思灰
あいたい。
会いたい。
逢いに行こう。
この淵を抜け出して。
あの人に、会いに。
今日も今日とて、気温三十五度を超える真夏日だ。汗だくになりながら部屋で寝ることに
限界を感じたダンテは、ここ最近、時間を見計らって起き出し、リビングに移動する方法を
取っている。
何故リビングなのか。それは、クーラーの設置された部屋がリビングしかないからである。
時間は、バージルが起きるのと同時刻。暑さで眠りは浅い為、普通ならバージルがいつ
起床したか気付きもしないのだが、ここのところベッドの軋む音ですぐに気付く。別々の部屋で
眠っていれば、さすがにすぐさま起きるというまでいかないが、僅かな物音がすれば起きることが
出来る。
そして、寝着のままリビングに降り、クーラーのスイッチを入れてソファーで眠るのだ。
そうしておけば、何も替えがたい快適な眠りがダンテに訪れる。
ソファーでぐっすり眠ったダンテは知らぬことだが、冷風を吐き出すクーラーは、実は
バージルによって、ダンテが起きるまでに最低一度は切られているのだ。そして少し暑くなった
頃、また入れてある為に、ダンテは全く知らずに目覚めるというわけだ。
今朝もそうしてソファーで昼まで眠っていたダンテは、兄が溜息混じりに掛けたのだろう
薄手のブランケットを何となく畳み、伸びをした。同時に欠伸が出る。
「くぁ……あー……」
まだ眠れそうだ、などと思っていると、キッチンにいたらしいバージルの呆れた声が耳に
届いた。
「まだ眠れそうな顔だな」
そんなに判りやすい顔をしていたのか。ダンテは込み上げる欠伸を噛み殺し、ソファーから
立ち上がった。
「クーラーさえありゃ、いつまでだって寝てられるぜ」
眠りすぎると逆に疲れる、と言うバージルは、げんなりしたように首を左右にした。
「判ったから、顔を洗って来い」
「へいへい。言われなくても行きますよー」
ちょっと唇を尖らせ、リビングから一歩出たところで、ダンテは「うっ」と呻いた。暑い。
クーラーの効いた部屋を出れば、そこはまさに地獄。屋外などは一体どんなことになっている
のか、想像を絶する暑さであることは間違いない。
「あっぢぃ……」
一気に汗が吹き出し、体力を奪われた気分に陥ったダンテは、うんざりしながら洗面所に
向かった。たかだか十数歩の距離が、やけに遠い。
冷たい水で顔を洗い、少しすっきりしたところで、微かに事務所の黒電話が鳴く音が聞こえた。
近くにいればけたたましいそれも、壁を通せば小さなものにしかならないようだ。
依頼の電話か、それとも仕様もない間違い電話か。
顔を拭きながらぼんやり考えるでもなく思っていると、電話の音が不意に止んだ。切れたか、
バージルが取るかなりしたのだろう。
どちらでも良い。とりあえず、バージルの淹れたコーヒーが飲みたい。涼しい部屋で飲む
熱いコーヒーは、思いの外旨い。贅沢な話だが。
リビングに戻ると、ひやりとした冷気が汗の滲んだ躰を冷やしてくれる。ほっと息を吐き、
ふと気付いた。バージルの姿がない。代わりに、ということでもないが、テーブルにカップが
一つ置かれている。中身は見るまでもなく、エスプレッソだ。バージルは濃いめのものを好むが、
ダンテ用に淹れるものは少し薄くしてある。
ソファーには座らず、背凭れ代わりにして床に腰を降ろした。熱くなったカップを両手で持ち、
ずず、と啜る。熱いが、このくらいが舌には丁度良い。一気に飲まなければ問題はないのだ。
三口程飲んだところで、バージルが戻って来た。
「どこ行ってたんだ?」
とは訊かない。
「バージル、腹減った」
予想していたのか、バージルは肩を竦めて「判った」とキッチンに足を向けた。ダンテは
コーヒーを啜りながら、待ち遠しげにバージルの背中を見つめた。
『ある人物の接待』。
ただそれだけの依頼に、ダンテは当たり前だが全く乗り気ではなかった。しかも報酬は一晩で
一千ドル。破格どころの話ではなく、ダンテでなくとも不審に思わざるを得ない。用心の
足りない便利屋なら、疑いもせずに飛び付くかもしれないが。
請けなければ、次の依頼は回してやらぬ、と子供じみた脅しをかけられ渋々請けたダンテ
だったが、指定されたホテルの部屋の前に立ってみて、改めて後悔した。これでは、出張ホストと
何の違いがあろうか。
迎えの車など追い返してしまえば良かった。次回以降の依頼など、こちらから願い下げだと
言い放って。しかし後悔先に立たずとはよく言ったものだ。今更何を言ったとて、ダンテは既に
指定の部屋まで脚を運んでしまっているのだから。
仕方がない。
腹を括り、ダンテはドアベルを少し長めに押した。そうするよう、指示されたからだ。
日付の変わる、丁度十分前。蒸した部屋で本を読んでいたバージルは、階下の物音にぴくりと
眉を寄せた。
ダンテが仕事に出てから、およそ二時間。早い帰りだ。依頼の内容はバージルも知っており、
嫌気がさして帰って来でもしたのだろう、と見当を付け、バージルは本を閉じた。
階下に降りると、ダンテは何故かまだ事務所と共用の玄関に立ち尽くしたまま、動こうとも
していなかった。電気を付け、側に寄ってみて初めて、ダンテは顔を上げた。
どこを見ているのか判らない瞳が、バージルを何となく映す。
「……ダンテ?」
不審を隠せず、バージルはダンテの名を呼んだ。小さからぬ違和感を覚えながら。
どこにいても何をしていても騒がしいダンテが、こうも無口で、かつ動きと言うものを
見せないことなど、普通には考えられない。
「何があった、ダンテ?」
バージルはダンテに顔を寄せ、覗き込むようにして訪うた。今夜の仕事はかなり詰まらぬもの
だった筈だ。それがこんなふうになって帰って来るのだから、何かあったとしか思えない。
しかし、何が。
「ダンテ、」
何度目かの呼び掛けに、ようやくダンテが応えた。
「……バージル、……?」
「ダンテ、何があったか話せ」
「何があった、か? ……何か、あったっけ……?」
嘘を言っているのではないことは、生まれた時からダンテを知るバージルには、ありありと
判った。しかし嘘ではないとすれば、また新たな疑問が生まれる。
「何もなかったなら、何故そんなにも覇気のない顔をしている?」
いつもの勢いは、なりを潜めるどころか完全にない。こんなことが、今までにあっただろうか?
底抜けに甘えたがる時を除いて、の話だが。
今のこれは、甘えているのではない。
「バージル、何か、疲れた……」
やはり覇気のない声音で言うダンテに、バージルは腑に落ちないものを抱えたまま部屋に
連れて行った。
クーラーのない部屋は、当然暑い。しかしダンテは文句一つ言わず、静かにベッドに
横たわった。眠いだろうに、瞼を閉じようとはせず。
同衾してやらねば眠らぬのかと、バージルは肩を竦めてダンテの隣に横になった。
「よく眠れ。一晩眠れば、大丈夫だろう」
未だに消えぬ違和感も、不自然なまでの覇気――――生気というのかもしれないが――――の
なさも、明日になれば総て元通りになっている筈だ。
そう思い、バージルはいつもするようにダンテの髪を撫でた。と、
「……バージル、」
小さく名を呼ばれた。
「何だ」
眼前に、躊躇いの混じった濡れた双眸。思わず息を飲んだバージルに、ダンテはぽつりと
言った。
「……して……?」
ダンテから交合をねだることは、十度に一度あるなしだ。しかし、これはその枠には入らない
ような気がしてならない。
ダンテの意思ではないような、そんな気がするのだ。
「ダンテ、お前……?」
訝るバージルの首に、ダンテの腕がしなやかに巻き付いた。愛しいものに引き締まった腰を
押し宛てられ、既に熱がこもっているのを感じても尚、慾望に打ち勝てる男などいようか。
「……後悔するなよ」
低く告げ、バージルは理性を手放してダンテを掻き抱いた。
バージルがダンテの内に精を放った瞬間、黒い靄のような何かがダンテの躰から出、霧散して
消えた。
あれは何だったのか。
考えることもそこそこに、達した直後の倦怠感に襲われながら、しかしバージルはダンテを
開放することはなかった。
明くる日、昼過ぎになっても起きる気配ないダンテを、バージルは溜息混じりに起こして
やった。ダンテが起きられないのは、半分は自分の責任でもある。文句を言われるのだろう、
などとあまり反省もせずにダンテを揺り起こした。
が、バージルの予想を裏切って、ダンテは一言もバージルをなじることはなく。むしろ、
「……俺、なんで家にいるんだ?」
わけの判らぬことを口走る始末で。
「自分の足で帰って来ておいて、何故も何もないだろう」
確かに昨晩はどこか妙ではあったが。そのことはあえて言わず、バージルは首を捻っている
ダンテの頭をくしゃくしゃと掻いた。
「起きてシャワーでも浴びて来い」
「ん……うん、そうする」
ごそごそとベッドから這い出るダンテを何の気なしに眺めていると、
「……ありがとう」
出し抜けに、ダンテがそんなことを言った。
「何がだ」
意味が判らずに問えば、ダンテは何故か目を瞠った。
「は? 俺何か言ったか?」
完全な無意識だったらしいが、それにしては……。
「バージル、」
「うん?」
「腹減った」
真面目な顔で脈絡もなく言うものだから、バージルは呆れを通り越し、思わず笑ってしまった。
ダンテが恥ずかしそうに睨んで来る。
「笑うなよ。仕方ねぇだろ? 昨晩は食べたんだか食べてないんだか、よく判んねぇん
だからさ」
唇を尖らせてぼやくダンテの頬を撫で、バージルは微笑した。
「すぐに何か用意してやる。待てるな?」
「ガキ扱いすんなよ」
「寝癖だらけの頭で言えたことか?」
「え、」
ばっと頭に手をやるダンテを部屋に置いて、バージルは食事の準備をすべく階下に降りた。
ダンテが昨晩のことを覚えていないこと、それから無意識に口走った言葉。
不審なことこの上ないが、バージルには確かに判っていることが一つだけある。
ダンテはもう、いつものダンテに戻っているということ。
昨晩の出来事は、一夜の夢だとでも思っておけば良い。バージルにとっては、その程度の
ことでしかない。
想い人は遠く。
私は再び淵に堕ち。
けれどもう、未練はない。
いきましょう。
行きましょう。
淵の底、死出の旅路へ。
頂いたネタを念頭に置きながら書きました。
初めは牡丹灯籠をイメージしてたんですけど、長くなりそうだったので方向転換。
成功したかどうかは…どうでしょうね…;
とりあえず、ダンテが誰かに取り憑かれてた、と。
それすら分かりにくいシロモノですいません…!
と、いうか、これって屋根裏に置いたのが良かった…?