幸福論サイワイトハ








行き場をなくしたものの墓場は、この世のどこにあるだろう。





ローテーブルの下に、黒い毛玉が蹲っている。猫だ。腹のあたりが規則的に上下し、 放射線状に伸びた髭が、それに合わせてゆらりゆらりと揺れる。
黒猫のすぐそばには、すらりと長い脚が横たわっている。細身だが華奢という言葉とは無縁の、 しなやかな脚だ。それに寄りかかるようにして、黒猫は眠っているのであった。

脚の持ち主は、名をダンテという。
黒猫にとって彼は、一般的には飼い主と表現するのが最も適切であろうか。 しかし彼は黒猫を飼っているとは思っておらず、ただ棲家を与えただけ、という 認識しかしていなかった。では、黒猫のほうはといえば。

彼は、飼い主とは別の意味の“主”――

この黒猫がこんなふうに穏やかに眠ることができるのは、彼のそばにいるからであり、 今現在、この家には彼しかいないからでもあった。

彼はソファを背もたれにし、脚をローテーブルの下に投げ出して居眠りをしている。 その足許に、黒猫は蹲っていた。彼の腹の上に乗ったところで、おそらく彼は黒猫を 叱ったりはしないだろう。むしろ艶やかな毛並みを撫で、より心地好い眠りへ誘って くれるかもしれない。
彼は黒猫に甘い。それをよく自覚している黒猫であるが、あえて彼に甘えることを自制していた。

彼の傍らはあまりに心地が好いから、中毒でも起こしてしまいそうになる。

「くぁ……」

彼が座ったまま躰を伸ばしたらしい。奇妙な声はあくびでももらしたか。黒猫は目を閉じたまま、 鼻先をぴくぴく震わせた。
穏やかな時間はゆるゆると過ぎていく。黒猫が野良をやっていた時には考えたこともない、 満ち足りた時間がここにある。

彼でなければ、と黒猫は折に触れて考えるのだ。

例えば彼以外の人間が、この黒猫を飼おうとしたならば――黒猫は迷わず地を蹴って、 その人間の手が届かぬところまで逃げたことだろう。誰に懐くこともなく、孤高のまま、 野良猫という肩書きのまま死んでいくことを選んだだろう。
あの頃はそれでよかった、と黒猫は思う。むしろ自らそれを選んだからこそ、 黒猫は気ままな野良暮らしを謳歌していた。

それが当然だと思っていた。彼に出合うまでは。

運命だとは、黒猫も思ったことはない。そんな簡単な言葉で一括りにされたのでは堪ったものではない。

ごそごそと居住まいを正すように身じろぎした。しかし脚は変わらず伸ばされたままなのは、 黒猫の眠りを妨げぬよう気を遣っているからだろう。そのさり気ない優しさが、 とても彼らしくていいと、黒猫は密やかに微笑する。
しかし穏やかな時間はあっという間に過ぎ去り、壊れるものだ。

「ん、」

彼が何かに反応し、吐息のような短い声をもらした。黒猫の耳は、彼より先にその“何か”の 音を拾っている。気づいていながら彼に伝えることをしなかった理由はひとつ。癪だからだ。
それは黒猫もよく知る人物の足音。

「やっと帰ってきたか」

遅ぇ、と恨みがましく彼が悪態をつき、おもむろにローテーブルの下の黒猫を覗き込んだ。

「悪ぃ、動くぞ」

わざわざ一声かけてくる、そんな優しさがくすぐったくもあるけれど、黒猫は素直に喜べなかった。 が、彼のためだと己に言い聞かせて身を起こした。
鈍い彼は黒猫の機嫌が下降していることには気づかず、さっと立ち上がりリビングから出て行ってしまう。

しなやかに伸びをして、黒猫はため息をついた。二度寝をする気にはなれず、ローテーブルの 下からのろのろと這い出した。長い尻尾は床をなぞるほど垂れ、不機嫌そうに揺れている。
どんな文句を言っても、所詮は無駄だ。黒猫は彼に属するものだが、その逆はあり得ない。 そもそも黒猫が彼を己が主と定めたこと自体、彼は知らぬことなのだ。

この誓いは黒猫ひとりのものであり、彼の意志は関わりがない。

にゅう、とひとつ鳴いてみる。それは思いのほか寂しげに響き、 黒猫の気分をさらに消沈させたのだった。



後悔などしていない。それだけは絶対にありえないと断言できる。

けれども。
――けれども、

募るばかりのこの想いを、こんなにも持て余すことになろうとは、誰が予測できただろうか。





どこかの誰かが不吉と言った、黒の毛皮を纏った小さな獣は、今日もそっとため息をこぼす。



















戻。



久しぶりの黒猫です。片思い。
鴉を出そうかと思ったけれど、長くなりそうだったので割愛…