行幸サチアレ








言葉にならぬ思いがある。
言葉にできぬ想いがある。






ひた、ひた。何かが床を這うそれに似た、水の滴る規則的な音がする。蛇口が緩んでいるの だろうか。先刻、確かにこの手でしっかりと締めたはずであるのだが。
新しいとは世辞にも言えぬ家である。とくに壊れやすい水回りのこと、蛇口の栓が多少緩んでも 不思議ではない。

ひた、ひた。

一度気になってしまえば耳について離れぬものである。別段騒音というほどかしましい音でも ないというのに、耳障りで仕方がない。

ひた、ひた。

それは少しずつこちらへ近づいてくるような。だんだん、そんな錯覚に陥ってしまう。 有り得ぬことだとわかっていても、そんなふうに脳が誤認識してしまった以上、音を耳から 消すことができない。むしろ徐々に大きくなっていく。

ひた、ひた。
ひた、ひた。

何かが床を這ってくる。
一歩一歩、確かめるように。息をひそめて。少しずつ、しかし確実に。何か、得体のしれぬ ものがこちらへ近づいてくる。

ひた、ひた、
ひた、

音が、唐突にやんだ。
扉の目前で、その何かは歩みを止めた。

そして、








目が覚めたのは、陽がとうに昇り、すでに部屋を明るく照らしだしている時刻であった。
ダンテはぼんやりとした頭を数度左右にし、脳にかかった靄を振り払う。むろんそんな程度で 眠気が吹き飛ぶわけはないが、ようは気持ちの問題だ。

ダンテが目覚めはいつも遅い。太陽をして朝陽と呼ばわる時刻には、何かの間違いでもなければ 目覚めないし、それはどんなに就寝時間が早くても同じなのだ。一度、ほぼ丸一日眠り続けた ことがあったが、さすがにそのときは我ながら呆れたものだった。
兄は、当然のことながらすでに起床し姿がない。双子でありながら、彼らは性格も何もかもが まるで似ていない。似ていなければならない理由も道理もないが、それにしても正反対の気質を 持ち合わせた双子なのである。

ダンテはごそごそとベッドから這い出し、身繕いもそこそこに部屋を出た。扉のこちらは、 ある種の別世界だ。短い廊下は階段に繋がり、彼を階下へと導く。兄がいるであろう リビングのドアは閉まっていて、やはりあちら側はまた別の世界へ通じている。
かちり、と。ダンテはそうっとリビングのドアを開ける。ソファーとテーブル、ラグを敷いた だけの質素な部屋だ。誰を招くわけでもなく、派手な飾りを好まない兄が選んだ家具たちは 落ち着いたベージュやモノクロのものばかりで、不満こそないが少し物足りなさを感じる ダンテである。それを口にしたことはないけれども。
視線を巡らせることもなく、ソファーに腰掛け新聞を広げる兄の姿が目に入った。新聞か、 分厚い書物か。活字中毒の気のある兄は、暇さえあれば何か文字を追っているか、もしくは 図書館に足を運び一日文字に囲まれて過ごすのだ。昔から文字を読むことが苦手である ダンテには、兄の行動はまるで理解ができない。

別世界。同じ母から同じ日に生まれた唯一の同種でありながら、彼らはまるきり別のいきもの なのである。

ダンテの気配に気づいて――本当はもっと早くに気づいていたはずだが――、兄が新聞を膝に 下ろしてこちらを見た。氷のような表情のない面は、見慣れているダンテですら時折ひやりと するのだから、他人は常にそう感じることだろう。せっかくの秀麗な顔立ちがもったいない、 とは口には出さないダンテであるが。

「顔は洗ったか」

おや、と思った。兄はいつも、寝起きの彼を見るや「顔を洗え」と、ダンテに確認も取らずに 言い放つというのに。

「や、まだ……」

「……早く洗ってこい」

妙な、間。

「? ……うん」

首をひねりつつきびすを返したダンテは、兄の眉間にひとつ、皺が増えたことに気づこうはずも ない。





水は凍りつくように冷たい。
夏の暑さが耐え難く苦手なダンテにとって、冬は歓迎してもいい程度に好ましいものだ。 もちろん暖房ありきの話ではあるが、外に出るだけで汗だくになる夏場の熱気を思えば、 外出も厭わずできる。雪も、嫌いではない。
濡れた顔をタオルでぬぐい、ぷは、と嘆息。冷水は寝呆けた頭にぴりっとした刺激を与えて くれる。ふかふかのタオルは気持ちがいいし、ダンテは上機嫌でリビングへ戻った。もっとも、 スキップなどしはしないが。





ソファーに兄の姿はなかった。視線を転じると、キッチンにその姿を認めることができた。 姿勢の良い兄は、どこに立っていても見栄えがする。それをひがむダンテではないが、 出先では好ましく思えないのは事実であった。あまりにも人目を惹くからだ。とくに、 若い女性の。

つつ、と足を運び、キッチンに立つ兄のそばへ寄る。兄の手元にはカップがふたつあり、 それぞれに焦げ茶色の液体を注いでいる。ダンテには少し苦く感じるエスプレッソ。 甘いものを好まない兄が、アメリカンを飲んでいるところなど、見たことがないとダンテは 思う。
そんな兄とは違い、ダンテはむしろ、甘いものは好物と言ってもいい程度に好きなのだ。

ふたつのカップの隣には、きれいに切り分けられたサンドイッチが皿いっぱいに詰まれている。 ごちゃごちゃとして見えないのは、兄の性格が大いに反映されているからだろう。綺麗好きな この兄は、例えばサンドイッチのように胃に収めてしまえばなくなるものでも、整然として いなくては気が済まないのだ。多少の乱れすら許さぬ性格は、ある面では重宝されるが、 一方では敬遠されるきらいがある。
何もかもに妥協を許さぬのだから、生きにくいたちであることは間違いない。

前触れもなく、ダンテの腹が控えめに鳴った。続けて、二度。じろりとこちらを睨めつける兄。 肩をすくめ、小さくなりながら、ダンテは上目遣いに兄を見やる。実際、腹が減った。

「……テーブルに着いてからだ」

ダンテの頭をぽんと叩き、兄は皿と自分のカップをテーブルへ運ぶ。慌てて、ダンテも自身の カップを掴み兄の背を追った。
兄がソファーに再び腰を下ろすのを待って、ダンテはいつものように、ソファーとテーブルの 間に敷かれたラグに直接座り込もうとする。が、それを兄が止めた。

「ここに座れ」

目配せでもって示されたのは、兄の隣。ダンテは目を瞬かせた。

「え? なんで、」

「口答えをするな」

ぴしゃりと遮られ、ダンテは肩をすくめてソファーへ腰掛けた。いらぬこと――あくまで兄の 主観が基準となるが――を言いすぎると、かえって悪い方向にしか進まないことはよく知って いる。
兄は奇妙なほど極端な人間だ。白か、黒か。兄が白だと言えば黒も白になる。その逆も しかり。そういうたちの人間には、不必要に逆らわぬことが正しい処世術であろう。
たまにしか座らぬソファーに腰を落ち着けると、居心地こそ悪くないが、なにかしら不思議な 心持ちだ。尻のあたりがむずむずとする。

「おまえは、」 不意に左耳に声が届いた。無論、兄のそれだ。そちらを見やると、カップを口につける兄が 視界に映る。長い脚は軽く組み、背中はソファーに沈ませている。

「俺が?」

「なぜいつも、床に座る?」

何度も訊いた言葉だ。内心落胆して、ダンテは肩をすくめた。

「さぁ。癖じゃねぇの」

ダンテとしてもそう答えるしかないのだ。はっきりいつから、とはわからないが、おそらく 夏場の暑さを少しでも軽減させようとして、床に尻を据えたのが初めであろうと思う。 それ以降は床に座ることそのものに慣れ、癖になり、冬場でもソファーとテーブルの間が 彼の場所になった。尻の下のラグは、見かねた兄が無理矢理敷いたものだ。
ソファーに背中を預けていれば、ソファーに座る兄の脚が左に伸びる格好になる。 ダンテはそれを、居心地がいいものと認識したのだ。と、それは兄には言わないけれども。

「で、それがなに」

唐突にソファーに座れと言ったことと関係があるのか。首をひねるダンテだが、兄の鉄面皮は 変化を見せない。ただ、おもむろに、

「っ?」

腰に腕を回してきた。ぐいと強く引き寄せる力に、ダンテは戸惑いこそあれ抵抗はしない。 が、兄にしては珍しい行動だ。いつも強引かつ傲慢な兄であるけれど、意味のない行動を嫌う ことはよく知っている。これは、意味のあることなのだろうか。
セックスするつもりではないようであるし……
不審そうな顔をしていたらしい。

「なんだ」

不機嫌そうにつぶやいた兄に、ダンテはべつにと返した。それはこちらの科白だとは口に しない。
兄の眉間には、いつものように深い皺。
内心首をかしげながら、カップを両手で包み込むようにして、焦げ茶の液体を一口すする。 ふと、

「今日は冷える」

兄が吐息のように囁いた。
あぁ、そうか。ダンテの脳裏に閃きが走る。自分たちがどこまでも正反対にできていることを、 わかっているつもりで忘れていた。
ダンテは夏の暑さに弱いが、冬の寒さは嫌いではない。反対に、兄は盛夏ですら汗一つ かかないけれど、寒さに関しては秋口からすでに苦手であるらしい。

「そういや、なんで暖房つけてねぇんだ? 寒くて当たり前だろ……」

何枚もシャツを着込めば暖かいとはいえ、限度もあろう。よくよく見れば、兄は開襟シャツの 上に薄手のニットを着ているだけだ。膝掛けすら使用していない。これでは、いかに室内と いえど寒いはずだ。そもそもこの家の日当たりは、あまり良好とは言えないのだから。
兄の眉間に刻まれた皺は深いまま、ダンテをしっかりと抱き寄せた腕は力強く、 しかしその手はどうにも冷たい。ダンテは呆れてしまう。兄は暖房ではなく、ダンテの体温で もって暖を取ろうとしているのだ。ダンテをソファーに座らせたのは、そもそもそのためで あったらしい。

「俺はブランケットじゃねぇぞ」

「そうだな」

「?」

顔を上げれば、よからぬことを考えているときの兄の顔が目の前にあった。物凄くいやな 予感がする。

「お前はかぶさるのではなく、敷かれるほうが好きだからな」

くつくつと薄く笑う、非道な表情。ダンテは眉間に皺を寄せて兄を睨んだ。

「っ……誰のせいだよ、誰の」

幼いころからダンテの躰に性的な快楽を仕込んだ張本人は、兄以外にいるわけがない。 昔はそれが普通なのだと思っていたが、長じてみれば異常なことであるに違いなく、 しかしいまだに、ダンテはこの兄によって縛られている。それも、おそらくは自ら望んで。
ダンテは何も、男に組み敷かれることが好きなのではない。抱き合うならばかわいい女の子が いいと思うし、男に口説かれてうれしいと思ったことは一度もないのだ。が、兄にはそれが 理解できないらしい。兄自身が蒔いた種であろうに、ダンテを男好きの好色と勘違いを している。誰にでも脚を開くなんて、思い違いもはなはだしい。

兄が失踪していた、あの一年間のことを問いただされると、答えに窮してしまうの だけれども。

ぐ、と。ダンテの腰を抱く兄の腕が強くなった。。触れたところから伝わってくる兄の体温は、 いつも以上に低い。たかだかダンテを抱き締めたていどのことで、その体温を高めることは できないように思われた。

「なぁ、早く暖房つけようぜ。俺も寒い」

寒さにはあるていど耐性があるとはいえ、寒さを感じぬわけではない。ダンテは兄の腕から 抜け出そうと身をよじったが、兄はなぜかそれを許さなかった。なに、と唇を尖らせた ダンテは、背筋がぞくりとするのを感じた。こちらを見つめる兄の双眸は、氷のように冷たく、 感情が見えない。

まるで精巧な彫刻のような。
血の通わぬものに搦め取られている、錯覚。

ダンテは自身が躰を硬直させていることに気付かず、強ばった顔で兄を見つめるばかり。 兄は言葉を発しない。おしゃべりなダンテが口を開かなければ、この兄弟には会話らしい 会話もないであろう。しかしいつもならば気にもならない沈黙が、今はひどく重い。

「……っ、バージル……?」

努めて冷静を装い、兄の名を呼ばわる。いつも口にしている慣れた名が、なぜだかまったく 知らぬものに聞こえてしまう。
ぼそりと、兄が何ごとか呟いた。いや、唇が薄く動いたで、言葉は一切聞き取れなかった のだが。

「え?」

瞼を瞬かせた瞬間、視界が一転した。目の前には兄の冷え冷えとした相貌がある。背中が 温かくなったことで、自分がソファーに組み敷かれたのだとようやく気付いた。
なに、と問いただす間もなく、腹に冷たいものが触れて息を呑む。兄の手だ。氷のように 冷えきったそれが、シャツを掻い潜り肌を直接まさぐっているのだからたまらない。
しかし「やめろ」と言ったところで、兄が行為を中断することはないだろう。それは、 経験上はっきりしている。

兄の冷たい手が、ダンテの下衣をむしろうと動く。

「っ、バージル……」

こんな朝っぱらから、という拒絶は兄には通用しない。兄がその気になったときが、 彼らが躰を繋げるときなのだ。場所も、時刻も関係がない。すべては兄の意のままである。
黙れ、と静かな声音が鼓膜を震わせた。ダンテはびくりと肩を揺らす。

「黙って、抱かれていろ」

「なっ……」

「厭、と言ってみるか?」

一瞬言葉に詰まったがダンテは、唇を尖らせて兄を睨んだ。

「……なんだよ、ソレ。どうせやることはやるくせに」

兄は喉の奥でくつくつと笑い、違いない、と肯定した。とても珍しいことである。

「バージル?」

「黙れ」

王のような口調、威圧的な声色。いつもの兄。しかし何かが引っ掛かる。あるいは寒さに よるものかもしれない。何にせよ、ダンテが兄を拒むことはないのだが。
下腹をまさぐる手は相変わらず冷たくて、けれども行為がもたらす熱によって、ダンテの 体温は上がっていく。少しずつ。少しずつ。

「っ……はぁ……あ……」

ダンテが熱っぽい吐息をもらす一方で、時折意地の悪い囁きを吹き込んでくる兄の体温は、 やはりいつまでも冷たいまま――鉄面皮にうっすらと浮かんだわずかばかりの笑みが、 ある種、免罪符のようにダンテには思えるのだ。この行為には意味がある、と。
己はまだ、必要とされている。

ダンテの躰が意志とはべつにびくりと跳ねた。兄が彼の尻、その奥にひそりと隠れる蕾を 探り当てたからだ。躰を繋げることには慣れても、やはり自分では見えない部分に触れられる ことには慣れぬものらしい。
初心だな、と兄がくつくつ笑う。いつもと変わらぬ、底意地の悪い言葉。“こちら”の側に なることのない兄には、ダンテの心持ちなどわかるわけもない。

「っぁ、ンタも、いっぺん、犯ってやろ、うか」

肩で息をしながら毒づいてみれば、兄は驚いたふうもなくひょいと首をすくめ、真面目 腐った顔で「遠慮する」と宣った。

「俺にはそちらは合わん」

違いない。そもそもダンテとて、兄を組み敷いてどうこうしたいなどと思ったこともないし、 想像するだにおそろしい。
なぜか、笑ってしまった。

「っは、はは……勝手だな、アンタは」

いつも、いつも。

兄は憮然とした表情を浮かべ、今さらだな、と悪怯れたふうもなく言う。確かにな。ダンテは 笑おうとして、できなかた。兄が彼の最奥を貫くことで、彼から言葉ごと奪ったのだ。


残るものは、ひたすらの快楽。
見上げた先には、薄い笑み。
凍えた躰が溶けていく。





熱に浮かされたあとは、決まって気を失うように眠ってしまう。気だるい躰を支えているのは ソファーで、寒さを感じないのはブランケットが彼を包んでいるからであろう。重い瞼を こじ開ければ、電灯の光が瞳孔を灼いた。思わず、うめく。

「起きたか」

低い声。兄だ。双眸が徐々に光に慣れていき、兄の顔を映す。位置から鑑みるに、膝枕を されているらしい。ひやりとしたものが額に触れた。手。前髪を払ってくれたのだろう。

「んん……」

猫ならば喉を鳴らしているのかもしれない。あたたかくて、心地よくて。ダンテはまた目を 閉じた。が、すぐに瞼が持ち上がる。

「……暖房、ついてる?」

「当たり前だろう」

事もなげな答えに、ダンテは一瞬言葉を失う。当たり前。それはそうだ。寒いのだから暖房を つける。当然のことである。が、しかし。

(なら、さっきのは何のために……)

顔に出ていたのだろうか。兄はダンテの顔を覗き込むように視線を合わせ、

「文句は、なかろう」

「……、……うん」

理解はできずとも、納得せねばならない。彼と兄の関係は、昔からこうだ。
高めに設定されているであろう、暖房のあたたかな風に包まれて、ダンテは今日も、 そっとため息をこぼす。

「ぁ……、はらへった」

そういえば、起床してこちら、何も食べていない。








ひたりひたりと近づいてくる、音。
その正体を自分はおそらく知っている。

けれどもわからぬふりをして、何も気づかぬ素振りをして、変わらぬ日々をただ生きる。 息をする。

手の中には何一つとして確かなものはなく。
目に見えるものはすべてが虚ろで。
ただ一つ確かに鮮明なものは、けっして己のものにはならない。

言葉にできぬ思いと、言葉にならぬ想いと。
日増しに重く大きくなっていくそれらを、いつまで支えていられるか。



ひたり、ひたり。

その音はゆったりと、しかし確実に忍び寄ってくる。



















戻。



晩秋くらいから書いていたので、どうも話の辻褄がおかしい…
ほんのちょっとの修正でどうこうなったとは思いませんが、
どうぞあたたかい目で見逃してやってくださいませ。