証文アカシ








彼は不意に立ち止まり、空を見上げて何を思うか。





気が滅入る。そんなときは決まって良いことなど起きはせず、かえって鬱々とした 気分になるばかりなのだと、ダンテは身をもって体感した。

この日、近年稀に見るほどの悪夢にうなされ汗だくとなって飛び起き、しかし夢の 内容はろくすっぽ覚えておらず、気持ちの悪いばかりの朝を迎えたところから一日が 始まった。重だるい目覚めを経て、疲れ切った状態でリビングに顔を出せば、そこに いるはずの兄の姿はどこにもなく、テーブルの上には『出掛ける』と走り書きされた 紙切れが一枚、寂しげにダンテを見上げていた。
買い物か、図書館か、はたまた隣町の骨董屋か。兄の行動範囲は意外に狭いが、 特定するのが難しいときている。ダンテは手のひらの中で紙切れをくしゃくしゃにし、 屑入れに思い切り放った。握り潰された紙切れは、屑入れに突入するのを嫌がり、 縁に当たって床に転がった。

ぐぅ、と腹の虫。時刻は間もなく午前十一時。しかし兄がいないのでは、朝食も 昼食も摂りようがない。なぜならば、ダンテには生活能力の一切が備わっていない からだ。
もう一つ、腹の虫。苛々しながらキッチンの隅にある冷蔵庫を開ける。ひやりとした 冷気と、がらんどうの冷蔵庫内。扉の内側には、昨夜の残りとおぼしき栓の開いた ワインのボトルが一本あるばかりで、それ以外はきれいさっぱり何もない。こんな ことがあるのか。絶句するが、自分の目で見ているのだから現実には違いない。
またもや、腹の虫。ダンテはおもむろにワインボトルをつかみ、ぐりぐりと栓を抜いて 口許にあてた。ごくごく、音をたてて赤ワインを嚥下する。起き抜けに赤ワインの 渋味はきついものがあるが、構うものか。完全にやけになって、ダンテは残っていた ワインをすべて飲み干した。

ひとまず腹の虫は鳴き止んだ。しかし兄はまだ帰らない。冷蔵庫の中身を埋めるべく、 近くのスーパーマーケットにでも買い物に出ているのだろう。きっとそうだと 期待して、ダンテはふらふらとリビングを出た。空腹にワインなど投入したせいで、 妙にアルコールの回りが早いが、気にはならない。むしろ悪夢の影響が薄れて 一石二鳥ではないか。そんなことを考えながら、ダンテはふわふわ、事務所兼玄関を 目指した。



再びの、絶句。事務所から外へ出てすぐにコンクリートでこしらえられた三段ほどの 小さな階段があるのだが、その最上段、つまり玄関として使っているドアを開けた ところに、黒い塊が横たわっている。一瞬硬直したダンテのけぶった脳に、少しずつ その塊の情報が舞い込んでくる。
まず、それはダンテの両手のひらほどの大きさであること。そして毛皮で覆われて いるということ。長い尾が生えており、推察するにそれは――

「……ユタ?」

ぴくりとも動かない黒い毛玉。ダンテはコンクリートに膝をつき、おそるおそる、 その塊に手を伸ばした。毛皮に触れる。しっとりと手のひらに馴染む、ふわふわの それ。暖かいのか、冷たいのか、緊張した手はすぐに情報を伝えてくれず。

「ユタ、」

再度名を呼ばわれば、ぴくりと身動ぎする黒い塊。にゅぅ、とかすかな声を発するのを 聞いて、ダンテは自分でも驚くほど安堵した。

「何やってんだよ、こんなとこで……」

脱力感とともに、丸くまとまった毛玉をひょいと抱き上げる。寝てた、とわかり きった答えが返ってきて、ダンテは肩をすくめた。

「見りゃわかる。なんでわざわざここなんだよ」

風が通る、と。まだ眠たげな声がそんなことを言う。

「風、ねぇ」

もっとも涼しい場所は猫が知る、というわけか。ダンテはコンクリートの階段に腰を 下ろし、黒猫を膝に乗せた。猫は嫌がりもせず、座り心地を確かめるようにごそごそ すると、また丸くなってダンテの腿に頭を落ち着けた。
じっとしていると、確かにそよりと風がある。微風ではあるが、絶えることなく そよぐ風は心地好い。膝のぬくもりもまた、

気付けば、手摺りに頭を預けて眠ってしまっていた。





起きろ、と声がする。前からか、後ろからか。判別つかぬほど意識が朦朧として いる。

「ダンテ」

名を呼ばれた。低い、耳に快い声音――兄のそれだ。
返事をしようと口を開いたつもりだが、舌が絡まってうまく言葉を紡ぐことが できない。むにゃむにゃ、うわごとを繰り返す。
ため息が聞こえた。呆れたようなそれに、ダンテは肩を落とす。兄は苛立っている らしい。そうさせたのは自分だ。自分自身に落胆する。どうして、いつもこうなるの だろう。

にゅぅ、と奇妙な声。聞き違えようもなく、ダンテの黒猫だとわかった。そういえば 膝に乗せたままだったように思う。
浮上する意識とともに、瞼がゆるゆる持ち上がる。
初めに視界に映り込んだのは、真っ黒い毛皮を着た生きものの、真ん丸な瞳。

「ユタ……」

呟いた瞬間、黒い塊が視界から消えた。腿と胸にあった重みもなくなり、ふわっと した浮遊感がダンテを襲う。思わず「うぇっ?」と悲鳴をあげたダンテだが、何事が 起こったのかはすぐにわかった。兄によって横向きに抱き抱えられているのだ。

「え、ちょ……なんで、」

当惑するダンテに、兄はちょっとむっとしたような表情で「黙れ」と上からものを 言う。これはいつものことなので気にはならないが、むしろ兄が不機嫌であることの ほうが気になった。玄関先で眠り込んでしまったからか。はたまた兄に声を かけられた際、すぐに目を覚まさなかったからか。ダンテにはわからなくて、 だからこそ不安になる。

「バージル……」

その声音は我ながら弱々しく、情けないものだった。
兄は、無言。やはり怒っている。しかし、何に?
ダンテは黙り込んだ。兄は黙々と、どこかを目指して歩いている。黒猫はどこへ 行ったのだろう。少なくとも、ダンテの視界に黒い毛玉は映らない。
無意識にため息をついた。瞬間、再びの浮遊感。そしてぎしりと軋むスプリングの 悲鳴。ソファーだ。兄はリビングへ向かっていたらしい。

ダンテが顔を上げるのを待っていたかのように、兄はダンテに覆い被さり――唇を 塞がれた。何で、などと尋ねるのは野暮というものである。

「んっ……ぅん……」

我が物顔で侵入してきた舌が、歯列をなぞり、ダンテのすくんだ舌を絡め取る。 背筋を駆ける、ぞくりとした快楽。ダンテのすべてを知る兄にとって、ダンテの 官能を引き出すことなど簡単であるに違いない。実際、ダンテはいつも兄に いいようにされてしまっている。
それが嫌だとは思わないけれども。
舌をきつく吸われ、ダンテの腰がぶるりと震えた。くっく、と笑う声。兄はどうして こう、サディストじみているのだろう。酷薄で、残酷な暴君。

「俺に集中しろ」

よそ見をするなと暴君が宣う。いつよそ見などしたかと、抗議の声には少しも耳を 傾けてはくれず。
唇を解放されたかと思えば、首筋に顔を埋めしたたかに噛み付かれた。犬歯が皮膚を 破る、生々しい感触と鈍痛に顔をしかめる。

「ッつ……!」

ぢゅ、と何かをすする音。血だ。何が愉しいのか、兄はよくこうしてダンテの血を 吸いたがる。そして恍惚としたふうにつぶやくのだ。

「甘い、な」

吸血鬼かと、罵ったこともあるが兄の行動は改まるということがない。お前のせいだ、 などと言いがかりをつけてくるのだから救いがなかった。

兄の手がダンテの腹部をまさぐり、シャツをぞんざいにまくり上げる。寒くはないが、 膚に直接触れる指先は冷たく、びくりとしてしまう。またしても、くつくつ笑う 愉しげな声。底意地の悪さは折り紙付き――何度再認識をさせれば気が済むのか。
悪趣味、と。罵ってやろうと口を開いたダンテだが、先手を打つように兄が言葉を 発した。

「俺を罵るか、ダンテ? 趣味が悪い、とでも?」

その声音はなぜだかひどく冷たくて、ダンテは己の内心を読まれたこと以上に驚き、 すくんでしまう。

「おまえに言葉は不要だな。あれば必ず、要らぬことばかりわめく。いっそ潰して しまうか――そうだな、それがいいだろう」

わからないことをひとりでぶつぶつとつぶやく兄を、ダンテは半ば茫然と見上げて いる。なぜかはわからないが、ひどく、兄がおそろしいもののように見えた。

「バージル……?」

呼べば、兄はにこりと笑う。きれいな、それゆえにうそ寒い笑顔だ。

「不要なものは棄てる。それが最も正しいんだよ、ダンテ」

「え……」

ダンテの首、というよりも喉に、兄が手をあてた。ぐっと体重をかけられて、 ダンテはうめく。苦しい。痛い。息が。顔を歪めて兄の手首を両手で掴む。が、 びくともしない。喉にのしかかる重みは増すばかりで、視界が徐々にせばまって くる。
死ぬのだろうか。剣で心臓を貫いても、額を銃弾で撃ち抜いても死に至らぬこの 肉体が、こんな簡単なことで――?

ダンテの思考はそこで途切れた。視界が闇に染まる寸前、特徴のある鳴き声を聞いた 気がするけれども、おそらくただの幻聴であろう。





躰のどこかに、痛み。死んでも痛みは感じるのだろうかと、ふと考える。死後の 世界というものの有無には興味がなく、まるで考えたこともなかったけれども。
また、痛み。顔。頬だろうか。感覚が鋭くなってきているのがわかる。あとはこの、 痛みの原因が何であるのか、だが。

痛覚の次は聴覚か。何かが聞こえる。それは単なる音としてしか脳は認識しない。 何かの、音。人の声かどうかもわからない。

目は、どうか。視覚があれば情報量は飛躍的に増す。瞼であろうものを持ち上げる ように、想像をする。

ふわり、何かが顔に触れた。それがきっかけになったのか、どうか。水底をたゆたう ように濁っていた意識が、唐突に明るい水面へと打ち上げられた。





「ぅわ……ッ!?」

強烈な浮遊感とともに、ダンテは飛び起きた。見ればベッドの上である。シーツは くしゃくしゃによれ、上掛けに使っていた毛布は隅へ追いやられ肩身が狭そうだ。
肩で息をしながら、落ち着きなくきょろきょろとあたりを見回す。と、腕にふかふか したものが触れた。毛布の感触ではない。では、何か。

「……ユタ……」

真っ黒い、毛皮の塊。ぴんと尖った耳をぴくぴくさせ、長く細い尻尾をダンテの 腕に巻き付けてこちらを見上げてくる。くりりとした丸い双眸には、蒼白い顔を した自分が映り込んでいる。

「ユタ……、あ……バージル、は」

どもるように問えば、まだ帰っていない、との返答。どこへ出かけたかまでは、 この黒猫も知らないようだが。

夢か。どっと、安堵が押し寄せる。
どこからどこまでが夢であったのか、そんなことは構うまい。わけもわからず 殺されるのは、やはり納得がいかないものだ。

「あー……喉渇いた」

口の中の水分が蒸発しきってしまったかのように、ぱさぱさして気持ちが悪い。 妙な汗をかいているようでもあり、不快感は計り知れない。唯一、黒猫が絡まる ようにすり寄っている腕だけは、不快なものから遠ざけられているが。
みゅう、と黒い毛玉が鳴いた。労るような、慰めるような声だ。
ダンテは猫の頭を指先でくすぐり、大丈夫、とつぶやいた。

「大丈夫だよ」

みゅう。黒猫が鳴く。
こちらをじっと見上げる丸い双眸が、首筋にかすかに残るふたつの傷痕が映している ことに、ダンテは気づいてはいない。



















戻。



猫もの…と言って良いのだろうか…?
まぁ、うん、とりあえず良いか。