夢幻
むっ、と蒸し暑いほどの空気が、扉を開けたとたん彼の全身を包み込んだ。酒気と熱気の
混じったそれは、おそろしく厭なにおいでもって彼に襲い掛かってきたが、彼は慣れたもので、
眉を多少しかめた程度の浅い反応を示しただけだった。
通い慣れたいつもの酒場。時折違う顔を見ることもある、いつもの顔ぶれ。いつもの空気。
彼はいつもここに、仕事の種を拾いにやってくる。この酒場には、彼のように社会から自ら
はみ出した者や、爪弾きにされた者が自然と溜まる。暗黙の了解、とやらが成立している
のだろう。そもそも酒場を切り盛りする親爺が“元”そういう人間であるためか、“問題児”
たちへ飯の種を蒔く人間がよく出入りするのだ。
「よォ、遅かったじゃねぇか」
にやにやと顔を歪めて声をかけて来たのは、顔見知りの荒事師である。同じテーブルに着いた
男たちの大半が、同じような表情で彼を見やる中、一人、きょとんとしたふうにこちらを
見ている男がいた。が、彼は言及しない。よくあること――こういう反応を示す人間は、
十中八九“新顔”だ。
彼は肩をすくめ、「色男は最後の最後に登場するもんさ」などと嘯いてカウンター席に腰を
落ち着けた。親爺にもっとも近い、いつもの場所。もちろん注文するものも決まっていて、
彼は一言、いつもの、と呟くだけでいい。たまには愛想のひとつもこぼす。何をやっても、
無愛想きわまりない親爺の反応は変わらないが、彼は知っているのだ。この親爺が実のところ
情に篤い人間であることを。だから彼は好んでこの酒場にやってくる。馴染んだ場所という
のは、思う以上に心地好いものだ。
「相変わらず……」
彼に先行してカウンター席に陣取っていた男が、いかにもしみじみといったふうにため息を
ついた。こちらもいつもの顔――すっかり馴染みとなった、自称情報屋。お節介焼きなたちで、
彼には父親のような口の利きようをする。が、深入りはしない。職柄なのか、本能なのか、
器用な男であるのは間違いない。つかず、離れず。彼との距離感を違えたことは一度もない。
だからこそ、彼はこの男にだけ、無茶に近い我儘をふっかけることもしばしばある。
男――エンツォ・フェリーニョはいつものくたびれた風体で、きれいに剃髪した頭を掻いて
いる。手入れが楽そうだ、とは思っても、自分も同じようにしようとは思わない。
「冴えねぇ顔だな、エンツォ?」
いつものように、彼はエンツォをからかった。エンツォと彼は、親子ほどではないにしろ、
それなりに歳が離れている。しかし彼のエンツォへの対応はいつも遠慮というものがない。
エンツォのほうも彼に敬意など求めたことはなかった。
「いっそ入院でもできりゃ楽なんだろうがな……って、何言わせやがる、この坊やは」
「しけた面してるからだろ」
笑ってやれば、エンツォは大げさに肩をすくめて見せた。
「お前みたいに能天気な奴ばっかりなら、世の中もうちょっとうまく……いかねぇか。
破綻する」
「そうだろうなぁ」
「自覚はあっても救いはねぇのが残念だ」
取り留めのない会話をいつまでも続けていても仕様がない。と吹っ切れたのか、エンツォは
おもむろに飯の種についての話を切り出した。お前好みだ、と前置きがなされたことで、
彼の双眸がきらりと輝く。
人並み以上に秀でた己の容姿を、彼はきらってはいないが疎ましく思うことも時折、ある。
目立ちすぎるのだ。良くも悪くも。そのためよけいな厄介ごとに巻き込まれることは少なく
ないし、思うように動きが取れなくなることもある。
今のように。
細い雨が降っている。傘が必要なほどには強くなく、粒も小さい。
彼は雨を避けることもせず、濡れるに任せて路地を歩いていた。傘は普段から持ち歩く癖が
ついていないので、よほど激しい雨でも濡れるままにしていることが多い。気に入りのコートが
ずぶ濡れになるのは遺憾であるが、かといって天気予報を気にするようなたちでもない。
要は、身一つ。いつも、そうだ。命一つを身に宿し、風の吹くまま気儘に生きる。硝煙と血糊に
縁があるのは致し方ない。
馴染みの仲介屋にもらった飯の種を片付けた直後であるため、彼は始終機嫌がいい。多少の雨に
打たれたていどでは、彼の機嫌が損なわれることはなかった。心の底から嫌っている雨も、
この時ばかりは気にならないというのだから、彼の機嫌は最高潮と言っても差し支えない。
メトロもバスもない夜更け。雨のおかげで辺りはいつにも増して暗い。どんよりとした曇天が
重く空にのしかかっている。路地には彼ただひとり。ブーツの踵が、水音を伴ってアスファルトを
咬む。その足音は軽快で、ともすれば鼻歌でも聞こえてきそうなほどである。
彼の足が不意に止まったのは、事務所を兼ねた自宅に間もなくたどり着こうというころだった。
彼の視線の先には、人。彼よりも肩幅も上背もある、男だ。それが彼を阻むように、暗い路地の
真ん中に仁王立ちしている。
彼は首を傾けた。男の目的は明らかに自分であろう。あちらの顔は見えないが、殺気をまとった
視線は強い。それはいっそうそ寒いほどで、どんなことにも物怖じをせぬ彼ですら気味悪く
感じた。男が一言も発しないことが、いっそう気味悪さを引き立てているのだろうか。
「何の用……なんて、わざわざ訊くのも野暮か」
呟く彼に、男はやはり一言もない。しかし目的はわかりきっている。彼はゆっくりと腰の後ろに
手をやった。そこには愛用の銃が控えており、彼の手に握られることを今や遅しと待ちわびて
いる。彼の背では、父の形見である大剣がことの成り行きを見守るように沈黙を守っているが、
こちらはこちらで彼の性質にふさわしい気性を備えた武具であるため、彼の手が己に伸び
なかったことが不満であるには違いないだろう。
彼は。ただ眼前の男を見据えている。
男は相変わらず仁王立ちのまま、何かしらの凶器を彼に向けるでもない。それにしては強く
ありすぎる殺気と視線が、鉄の肝を持つ彼から言葉を奪っていた。威嚇として、これほど
成果を上げた者は他にいない。むろん、男がそれを喜んでいるようには到底見えないが。
知らず、彼は喉を上下させた。唾を飲み込んだのだ。表情の見えぬ男の不気味さは、彼に
えもいわれぬ緊張をもたらしている。銃を握る手に、やはり無意識に力がこもった。臆した
からではない。彼の双眸は暗がりの中で凛と輝いている。
不意に、男の影が揺れた。雨で、なおかつ夜更けである。明かりらしい明かりは八フィートほど
先の街灯しかなく、それも実にか細く弱々しい光でしかない。そんな脆弱な光を背にしている
男の輪郭が、ぼけたように彼の目には映った。
瞬間、額に衝撃。
何が起こったのか、軽い脳震盪を起こした彼にはわからなかった。数秒後、後頭部を掴まれて
いる感触を認識するとともに、建物の壁に頭を打ち据えられたのだと知れた。何の抵抗も
できなかった。それ以前に、男が背後に回り込んだことにすら気付かなかったのだ。
(な、んで)
彼はけっして、ぼんやりなどしていなかったはずだ。易々と背後を取られるほど間抜けでも
ない。だというのに、男がいつ動いたのかすらわからなかった。不覚、という言葉では腑に
落ちず、油断、という言葉は納得がいかない。しかし、男は彼の頭を鷲掴みにしており――
押しつけられた壁のひんやりとした冷たさが、彼に現実を伝えている。
くそ、と舌打ちする。どんな怪力であるのか、彼が目一杯押し返そうとしても、己と壁の間に
一インチの隙間すら作り出すことができない。
再び、舌打ちをした。そのとき、
「無駄だ」
低い声が彼の鼓膜に触れた。こちらに顔を寄せているらしい。耳朶を撫でるように囁いて
いながら、その声音はどっしりと重い。そしてなぜか、耳に馴染む。
見知らぬ男の、聞き覚えのない声。髪を掴む手は大きく、容赦は感じられない。刺すような
殺気が和らぐことはなく、けれども刃物や銃の類は持っていないのか、壁に押しつけられる
以上の暴行はまだ受けていなかった。
男は何を考えているのか。そもそもいったい何者であるのか。
冷静を努めようとしているが、その実彼は大いに混乱していた。だから、かどうか。支えとして
壁についていた手はもちろん、体そのものも固まったように動かない。その手に冷たいものが
触れ、彼は思わずびくりとした。雨ではない。男の手だ。血が通っているとは思えぬそれが、
彼の手を掴み無造作に後ろへ捻った。
「いっ……!」
顔をしかめた彼には構わず、男は彼の髪を掴んでいた手を不意に離した。そうして、彼のもう
一方の手を同じように捻る。後ろ手にされた両手を、男は片手で一まとめにしているらしい。
振りほどこうとして、ぴくりともしないのは先刻と同じだ。
「っく、……!」
何なんだ。混乱は当惑を含み、さらに増すばかり。ただ彼を殺したいだけならば、機会は
いくらでもある。しかし男はそうしない。わけがわからなくて、彼は暴れることも忘れて
しまった。
むろん、暴れてみたところで意味などないのだろうけれども。
「他愛もない」
低い声が耳を撫で、右手であろう冷たいものが彼の脇腹をまさぐった。不意を衝くかたちと
なったその行動に、彼はぎくりと肩を震わせる。背後で、男がくつりと嗤う気配がした。
雨に濡れた頬が、かっと赤くなるのがわかった。
「なんなんだ、てめぇは……ッ!」
虚栄、のように男には聞こえたかもしれない。背には大剣、腰には銃を二挺携えていながら、
一度もそれらを抜いてすらいないのだ。両手を搦め取られた今、彼にできることは声を張り
上げるのみである。
男は当然のように応えない。と、彼は思い込んでいた。しかし、
「愚問」
囁くような声は、雨にかき消されることなく彼の耳に届く。
「おまえは知っているはずだ」
いっそ艶すら含んだ声音で、知らぬはずがない、と男はわからぬことを言う。
「なんだよ、それ」
困惑する彼をよそに、男の手は我が物顔で彼の躰を這い回る。それはけっして性急でなく、
情事を愉しむかのような緩慢な動きだ。
息が、知らぬ間にあがる。
はぁ、と無意識に吐き出した息がやけに熱っぽいそれであることに、彼はまだ気付かない。
男は彼の膚を味わうように冷たい手を縦横に這わせ、そしてついに、その手が彼の下腹へ
到達した。彼はびくりとして、咄嗟に腰を引いた。むろん、男の手から逃げられるわけはない。
嘲笑うように、男は彼の下衣をことさらゆっくりと剥いでいく。
言葉はなかった。
後ろから無理矢理蹂躙される、その苦痛と熱の記憶を最後に、彼の意識は雨の闇に消えた。
通い慣れた酒場には、いつもの顔触れがいつものようにたむろして、いつもと同じく酒気を
帯びた目をこちらに向ける。驚いたような表情をするのはたいてい新顔で、よほどこの銀髪が
珍しいのだと彼は勝手に納得している。
むっ、とした熱気に全身を包まれるのはきらいではなく、注目されることもきらいではないの
だけれども、物珍しげにじろじろと不躾な視線をもらうのは好みではない。いつもと同じ連中の
いつもとは違う反応に、彼は辟易してさっさといつものカウンター席に陣取った。いまだ視線は
背中に刺さるが、見えないぶんましであろう。
「親爺、いつものな」
カウンター越しに呼び掛ければ、親爺はにこりともせず軽く顎を引く。わざわざ言葉にして
注文せずとも、これだけで意思は通じるのだから、多少愛想がなくとも彼に不満はない。
少し機嫌を持ち直したところへ、くい、と引っ張られる感覚が右耳にあった。誰に、ではなく、
何に、かは考えるまでもない。彼の右肩に乗っている黒い塊が、黒曜石のような嘴で彼の耳を
ついと咥えたのだ。
親爺はそれについて、何も訊かない。いつものように、彼のためにストロベリー・サンデーを
こしらえることに忙しい。
いつもの酒場、いつもの顔触れ。しかしいつもとは違い、今夜は馴染みの情報屋の姿はなく。
彼の肩に当たり前のように鎮座する黒いものについて、彼を問いただすことのできる人間は
この場にはいない。
奇妙なざわめきが彼の背後で沸いていたが、彼も彼の肩の塊もまた、それらを気にする素振りは
微塵もなかった。
目覚めたとき、彼は自分がどこにいるか一瞬わからなかった。すぐに見慣れた天井を見上げて
いることに気付き、そこが己のベッドの上であると知れた。
なぜか。彼の記憶は雨の中で途切れている。
衝動的に躰を起こすと、全身が軋んだ。あちこちが痛くて、うめき声をもらす。しかし頭は
およそ冷静で、自分がなぜここにいるのかを考えていた。
辺りはすでに明るい。晴れているかどうかまではわからないが、雨の音は聞こえない。
ふと、自分の身に視線を落とした。はだけた毛布と、無意識に違いない、毛布を握り締める
右手。その手首に目がいったとき、息が止まった。
「……ッ」
赤と黒の混じった痣――慌てて毛布に隠れていた左手を見やれば、やはり同じ痣がそこに
あった。両手を同じ高さに揃えると、痣はぴたりと一つに繋がって見える。まぎれもなく、
あの不気味な男に拘束されていた跡だ。
あれは夢ではなかったらしい。夢であってくれればどれほどよかったか。
自身の手を見つめながら、昨夜の己の迂闊さを呪う。
ため息も、舌打ちをする余裕すらなく茫然とする彼の、狭くなった視界の隅で黒い何かが
もぞもぞと蠢いた。伸びをするように躰の倍以上あるだろう翼を広げ、その内側を嘴で
つついている。鴉、だ。一羽の鴉が己の脇にいることに、彼は別段驚きはしない。
「……おまえ、」
両手から視線を引き剥がした彼は、何か知っているかもしれぬ大鴉に呼び掛けた。この鴉に
名はない。ここをねぐらとして提供している黒猫には名をやったが、この鴉のねぐらは別に
あるはずだと思っている。
大鴉は翼をついばむのをやめ、ゆっくりと折り畳んでから彼を見上げた。どこもかしこも
黒一色の鴉は、当然ながら瞳も真黒である。黒真珠を嵌め込んだような、吸い込まれそうな
双眸だ。
なにも。聞き覚えない声が脳に響いた。しかし彼は疑問に思うでもなく、そうか、と少し
落胆した。
「知らねぇ、か」
落胆と同時に、彼は確かに安堵を覚えた。昨夜のことは、誰も知らない。あとは自分が忘れて
しまえばいいのだ。そう、あんなことは忘れるに限る。できるだけ早いうちに――
知らず、ため息をもらしていた。不安を感じたのか、大鴉がぴょこんと跳ねて彼の膝に乗った。
首をかしげてこちらを見上げてくるさまは、妙に愛嬌があってかわいらしい。
「……大丈夫だ。何ともねぇ」
虚勢ではなかった。それがわかったのか、大鴉もほっと肩をすくめたように彼には見えた。
鳥に肩などないのだけれども。
大鴉はおもむろに翼を広げ、ふわりと彼の肩に飛び乗った。細い脚で何度かたたらを踏み、
据わりのいい場所を見つけて翼をしまう。そうしていつものように、彼の耳を嘴で甘噛みする。
けっして傷が残らぬよう加減しているのだと彼は知っている。
大丈夫だ。誰かの声がして、しかし彼は驚くことはない。
「うん」
子どものようにつぶやいた。
雨は止み、雲は裂け、太陽が顔を覗かせる。
鴉しかいなくて申し訳ねぇです。
兄は影も形もないという無念さ。
文中の不審人物、ネロアンジェロ辺りで妄想してます。