であろうと、今この時だけは、主人は二匹のものだった。
それを嬉しく思わない二匹ではない。
「主よ、我らは今この上なく仕合わせであるぞ」
「もっと別の場所にも触れたいが、仕合わせであるぞ、主よ」
一部不埒な言葉を吐きつつも、二匹はすりすりと主人の頬にすり付いた。くすぐったいのか、
主人がちょっと首を竦める。
「こら、大人しくしてろよ」
それを見ていた――――ある意味見せ付けられていた兄が、こめかみを引きつらせて何ごとか
言った。主人が僅かにびくりと身を竦ませたが、幸福を噛み締めるばかりのアグニとルドラは、
兄の言葉も耳には入っておらず、かつ主人がどこか怯えたような瞳をしていることにも
気付かなかった。
彼らがそれを知るのは、これから数時間後のことである……。
触らぬ神に祟りなし。――――そんな諺など知っていようが知らなかろうが、アグニと
ルドラは今日も行く。
アグルドのある日の朝(昼?)をお届けしました。
アグルド主観なので、兄とダンテの名前はあえて出しませんでした。
こゆのもたまには良いかな、と。それにしても、何だか兄が仲間外れっぽい…。
今日のコンセプトは、盗み聞きで憤慨アグルド、かつアグルド勝利、というものでした。
いかがでしたでしょう…?