輪舞
生まれくる命がある。
死にゆく命がある。
誕生と、死。
延々と繰り返される、この世における揺るぎのない理。
生まれ落ちたものは、皆いずれ死ぬ。
誰が、何が、どんな生を歩もうとも平等に訪れる。例外はあり得ない。
生あるものは必ず、死ぬ。
それはこの世の、絶対的な平等。
死神がこちらを見ている。
部屋の隅にそれはいて、じっと、何かしらの行動に出るわけでもなく、ただ静かにこちらを
見つめているのだ。心地が良いものでは、当然ながら、ない。
おそらく、自分は死ぬのだろう。遠からず――もしかすれば、今日中にでも。
ぶるりと、肩が震えた。
死後の世界は、想像もつかない。しかし何かの手違いでもなければ、天の扉が閉ざされることは
ないはずだ。とするならば、不安はない。死した後には神の御元で、永遠の平穏を得られる
のだから。
そのために、物心ついてこちら、神への祈りを欠かしたことはない。そう、恐れることは何も
ない。神は敬虔なる信徒を必ずお救いくださる。だから、今日も祈るのだ。休日は足繁くミサに
通い、一心に神を讃えた。賛美歌はもちろんそらで歌える。
大丈夫だ。怖くない。
意を決して、背後を振り返った。途端、鞭打たれたかのように、ぎくりとする。部屋の隅に
いるはずの昏い影が、一歩、こちらへ近づいていた。
底の見えぬ淵のような晦い双眸、蛇のような陰湿な視線が、ぬらりと這って彼に絡みつく。
妙なにおいがする。
ダンテは顔をしかめ、鼻の頭に皺を寄せた。快い香りであれば文句はないが、間違っても好み
とは言えぬにおいなのだ。吐き気こそしないが、快くもない。これに似たにおいをダンテは
知っている。しかし。
「なんだ、これ……」
ダンテの知るにおいは、悪魔の発するそれだ。魔界の瘴気が身にこびりつくからか、悪魔は
皆一様に不快なにおいを持っている。それは程度の低い悪魔ほどひどく、敏感な人間ならば気付く
者もいるだろう。しかしこのにおいは、悪魔のそれとは違うようにダンテの鼻には感じられる
のだ。
首をかしげ、あたりを見回す。何もない、いつもの月夜だ。強いて違いを挙げるならば、
月明りがまぶしいほどであること、その程度であろうか。
「でも、におうんだよなぁ」
人間の鼻は、においに慣れるようにできている。嫌なにおいであっても、慣れればさほど嫌とは
感じなくなるものだ。だが、ダンテの鼻は常人とは多少、異なる。嗅覚を含め、五感すべてが
通常よりも格段に鋭い。それは彼の身に、ひと以外の血が流れているからに違いない。
ダンテはあたりに神経を配りながら、路地の奥へ足を向けた。街灯のほとんどない路地裏は、
当たり前だが暗い。 しかし今夜は、月の光が汚ない路地裏の隅々まで照らしており、明るいと
感じることがいっそ奇妙だった。
死後の世界とは、いったいどんな所なのだろう。
眼下に広がる暗い街並を見下ろし、もの思いにふける。ここ数日、ずっと自身の中で繰り返して
いる議論である。
死とは何か。神の国はどこに在るのか。まして、その扉など存在するのかどうか。
神への祈りは、相変わらず欠かしてはいない。これは習慣だ。意味のあるなしを考ることなく
繰り返される、単調作業。
両親はともに敬虔な信徒だ。神の存在を疑ったことはないだろうし、そんな話をすれば悪魔に
取り憑かれたとでも言われかねない。神は誰しもの心におわすのだ――云々、牧師にでもなった
つもりで熱心に説くのだろう。信憑性に欠く精神論など、もう聞き飽きてしまったと
いうのに。
神はどこにもおわさない。おそらく、それが正しい。
人々に救いなど与えられないし、死んだのちに神の国へ招かれるというのはただの夢物語だ。
神への祈りなど無意味に違いなく、熱心に教会通いをする時間があるならば、その分勤勉に
働いたほうが現実として実入りが多い。
自分は現実主義者なのだ。ここへ来て、そう強く実感するというのも間の抜けた話だ。
もっと早くに気づいていれば、もしかすれば今頃はベッドにもぐって心地好い眠りを貪って
いたかもしれない。きっとそうだ。しかし、実際は。
吹き荒れる風が足元を煽る。早くしろ、とでも言わんばかりに風はどんどん強くなっている
ようだ。
唇を噛みしめる。こわい。人はこんな恐怖から逃れたくて、神の国の存在を信じるのだろうか。
少しでも心を鎮め、苦痛や恐怖を和らげるために、神へ祈るのだろうか。
何にせよ、神が自分を救うことはない。
瞼をひそりと閉じた。今、神を否定したばかりの人間が信じるものは、ひたひたと近づいてくる
死神の足音だけだった。
絶望は人を殺す。そこに希望があるからこそ、人は絶望し、死へ向かう。
死は解放であり、救いである。
神の国へ昇天するか、地獄へ堕落するか。はたまた何ものかに生まれ変わるか。知るものは
おらず、わからぬからこそ、人は死を畏れ恐怖する。
一切の希望の失せた先にある絶望は、それらの恐怖をも凌駕し人を死に導く。
一人、また一人。
死神に手を引かれ、死出の旅路を逝く。
重い衝撃。ダンテはそれを腹で受け止めるようにして、中空でしっかり抱き締めた。
ビルの、おそらく屋上から飛び降りたらしいそれは、まだあどけなさの残る少年だ。自殺。
争う物音も聞こえなかったので間違いないだろう。こんな子どもがなぜ自ら命を絶とうとした
のか、ダンテにはわからない。わかるのは、少年をひっそりと見つめるものがいるという
ことだ。
両足をばねのように使い、着地する。落下の途中で気を失ったのか、少年は少しうめいただけで
目を開ける素振りはない。
「あんたの目的はこいつの魂か」
どこにともなく、言い放つ。すると、やはりどこからともなく声が響いた。そうだ、と。
男か女か、老いた者か若い者か、判断のできぬ奇妙な声音だ。
「……こいつはまだ餓鬼だぞ」
こんな若さで死なねばならぬなど、ダンテには到底納得いかない。殺しても死なぬ人間が
ここにいるというのに、幼気な少年がなぜ死なねばならぬのか。
さだめだ。奇妙な声が朴訥に語る。命あるものはすべて、予め定められた年数が経てば死に
到る。例外はない。生まれるものと、死ぬもの。命が循環することでこの世は成立している
のだ。
死神。遭遇するのは初めてだが、この場に居合わせたことで確信が持てた。悪魔とは違う、
しかし異形の存在。この少年に取り憑いてるいることは間違いないことで、彼は唇を噛み
締めた。
「自殺、しようとしたな。あんたの差し金か」
違う。声は即座に否定した。
「我らは死者の魂を刈る。が、命を刈り取る権限はない。その小僧は自らの意志で淵に立った。
そこにどんな意志があろうと、我らには関わりのないことだ」
少年の命数が余りあるほどならば、自殺は未遂に終わる可能性が高い。そもそも死の際に
ある者にしか死神が取り憑くことはない。自然死か事故死か、はたまた自殺か。どのような
死に様であるに関わらず、死神はただ死者の魂を連れていくだけなのだ。――どこに、かは
誰も知らない。
「あんたの仕事なんざ俺には関係ないが、こいつが生きてることは確かだ。しくじったな」
周囲ぐるりを見渡すが、死神がどこにひそんでいるのかはわからない。初めから、死神本人が
言っていたように殺意はないのだ。だから、気配も一切感じられない。
どこかへ向かって、ダンテは言い放った。
「大した失態だな。そういう場合、あんたらの規則ではどうなる。罰則があるんじゃねぇ
のか?」
どこかもつかぬ闇の狭間から、脅すつもりか、と声がする。それはなぜか笑っているように
聞こえて、ダンテは眉をひそめた。無駄だとでも言いたいのか、どうか。
苛立って言い募ろうとしたとき、腕の中で少年が身動ぎした。気が付いたらしい。
「気分はどうだ?」
街灯のない暗がりでは、少年の表情はもちろん、こちらの顔も見えないに違いない。少年は
怯えるように肩を震わせ、だれ、とかすれた声音でつぶやいた。ダンテがその問い掛けに
答えるより先に、少年の口から別の困惑した言葉がこぼれ落ちる。
「ここは……ぼくは死んだの?」
「……死んでたほうが良かったのか?」
少年は少し考えるようにうつむき、首を左右にした。死にたくないのならなぜ自殺など
謀ったのか。問い詰めたいのをこらえ、そりゃ良かった、とつぶやくに留めた。
「立てるか?」
「あ……はい、すいません……」
恥ずかしそうに、少年がダンテの腕から逃げるように立ち上がる。足元がおぼつかないように
見えるのは、路地が暗いというばかりではあるまい。
「あの、……ありがとうございました」
「気にすんな。たまたま通りすがっただけだ」
家はどっちだ? 問えば、少年はきょとんとして首をかしげる。
「こんな夜中にひとりじゃ危ねぇから、送ってってやるよ。どっちだ?」
少年は口をもごもごさせ、何か言い淀んでいる。じれったい。兄には及ばないが気の長い
ほうではないダンテである。なんだよ、と苛立ちを隠せず言葉を促すと、少年は見事なまでに
ぎくっと躰をすくませてしまった。
自戒の意味もこめて、ぐしゃぐしゃと頭を掻く。
「あー……悪い。怒っちゃいねぇから、そんな怯えんなよ。な?」
極力、自分にできる限りの優しい声音で、もう一度住所を尋ねた。すると、少年からは奇妙な
答えが返ってきたではないか。
「家……でも、家こには、もう……帰れないから……」
「は? どういう意味だ?」
「ぼくには死神が……そうだ、死神はどこ?」
辺りには闇が横たわるばかりで、何者かの足音はおろか、気配すらも感じられない。少年は
せわしなく辺りを窺い、しばらくさて、気が済んだのがほっと息を吐き出した。安堵、
であろう。死神に魅入られて平然としているなど、年端もいかぬ少年には不可能なことだ。
「何もいねぇよ。大丈夫だ。――帰る気になったか?」
少年はちょっと逡準して、それからはっきりと頷いた。こわかったのだろう。躰が小刻みに
震えている。無理もない。この少年が、いったいどんな気持ちでビルの屋上から跳んだのか、
死から遠ざけられているダンテには察してやることができないが。
震え、憔悴しながらも、芯が気丈であるらしい少年は足を踏み出した。家はここから近いのかと
問うたダンテに、少年は首を横にした。
「どうやってここまで来たのか、あんまり覚えてない……」
死ぬことばかりを考えていたのか、それとも死神を撒こうとしていたのか。ダンテは問い
ただすことをしなかった。
「住所も忘れちまった……ってことはねぇだろ?」
少年ははっきり頷き、家の所在をダンテに伝えた。隣街である。バスもメトロも走っていない
時刻だが、それは致し方ないことだ。
「生きてりゃ、どうとでもなるもんだ」
ダンテの言葉を、少年はどう受け止めたのか。返事はなかったが、ダンテは気にすまいと目を
大通りのほうへやった。心は言葉で癒すことはできない。少年がよほど思い詰めてビルから
跳んだことはダンテにもわかる。何が少年の足をビルへ運ばせたのかは、ダンテには
わからない。偶然出合っただけの人間の心を理解するなど、ダンテでなくとも不可能だ。
ダンテにしてやれることは、少年を自宅まで送ってやることぐらいだろう。あとは少年が、
自分自身で解決するしかない。
「暗いから、足元、気をつけろよ」
当たり障りのないことを言って、彼らは歩きだした。少年の足取りは意外にもしっかりして
いる。ダンテが支えてやる必要はないようだ。
少年の歩調に合わせて歩いたため、思いの外時がかかったが、迷うこともなく無事に送り
届けることができたのだから、充分であろう。自宅だと少年が指差す建物の玄関口が見えた
ところで、ふたりは別れた。少年が、ここでいいと断ったのだ。家は目前。あと十数歩も
行けばいいだけなのだから、ダンテに否やはなかった。
礼を言われ、むず痒いものを感じながら踵を返した。少年の足音はゆっくりだが、重いものは
感じられない。大丈夫だ、と胸を撫で下ろした。
帰宅したのは、それから一時間後のこと。先に床に就いていた双子の兄のベッドに潜り込み、
五つも数えぬうちに眠ってしまった。自覚している以上に疲れていたらしい。兄の低めの体温が、
いつにも増して心地好かった。
翌朝、目が覚めると隣にはすでに兄の姿はなく、ダンテは重い頭をゆるゆる持ち上げ伸びを
した。ろくに着替えもせずに部屋を出、のろのろとリビングへ行くと、案の定兄がそこにいて、
ソファーに腰掛け新聞を読んでいる。
新聞がかさりと動き、「顔を洗ってこい」と兄の声がかかる。兄の顔は見えない。いつもの
ことだ。ダンテも慣れている。のそのそ顔を洗って戻ってくるまでに、兄はダンテの朝食を
準備してくれる。それも、いつものこと。
ゆうべのことを話そうか。いや、やめておこう。きっと何の興味も示さないだろうから――
肩をすくめ、蛇口をひねった。リビングでは兄が、新聞を畳みソファーから腰を上げた。
キッチンへ向かうのだ。
ソファーに残された新聞には、大小様々な記事が載せられている。埋もれるように、その記事は
あった。
――少年が自宅前で車に轢かれ死亡。車を運転していた男はその前後の記憶がないと供述して
おり、警察は飲酒運転による過失致死の疑いが濃いものとしている。
小さな小さな、ごくありふれた事故。不幸で、不憫ではあるが、記憶には残らないであろう、
小さな記事。
新聞も読まず、テレビも見ないダンテがその事故を知ることはない。
今日もまた、いつもどおりの一日が始まろうとしている。
当初は、目の前で轢死する予定でした。
なんとなく、方向転換。
なんでこうゆうものを書こうとしたのか、記憶にございません。