組曲クミキョク








勝手に期待をして、
勝手に打ち砕かれて、

それを裏切られたと感じるなど、なんという傲慢だろう。

わかっている。よく、わかっているのだけれど、
期待することをやめられない。

愚かにも、

愚かにも――





バージルの顔をしばらく見ていないように思うのは、おそらく気のせいではないに違いない。あの“働きもの”の 兄は、自分とは違って選り好みをせずに依頼を請け負うものだから、数日、下手をすると半月以上、休みなしに 仕事詰めということが稀にある。今がちょうどその期間の真っ最中で、ほとんど出ずっぱりで家を空けている バージルに対し、とことん仕事の好みにうるさいダンテは毎日ひとり、事務所兼自宅を守っている状態であった。
詰まらない、と思う。
おもしろくないとも、思う。
しかしそれを兄に言ったことはない。そういった感情を、正しく血を分けたきょうだいにぶつけるには、 ダンテは歳を取りすぎている。むろん世間的にはまだまだ若造の域を出ないし、その自覚もしているけれども、 そういう世間体はこの際関係がない。そういう意味では、ダンテは完全に自立した一個の人間である。

しかし腹に溜め込んだ想いは、ふとしたときにぐいと鎌首を持ち上げるから困るのだ。

帰ってきたら、酒場で見かけた奇妙な男の話をしようか。
最近あんまりにもご無沙汰だから、たまには恥をかなぐり捨てて甘えてみようか。

などと、欠片ほどでも考えてみた夜は、とくにバージルの帰りが遅いときているから、空回りも極まっている。 いっそむなしくなるほどに。

そう、これは勝手な言い分だ。
バージルは何も知らない。何も聞かない。何も、気づかない。

ダンテがひとりで考え、ひとりで落ち込んでいるだけにすぎないことを、バージルにどうして伝わるというのか。 ただでさえ、バージルはそういった感情に疎い。気づかなくて当たり前、そうなのだ。
だから、ダンテは今日もひとり、肩を落とす。ソファを背もたれにした、いつもの場所で。バージルのいない夜を、 ひとつ、またひとつと数えながら。






はっ、と目を覚ましたダンテは、ありきたりな話であるが、一瞬、己がどこにいるのかわからなかった。 身を仰向けに横たえた自身の、背に感じるふかりとした感触はベッドのマットレスであろう。しかし毛布などは かぶっていない。ここのところ暖かな気候が続いているから、寒いとはまったく感じないのだけれども。
自分がどこに寝ているのか、それはわかった。けれど疑問はまだある。

「……どこだ、ここ?」

よく見慣れた天井とはまるで違う、真っ白なそれがダンテをじっと見下ろしており、この場所がダンテの知らぬ 部屋であることを無言のまま教えている。
まず、誰の部屋なのか。ホテルかどこかであるならば、なぜこんな瀟洒な――自分では絶対に選ばない――部屋に 寝ているのか。誰か、自分の他に人がいるのだろうか。いや、しかし。身に覚えがないとなると、さて、 どうしたものか。
ぐずぐずと考えても仕方がない。ダンテはゆっくり躰を起こし、ほどよくしなる上等そうなマットレスの上で 胡座をかいた。ぐるりと見渡したそこは、どうやらホテルの一室であるらしい。ベッドはふたつ。しかし隣の ベッドに乱れはなく、シーツの裾はマットレスの下にぴっちりと収まったまま、枕もきれいに揃っている。
レースのカーテンがかかった窓は白く、陽がとうに昇っていることがわかる。
ダンテはがりがりと頭を掻いた。銀細工のような髪が光をきらきら弾く。

「きのう、……?」

バージルは例によって留守をしていて、暇を持て余したダンテはいつもの酒場に繰り出した。馴染みの仲介屋の 姿は見えなかったが、酒場を切り盛りする親爺がこしらえてくれる、いつものストロベリーサンデーに舌鼓を打ち、 きれいに食べ終えた後のジン・トニックへの流れもいつもと変わらなかった。酔った、という記憶はない。 なのに記憶が途切れているから、まったく不思議な話だ。

「なんだってんだ……」

呟いたとき、ドアの開く音がした。かちり、と錠が解除される乾いた音に、ダンテは眉をひそめてそちらを 見やった。記憶にないホテル。もちろんチェックインした覚えもない部屋の、片方だけ乱れのないベッド。 酔った自分を、誰かがわざわざホテルのツインを取ってまで介抱するとは思えないし、そもそもダンテは 酩酊するほどアルコールをあおったことなどない。しかし記憶が途切れていることへの説明はどうつければ いいのか。
後から後からわいて出る疑問にしきりに首をかしげつつ、ダンテは部屋に入ってきた人物を無言で迎えた。 その人物とは、――






バージルは今夜も帰らない。明け方か、それとも日中か、いつ帰宅するかはバージルの心ひとつであり、 ダンテは仕事の内容すら一切聞かされていない。ダンテも聞きはしなかった。いつものことだ。バージルは いつも、何ごとも言い残すことなく出かけていく。

バージルは、きわめて情に薄い男だ。

かくいうダンテ自身も、情に篤いかといえば、そうでもないとしか答えようがない。我が身を棚上げして他者を あげつらうのは人間の得意とする不徳だ。
束縛することも、されることも好まないダンテにとって、今置かれている現状はなんら問題のない状態に違いない。 むしろ好ましいと言えるほどに。その、はずだ。けれど、ともすれば不満を口にしてしまうのは、やはり傲慢という のだろうか。
どうすれば自身と折り合いがつくのか。例えば自分も、バージルと同じように依頼を山ほど請け、毎日仕事に 明け暮れてみようか。土台無理な話であるが、一度、試してみるのもいいかもしれない。さすがに、多少の選り 好みはしたいけれど。
双子でありながら、バージルとダンテはかくも似ていないきょうだいである。似ていてたまるか、とは、おそらく どちらもが思っていることだ。
他人ではない、他者。世界で唯一の同種は、世界でもっとも理解不能ないきものであるから甚だ困る。

ダンテはデリバリーのピザを咀嚼しながら、事務所にしつらえた黒檀のデスクに腰かけ脚を組んでいる。 尻は椅子、脚はデスクの上という不安定な体勢だが、ダンテは気にしたふうもない。
明るくはない電灯の下、ダンテは無意識に玄関を兼ねた扉を見つめている。口にはピザの切れ端。チーズと トマトソースが混じり合い、舌にほどよい甘みと酸味を与えてくれる。ダンテはピザが好きだ。しかしバージルは そうではないので、ダンテがこれを味わえるのはバージルが不在の日に限られる。鬼の居ぬ間に、というわけ である。
屑入れに折り重なったピザの空き箱を、バージルは見ただろうか。バージルが不在続きのために、屑入れは 現在飽和状態になりつつある。見たのならば呆れるだろう。怒るだろう。しかしバージルからは何ら反応はなく、 そういえばここしばらく、バージルと言葉を交わした記憶もないことに気がついた。
この、異常と言って過言でない現状に。ダンテはある意味で慣れていた。時折発作的に発生するこのバージル不在の 期間。無理にでも慣れねば躰がもたない。普段、あまりにも兄に依存した生活を送っているものだから、徐々にでも 慣らしておかねばならなかったのだ。

最後のひと欠片を口に運び、ダンテはどこへともなく視線を泳がせた。ピザを咀嚼する音が、我がことながら 不快だと思った。






「――――」

現れた人物が何をか言った。名前であったようにも思うけれども、よく聞き取れなかったので定かではない。 その“誰か”は、ダンテの知らない人間だった。男である。
短い髪は艶のある黒、瞳は黒味の強い灰。肌は褐色。鼻梁は高く、端整な顔立ちだ。歳はダンテよりも上で あることは間違いないだろうが、若くも見えるし歳を取っているようにも見える。白地に青のストライプが 入った開襟シャツに覆われた体躯はがっしりとしていて、常に鍛えているのだろうと予測できる。
値踏みするようなダンテの遠慮のない視線を、男は不快に感じるふうもなくただ受け入れている。妙な男だ。 ダンテは眉根にいっそう皺を寄せた。男は自分を知っているに違いなく、しかしダンテ自身はまったく記憶にない。 奇妙だが、あり得なくもない、と言えてしまえるからたちが悪かった。
行きずりの相手と寝る。ダンテにとって、それは珍しいことではなかったからだ。相手が男であることも含めて。 もっとも、この男と肉体の関係を持ったかどうかはわからない。躰に怠さや違和感はないし、服は今朝自分で 着たものそのままである。

さて、どうしたものか。

途方に暮れるほど深刻には捉えていないが、どうにも腑に落ちない。男は何かを愉しむように口端を上げ、 ただこちらを見つめるばかりだ。なんのつもりなのか、目的もなく、というわけはあるまいに。

「誰だよ、アンタ」

たまりかねて、ダンテは刺々しく誰何した。褐色の肌の男は笑みを絶やすことなく、薄い唇をわずかに動かした。 何かしら言葉を紡いだようだが、いかんせん囁くような小声で聞き取れない。

「聞こえねぇよ。なんだって?」

若干苛立ちながら問いただせば、男はなぜか笑みを深くする。気味が悪い。ダンテが眉間に皺を寄せると、 男がおもむろにベッドのほうへ近づいてきた。ダンテは身じろぐごとなくそれを見ている。男のほうも、 ダンテが逃げるとは思っていないようだ。
近づいてきて初めて、男がなかなかに長身であることに気づいた。ダンテも背は高いほうだと思っているが、 それ以上はあるだろう。だから何だと言ってしまえばそれまでだが。
男は長身を折りたたむようにしてベッドに腰を下ろした。躰をひねるようにして、彼と顔を合わせてくる。 濃い灰の瞳に、ダンテの訝しげな顔が映りこむ。ダンテの空色の双眸には男の微笑が映っているのだろう。 距離にして頭ひとつ分。息が触れ合うほど近くはないが、互いの息づかいが聞こえる程度に近い。

「なんだよ、」

先に言葉を発したのは、あまり気が長いほうではない彼だ。男の瞳の中で、銀髪の青年は相変わらず不審をあらわに こちらを睨みつけている。

「なんであれば理解する?」

男の不可解な言葉は、やはり囁くように紡がれた。低い、しかしながら厭な響きは感じない。佳い声、というの だろうか。
その声に聞き覚えがある気がして、ダンテは困惑した。誰かに似ている声なのか、それともこの男自身を知って いるのか。後者ではないはずなのだが、わからない。男の言葉の意味も含めて、さっぱりわからない。
当惑するダンテの姿を、男は愉しんでいるようだ。

「なんだってんだよ、クソッ」

苛立って口汚く罵るダンテに、男は言う。

「そうだな、謎かけだ。持て余した時間を潰すには、ちょうどいいだろう」

当ててみろ、と男は言う。何を、と言いさしたダンテの唇を塞いだのは、言うまでもなく男のそれであった。



冷たいと、思った。






起きろという声とともに、ダンテは目を覚ました。いつの間にやらソファに寝そべって眠りこけていたらしい。 のっそり躰を起こすと、膝に重くはない何かの重みがかかった。黒い毛皮をまとったそれは、ダンテによく 懐いている猫である。

「あー……おはようさん」

にゅう、と黒猫は相も変わらず妙な声で鳴く。何やら目つきがいつもより尖っているような気がするのは なぜなのか。内心首をひねって、ちらりと視界に入ったもうひとつの黒いものに気づいて納得がいった。
それは艶やかな黒をまとった一羽の鴉である。
この黒いものたちはどうにも仲が悪く、ダンテの知る限り、顔を合わせるたびになぜかいつも喧嘩に発展するのだ。 ぎゃあぎゃあとうるさいときもあれば、今のように冷ややかな空気でもって牽制しあっているときもあるが、 これほどに仲が悪い理由はダンテにはわからない。

「また喧嘩かよ……飽きねぇな、おまえら」

呆れて言えば、黒猫がむっとしたように目を細め、鴉は素知らぬ顔をして嘴で羽の付け根を掻き始めた。 反応はそれぞれだが、仲良くするつもりはまったくないことは明らかである。

「まぁ、いいけどよ、べつに……。それよか、ユタ、おまえどこ行ってたんだ? しばらく顔見せなかったよな?」

この黒猫には、ダンテがユタという名をつけてある。元野良である猫を、寝床を提供するという形で家に 迎え入れたのはダンテであるが、さりとて飼い猫になったとは思っていない。猫は自由だ。首輪はさせていないし、 出入りも自由。なのでこの猫がしばらく姿を見せないことも、当然ながらあり得るなのである。
黒猫はにゅうと鳴き、ダンテの腹に頭をこすりつけた。ひとりにして悪かった。そんな言葉が聞こえた気がして、 ダンテはくすぐったさを紛らわすように黒猫の毛並みを撫でた。

「気にしてねぇよ、だいじょうぶだ」

言えば横合いから「クッ」と笑うような声があり、黒猫は敏感に顔を上げてそちらを睨んだ。

よけいなことをするな。
何のことだかわからんね。

何かしら言葉の応酬をしているようだが、ダンテは肩をすくめてそれらを聞き流した。黒いものたちの喧嘩の 仲裁は成功した試しがなく、放っておくのが一番であるからだ。

「腹減ったな……」

兄は今日こそ早く帰ってくるだろうか。いや、期待はしないほうがいい。勝手な期待をして、叶わなかったとき、 兄を恨めしく思ってしまうのはわかっている。兄は何もしていないのに。何も知らない人間へ一方的な怒りを ぶつけるのは理不尽であるし、何より傲慢である。
知らず、ため息をもらしたダンテの肩に、黒猫と睨みあっていたはずの鴉がひょいと飛び移ってきた。 その行動が気に入らないらしく、威嚇に近い声を上げながら黒猫が反対の肩に飛び乗ってくる。さすがに 重いが、ダンテは黒いものたちの好きにさせた。

あとから来たやつが出しゃばるな。
あとも先も関係ないな。まったく、無駄に吠えるやつだ。
なんだと!

ぎゃあぎゃあ、騒ぐ。耳元でそれはやめてくれ、と思うけれども口には出さない。喧騒が孤独を忘れさせて くれるし、肩にかかる重みがある意味で心地よくもあった。兄は不在のままだが、それは致し方ないことなの だから納得するしかない。もう少し、あと少しの辛抱だ。だから今は、

「たまには何か作ろうかな……」

ダンテの爆弾に似たつぶやきを聞き咎めた黒猫と鴉が、息もぴったりに喧嘩をやめ、「それだけはやめておけ」と 彼を押しとどめにかかったものだから、彼は思わず吹き出してしまった。確かにダンテは料理が苦手であるが、 仲の悪いふたりが息を合わせてしまうほど下手ではないはずだ。

「大丈夫だって、任せろよ」

いやだめだ絶対だめだやめておけ。

ふたりがかりで必死に説得しようとするさまがおかしくて、ダンテは腹を抱えて笑った。こんなに笑うのは 久方ぶりのことだ。やはりひとりは心身ともによくないらしい。
猫と鴉に睨まれ、ダンテはくつくつと笑いを噛み殺しながら立ち上がった。肩に乗ったものたちは、うまく バランスを取って落ちないようそれぞれ工夫している。さて何を作ろうか。その前に冷蔵庫に何があるのか 確認しなければ。

ぶつぶつとつぶやきながら考えるダンテの脳裏で、どこかのホテルの一室で出会った見知らぬ男が 笑った気がした。



















戻。



兄出てこなかった…すんません…
夜中に浮かんだ言葉をケータイに書き殴ってのスタートでした。