月鳴ゲツメイ








闇を射す、銀の光は昏き途。
陽光を厭い、闇に生きるものが彷徨い歩く。

あるものは虚ろに。
あるものは確かと。

満月の輝く明るい闇に、また一つ、昏きものが目を覚ます。





便利屋という稼業は、仕事を選り好みさえしなければ、かつ腕が良ければ、そうそう金に困る ことはない。評判が上がれば尚のこと、仕事は勝手に舞い込んでくるものだ。
一般人の忌避して近寄らぬ路地に、そういった社会から爪弾にされた便利屋達は自然と集まる。 彼もまた、好んで治安の悪い路地裏を選んで暮らしていた。

名はダンテ。その界隈で知らぬ者はない程の、腕利きの便利屋だ。
毎日、何かしらの依頼がダンテのもとに舞い込んで来る。場合によっては閑古鳥が幅を利かせて いる日もあるけれど、ダンテは常に様々な依頼で引っ張り凧だった。ただ、ダンテは仕事の選り 好みが激しい。その時の気分と第六感で決めるものだから、時には空きっ腹を抱えて溜息を吐く こともある。

今日は、ダンテは朝から――――と言っても既に昼に近いが――――依頼人に付きっきりで 仕事をこなしていた。内容はごく単純で、依頼人を指定された時間まで護衛すること。指定の 時刻は、零時丁度だ。
依頼者はとある財界人だった。いつも仕事を運んでくる仲介屋を通じて持ち込まれた、普段なら ば請けることのない依頼。が、ダンテの第六感が、これは当たりだとざわめいたのだ。

二つ返事で仕事を引き受け、ダンテは依頼者の近辺警固に従事しているというわけだ。
闇の薄い時刻から、ダンテが求める“奴等”が姿を現わすことはないと、判っているからこそ 欠伸が出る。
早く片付けて、早く帰ろう。
ダンテは思い、欠伸を噛み殺した。





バージルは一人、事務所の机に座り何をするでもなくぼんやりとしていた。机の上に放り出した 本は、全く読み進めていない。
別段、ダンテが出ているからと言って店番をしているわけでは、決してなかった。暇なのだ。 ただたんに。

ダンテがいれば音のある事務所や居住空間も、今は全くの無音。騒がしいのを好まない バージルには、むしろ有り難い状態である。が、しかし。
バージルは落ち着かなかった。何故かなど知らない。深く考えることもしない。ただ、何かが 足りぬ気がして、どうにも落ち着かない。

早く夜にならぬだろうか。

ダンテは日付が変わる頃に仕事が終わると言っていた。就寝の遅いバージルには、わざわざ 寝ずに待つ必要のない時刻である。
戻ったら、おそらくダンテはバージルの部屋に来る。兄と同衾することが、バージル以上に 気に入っているらしいダンテだ。こちらから言わずとも、勝手にベッドに潜り込んで来るに 違いない。

バージルはダンテにしか向けぬ笑みを浮かべかけ、しかし出来なかった。顔が、蝋で出来て いるかのように、動かない。
早く夜になれ。そう思う反面、夜になるな、と懇願するように思う心がどこかにある。

何故か。判らない。判からぬが、うっすらと、バージルはその理由を知っている気がして ならなかった。

鳴らぬ黒電話を、バージルは無意識に睨み付けた。





闇は音もなく侵蝕する。
太陽の光を。
鮮やかな大地を。
そして、人を。





深夜一時。ダンテは事務所の裏手にバイクを停め、少しばかり上機嫌に裏口から家に 入った。

「もう寝ちまったってことはない、よな?」

不自然に真っ暗な廊下。壁をさぐり、電気のスイッチを探してオンにする。ぱっと明るく なったそこは、しかし暗い。それはダンテだから判る、深い闇の匂い。
眉を顰め、ダンテは階上に上がった。今日は一日家にいたらしい双子の兄も、この不自然な 昏さに気付いている筈だ。

「バージ……ル……?」

名を呼び、ドアを開けようとして、ダンテはノブを掴んだまま眉根を寄せた。

何だ、これは。

まず持ったのは、疑問。
微妙な違いではあるが、階下よりも闇の匂いが強い。そしてそれは、ここから発せられては いないか。
ノブを掴む手から、力が抜けるような気怠さが全身に伝わって来る。この感じ、前に味わった ことがある。

どうなってやがる?

ダンテは口の中で呟き、意を決するように奥歯を噛み締めた。ドアを、勢い良く押し 開ける。





そこには、深い闇が在った。





陽が沈むにつれ、バージルは覚えのある焦燥が膨らんでいくのを感じていた。まだ辺りは 薄暗い。が、確実に闇が拡がりつつあった。
そして、己の中にある、本来は闇に棲むべき昏き血が、ざわりざわりと騒ぎ初めている。

一度魔界に墜ちたバージルは、同じ血を持つダンテよりも、格段にそちら側の生き物としての 血が影響を及ぼしやすい。元が人と悪魔の混合種である為か、全くの中間でいるよりも、むしろ どちらかに偏り易いらしい。
つまり、バージルは悪魔に。ダンテは人に。それぞれ、血は同じでも、その傾向は 真逆である。

一時は完全な悪魔になろうとしていたバージルは、あくまでも人として生きていたダンテより、 闇に弱い。いや、弱いという表現は相応しくないかもしれない。
闇に浸された血が、本人の意思を無視して共鳴する。最悪、自制が効かなくなるのだ。

気が付けば、外はすっかり黒に染まっていた。が、暗くはない。見れば、いつの間に昇った のか、真円の月が眩しい程に輝いている。

バージルは緑がかった碧眼に冴え冴えとして美しい月を映し、――――再び気付いた時、 鮮やかな緋に染まった弟の首を、両手で絞め上げていた。





暗闇の中に、何かが在った。





部屋は真っ暗で、月明りのみが光源であった。バージルの気配はすれど、ダンテはそれが バージルだとは間違っても思えなかった。

一体の悪魔が、いる。そうとしか見えなかった。

それを包み込むように、魔界の昏き闇が立ち込め、濃い瘴気が渦を巻いているのが目に 見えるかのようだ。

「……バージル、」

ほとんど囁くように呼び掛ける。これは何だ、と心の中では繰り返しながら、しかし バージル以外に有り得ないと確信して。

「バージル、」

二度、呼んだ。その時初めてバージルらしいそれが反応した。
ぎしり、と音が聞こえたわけではないのだけれど、それ程に軋んだ動きでこちらを振り返った。 障気を纏った顔立ちは、死者のそれよりも遥かに昏い。顔色は、紙よりも白く、青い。

三度みたび名を呼ばわろうとした瞬間、ダンテは息を止めた。 ――――バージルが、五歩程あった距離を一瞬で詰めたのだ。
常人を遥かに凌ぐ身体能力を持つダンテですら、見えない程の異常な速さ。面食らって一切 反応の出来なかったダンテの二の腕を掴み、肩口に鼻面を埋めた。

掴まれた腕に爪が突き刺さる。痛いと訴える間も与えられず、犬のように匂いを嗅いでいた バージルが、突然ダンテの肩に喰らい付いた。

まさに、獣。

尖った犬歯が皮膚を突き破り、肉に食い込む。血が溢れ、バージルの口許を緋に染める。 鋭い痛みに、ダンテはどうにか堪えた。しかし、

「……っあ……!」

肉を噛む顎に力が込められ、ぐちゅ、と嫌な音が響く。やめろ。ダンテは掠れた声で訴えた。 バージルのせんとしている意図が、読めたからだ。

「やめ……!」

抵抗虚しく。バージルの牙が、肉を喰い千切った。ダンテの絶叫が、耳をつんざく。

「っあ゛ぁぁああぁぁぁ!!」

抉られた肩からは血がどくどくと溢れ出す。千切られた肉はバージルの口内に消え、 嚥下された。真っ赤に染まった口許が、歪んだ。

ダンテは痛みに喘ぎながら、しかし声を上げることが出来なかった。バージルの手が、 二の腕から離れ、ダンテの喉をきつく絞めたからだ。

「……ぐ、ぅ……」

苦しい。痛い。大声で叫びたい。しかし、それをさせぬ為に、バージルはダンテの喉を 絞め上げているのだろう。
ダンテは痛みと酸欠で朦朧としながら、不思議な程穏やかにそう感じた。

腕を上げ、自分の血にまみれたバージルの頬に触れる。それは全くの無意識。

「……バ、ぁ、ジ……ル……」

圧迫された喉は、果たして音らしい音を発しはしなかった。しかし、バージルの耳には届いた らしい。すぅっ、と瞳孔が収縮するのが判り、闇が薄れバージルの気配が強くなる。

「…………ダ、ンテ?」

信じられないものを見たような、ついぞ聞いたことのない、困惑の隠せぬ声音。

「……ダンテ、俺は、何を……」

首を絞めていた手が離れ、ダンテはぐらりとその場に崩れ落ちかけた。咄嗟にバージルが 手を伸ばし、ダンテの腰を支えてくれた。反射的なものだったのだろう。バージルの瞳は、 まだ狼狽に揺れている。
ダンテは朦朧としながらもバージルの背中に腕を回し、子供が親にするようにしがみつく。

「……ぁ、ジ……」

喉を潰された程度では、おそらく死ぬことはない。しかしバージルは、確実にダンテを 喰らおうとした。抉り取られた肉を飲み込んだバージルは、口を歪めて笑っていた。極上の肉を 喰ったかのように、さも旨そうに嚥下した。

肩の痛みは、続いている。当然だ。血が流れすぎて、酸欠とは別の眩暈すらするのだから。

それでも、ダンテはバージルを責めようとは露程も思わなかった。ただ、今は強く抱き締めて 欲しい。骨が軋む程、きつく。
しかし、それは叶わなかった。

「…………!」

声なき悲鳴を上げ、バージルはダンテの躰を突き放した。
ダンテはよろめき、重力に引きずられるように床にへたりこんだ。兄は、今度は彼を支えては くれず。

「……お、れは」

呟くのと、床を蹴るのとはほぼ同時だった。がしゃん、と窓を突き破り、バージルの姿は夜の 闇に溶けて消えた。
ダンテは茫然と、兄の消えた窓を見つめていた。





銀の輝きは月の雫。
闇を照らし、闇を包む。





口の中に鉄錆の味が広がっている。
吐き気がした。しかしそれは、実の弟の肉を喰らう、という信じられぬ行為に対してのもの であり、口内に染みた血の味に対するものではなかった。

ダンテの血は、甘い。

バージルは腕で乱暴に口許を拭った。
自分はどうしてしまったのか。自問の答えを、しかしバージルは初めから知っている。

家に置き去りにしたダンテから、どれ程離れただろう。そう時間は経っていないとは思うが、 全力で走っていたのだから、距離は稼げた筈だ。

もう、ダンテの側には戻れない。戻れよう筈がない。

バージルは不意に減速し、脚を止めた。どことも知れぬ薄汚れたビルの壁に凭れ、ずるずると 座り込む。ダンテ、と口の中で呟くが、思い出されたのは血の甘さと肉の柔らかさだけ だった。

吐き気がする。

気が付けば、バージルは声もなく涙を流していた。





闇は闇に。光は光に。
両極にあるものは、ついに一つにはならず。





破れたシャツ。裂けた肩。溢れる血。絞められた痕がくっきりと残る、首。

まさにぼろぼろの状態で、ダンテは闇に包まれたスラム街を駆けていた。いや、貧血が酷く、 とても走っているとは言えぬ覚束ない足取りである。

バージルがどこへ行ってしまったのか、ダンテには判らない。が、ダンテの脚は、 ふらつきこそしているものの、迷いはなかった。
いくつも角を曲がり、家から数マイル離れたところで、ダンテは壁に凭れ、力なくうなだれた バージルを見付けた。

肩の疵は既に塞がりつつある。しかし、流れすぎた血は確実にダンテの体力を削り取って いた。
最後の力を振り絞り、ダンテはバージルに駆け寄った。そして、がくりと地面にへたり こむ。

「バージル、」

嗄れた呼び掛けに、バージルがのろのろと顔を上げる。死人のような顔色と、虚ろな瞳。 こんなバージルを、ダンテは見たことがない。
ダンテは堪らなくなって、バージルを抱き締めた。置いていかれたのは自分だというのに、 こんな顔をするなんてあんまりではないか。

「バージル、バージル……っ」

何度、名を呼んだか。

「…………ダンテ、何故、」

何故追って来たのか、とバージルは問うてくる。言葉は足りないが、ダンテには判りすぎる程 判った。

「何故、だって? んなもん、アンタがそんなだからじゃねぇか……!」

血を吐くように、ダンテは叫んだ。と言っても、掠れた声は大声などにはならず、喉は ひりついてかさついた不快な音が付き纏う。

「なんで……何でまた、置いてかれなきゃならねぇんだよ……!」

それは、ダンテにとっては悪夢――――いや、絶望を味わわされるのと同じか、それ以上の 最悪の状況に貶められることだ。
ダンテには、どんな形であれ、バージルが離れること以上に堪えられぬことなどない。
たとえ殺されかけようと、肉を喰い千切られようとも。バージルが側にいる、そのただ一つの 事実だけで、ダンテはどんなことにも堪えられる。堪えられぬわけがない。

「ここにいろよ、バージル……アンタがいなきゃ、俺は、俺はどうしたら……ッ」

「ダンテ……俺はまた、いつお前を喰おうとするか、判らん……」

囁くような微かな声。しかしダンテは一語たりとも聞き逃すことはなかった。

「アンタがいなくなるぐらいなら、こんなこと、何でもねぇ。だから、なぁ……?」

蹲るバージルの顔を覗き込み、ダンテは兄の頬に触れた。常に低めの体温は、いつもより更に 冷たく感じた。

「頼むから……肉なんて喰って良いから、だから、」

そばにいて、触れていて、欲しい。

バージルの頬に残った涙の痕を、ダンテは己の舌で拭った。それは、酷く悲しい味が した。





宵は薄れ、月は隠れ。
朝が、皆に訪れる。





明るい陽射の満ちた部屋、セミダブルの狭くはないベッドの上で、バージルは覚醒した。
気怠い腕を伸ばし、時計を探る。時刻は既に昼を回っており、バージルは小さく溜息を 吐いた。
こんな時間まで眠ったのは、いつぶりだろう。
尤も、眠りに落ちたのがすっかり夜が明けて以降のことである為、睡眠時間としてはさほど 長くはない。

時計を元の位置に戻し、バージルは視線を自分の左側に向けた。正確には、左斜め下を。

仰向けになったバージルの左腕に頭を少しだけ乗せ、頬をバージルの胸に押し当て、 すり寄るように眠るダンテの髪が、視界に映る。白に近い銀髪は光の加減できらきらと 輝いている。
バージルは眩しげに目を眇め、頭を傾けるようにしてその銀糸に口付けた。柔らかな髪は、 バージルの気に入りだ。

ふ、と笑みを浮かべかけ、バージルは顔を強張らせた。視線の端に、白く痛々しい包帯が 見えたからだ。
血は止まったが、傷口はまだ塞がり切ってはいない。昨晩の凶行をまざまざと突き付けられて いるようで、バージルは息が止まるような感覚に襲われた。

あの後、家に戻ってダンテの治療をした。肉がずたずたに裂けた肩は、悲惨としか言えぬ 状態で、バージルは自分のしたことに再び嫌悪を抱いた。それは憎悪にも似た感情で。
ダンテは嬉しさと辛さがないまぜになった複雑な表情で言った。

――――痛くなんか、ねぇよ。

泣き笑いのような表情に、バージルは胸が苦しくなった。
総て自分のせいだ。ダンテをこんな目に合わせたのも、こんな顔をさせるのも、総て。

本当なら、自分はダンテの側にはいてはならないのだ。しかし離したくないという思いが ダンテに自分を追わせ、ダンテに縋られたから、という尤もらしい理由を得て、今こうして ダンテの傍らに在るのだ。

浅ましい。――――愚かしい。

いつかこの弟を殺してしまうと判っていて、それでもダンテを手放すことが 出来ないのだから。

昏い想いは、遠くない未来にダンテを喰らう。

けれど、――――

バージルは子犬のように丸まり、ぐっすりと眠っているダンテの髪を撫ぜ、口許に自嘲の笑みを 浮かべた。
今だけは、今この時だけはこうして温もりを感じていたい。いつかは狂気に飲まれ、闇に 墮ちる身だとしても。

求められている間だけは、ダンテの側にいることを赦されるのだと、思いたい。

それだけが、バージルにとっての“仕合わせ”――――狂気と正気が隣り合う、危うい均衡を かろうじて保たせるもの。

「……ダンテ……」

愛おしげな囁きは、狂った心を映して昏く響いた。





闇夜に舞う、黒き蝶は月に戯れ。
月夜の晩に、闇の獣が咆哮を上げる。

虚ろな夜に。
空ろな闇に。

月は満ち、闇は深まり。
いつしか人は、昏き途へ誘われる。























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頂戴したネタを使用させていただきました。