霍乱
がしゃん、と硝子の割れる盛大な音が響いた。音源は台所――茫然と立ち尽くす青年の足許。
粉々に砕けた硝子の破片が、蛍光灯の光をきらきらと反射している。
棒立ちになっていた彼がはっと我に返ったらしく、足許を凝視しながらじりりと身動ぎした。底の厚い革靴を
履いているので、硝子片を踏みしだいても怪我はしないだろう。たとえ怪我を負ったとしても、すぐに治って
しまうこともわかっている。だが、
「動くな、ダンテ」
バージルは彼を制止し、新聞を傍らに放ってソファから立ち上がった。ダンテはまた、石像のように
固まっている。ただ先ほどと違うのは、顔だけこちらに向けていることだろうか。
やや青褪めた感のある顔には、怒られる、とでも書いてあるようにバージルには見えた。実際、バージルは
よくこの愚弟を叱る。理由はひとつではなく、様々だが。
何をしても怒られる、とでも思っているのかもしれない。それほどに、バージルは彼を叱らねばならぬ場面が
多いのである。
無論、いずれ場合でも悪いのはダンテだ。
だが今この時ばかりは、バージルは彼を叱りつける気はなかった。余計なことをしてくれた、という
気持ちは大いにあるが、それだけだ。そしてそれはとても稀有なことでもある。ダンテがこちらの動向を
伺いながら、びくびくと怯えているのがいい証拠だ。
床に散らばった硝子片を箒で掃き、塵取りを使ってくまなく回収する。それを広げておいた古新聞で
まとめて包んで、屑かごに放り込めば終了だ。
バージルが掃除をしている間、ダンテは言いつけを守ってぴくりとも動かないでいる。さすがに瞬き
くらいはしているだろうが、普段にはない異様なまでの忠実さがバージルにはおかしかった。それを、
なぜ日常生活に活かせないのか不思議でもある。普段から今のように従順でいてくれれば、
バージルもそう目くじらを立てずに済むというのに。
「もういいぞ」
箒と塵取りを階段下の物置にしまい、バージルは不肖の弟に声をかけてやった。そうしなければ、
彼はいつまでも固まったままでいたかもしれない。それもいいか、と。ちらと思ったことはあえて言わないが。
ダンテは大きく息を吐き、肩を落とした。グラスを割ってしまったことに対し落ち込んでいるのではなく、
バージルの命令に従ってずっと同じ姿勢で硬直していたため、ただただ疲れただけに違いない。
もう少ししおらしくなれば、と喉の奥で呟いて、バージルはソファに腰を下ろした。脇に放ってあった
新聞を再び広げる。ダンテいわく活字中毒であるバージルの日課だ。目ぼしい記事が載ってことは少ないが、
日課は日課であり、趣味とは異なる。面白いだとか、楽しいということとは直結しないこともあるのだ。
視界の端に、ぎこちない動作でこちらに近づいてくるダンテが映った。そろりそろりと、なぜか忍び足で
にじり寄ってくる彼だが、そのおかしなさまをバージルに見られているとは思っていないのだろう。
そうっとソファの後ろを回り、恐る恐るといったふうにいつもの場所に尻を落ち着けた。
足音もそうだったが、物音をこそりとも立てぬよう息を潜めて動くダンテは、当然ながらなかなか見れる
ものではない。がさつで落ち着きもなくおしゃべりなこの弟が、こうもおとなしい理由は何であるのか。
グラスを割ったことも一つの理由ではあるだろうが、それだけでここまで落ち込むとはバージルには
思えなかった。
バージルはダンテの後頭部を、無意識のうちに凝視しながら考える。もはや新聞は膝に乗っており、
存在すらも忘れられている。
ダンテは大雑把に言えば子どものような性格の持ち主だ。芯はある。同時に頑固でもあり、それが
バージルをいらつかせることは少なくない。正義感も強いだろう。愛嬌もあるので、人から好まれやすい
弟である。主に男が寄ってくるのは、バージルにとってはまったくもって好ましくないことなのだが、
今は横に置いておく。
鉄の心臓と肝を持ち合わせるダンテがおそれるものがあるとすれば、何か。
ふむ、とバージルは内心でひとりごちた。
「ダンテ、」
おもむろに名を呼ばわれば、ダンテの肩がぎくりと跳ねる。何をそこまで怯えているのか。バージルの
頬に笑みが浮かぶ。それは見るものが見れば寒気のする笑みであったが、生憎、ダンテですらそれを
指摘することはできない。
「な、なに……」
おどおどと応える声がいいと言えば、この弟はどんな顔をするだろうか。想像すると笑みが深いものへ
変わっていく。バージルの感情を動かすものは、この世にダンテただひとりだ。
「どうした、ダンテ。おまえらしくもない」
わざとぼかした言い方をしてみれば、ダンテはもごもごと口ごもった。だって、などと口の中で何をか
言っているようだが、バージルはあえて聞こえないふりをしてやった。
「なんだ。言いたいことがあるなら、はっきりと言え」
ぎく、とまたしてもダンテの肩が跳ねる。かわいいものだと思う反面、短気なところのあるバージルは
少々苛立ちを覚えている。ダンテがはっきりものを言わぬことにではなく、なかなかこちらに顔を
向けようとしないことに。
ダンテの内心など知ったことかとバージルは思う。自分の言うことだけ聞いていればいいのだと、
自分だけ見ていればいいのだと、強く思う。しかしそう思えば思うほど、望めば望むほどに、彼は
自分から離れて行くような感覚がバージルにはあった。焦燥。そして憎悪がバージルの身を蝕んでいく。
昏い感情を増長させるのも、浄化させることができるのも、この弟しかいないというのが実に滑稽だ。
自分ではどうにも制御のできない、激情と呼ぶべきもの。根底にある醜い慾の向く先は、やはりダンテ
ひとりなのだ。
いっそ、後ろから首でも絞めてやろうか。
そうしてこの激情をもって彼の肉を貫けば、あるいは慾のひとつも充足させることができるかもしれない。
そう、今この時は。
悶々と物騒なことを考えるバージルに抑止をかけたのは、無論のことダンテであった。
「ごめん、な」
喉だけで囁いたような小さな声だが、常人とは比べものにならぬ身体能力を持つバージルには、
彼の言葉をはっきりと聞き取ることができた。
「何がだ」
何のことを謝罪しているのか、本当に疑問に思ったのでそのまま口に出したのだが、ダンテの耳には
鋭い誰何のように聞こえたのかもしれない。
ダンテは相変わらずおどおどしながら、言葉を選ぶようにして紡いでいく。
「えっと、その……グラス割っちまって……」
怒ってるよな? と。
先ほど、バージルはダンテを叱るわけでもなく、床に散らばった硝子片を黙々と片付けた。ダンテは
それを見て、バージルが無言で怒っていると思い込んだらしい。静かな怒りをどこかへぶつけることも
しなかったバージルに、ダンテはひっそりと戦慄していたというわけだ。
馬鹿な子ほどかわいいとは、よく言ったものだが。
「ダンテ、こちらを向け」
言えば、首を引っ込めるようにして、彼がそろそろと肩越しにバージルを見上げてくる。上目遣いの
その表情。犬ならば、耳はぺたんと寝ているに違いない。それほどに情けないさまであるが、
バージルはダンテをからかうことなどしなかった。
無造作に伸ばした手で彼の二の腕を掴み、バージルには珍しい雑な動作でそれを引いた。
「な、なんだよ、バージル?」
ずるずるとダンテの躰がソファに引き上げられたところで、彼の腰に手をやり、ぐいと引き寄せる。
ダンテが戸惑う間に、彼はすっぽりとバージルの腕の中に収まっていた。体躯こそほぼ同等の彼らだが、
膂力ではバージルが優っているし、バージルは彼を重いと思ったことは一度もない。それこそ、
年端もいかぬ幼い時分からそうだった。
膝の上に抱き上げてしまえば、目線はダンテのほうが上になる。しかしダンテの腰は引けていて、
背中も丸まっているため上目遣いに変わりはなく。無意識にしているのだろうその目が、表情が、
どんなにか男を煽るとは想像もできないに違いなかった。
彼はとても、とても鈍い。馬鹿ではないのがせめてもの救いかといえば、バージルからすれば彼は
とことん馬鹿であるため、ほんのわずかな救いもない。
(だが、)
誰よりも馬鹿なのは、こんな愚弟を手放すことができない自分であることを、バージルはよく知って
いるので。
少しでも自分から距離を取ろうとする彼を、力づくで引き寄せ抱きしめた。わ、と彼の口からこぼれた
小さな悲鳴に笑みを浮かべ、白い首筋に顔を埋める。
この烈しい感情を突き動かすのも、宥め抑えることができるのも、彼ひとり。
甘いにおいに誘われて、透けるような肌に犬歯を突き立てるまで、あと僅か。
たまには怒らない兄でもどうだろうかと…
思ったらただ甘いだけになりました。
兄の頭の中は毎日こんな感じです。