月並ツキナミ








朝、というよりも昼近く、というべき時間。彼の遅い目覚めに立ち会うものは誰もいない。 当然ながら――彼がひとりで暮らすようになって、もう随分になる。
父はもう、面影をわずかに覚えている程度。母は彼が幼いころに亡くなった。兄がひとりあるが、 消息は知れない。生きているのか、死んでいるのかすらわからないというのが正直のところだ。

彼は、ひとり。ここにひっそりと暮らしている。

顔立ちは文句なしに良いのだけれども、なぜか女運に恵まれなかった彼には、妻子はもちろん、 恋人のひとりもない。彼の稼業はおよそまっとうな生業ではないので、まともな恋愛など できようもないけれども。
さみしい、という感情はどこかに置き忘れてきたように思う。
恋人がほしくて、必死に女を口説いたこともあった。さみしくて、けれども誰にも心の内を 明かしたことはなかった。――なりふり構わず獲得した恋人にすら、彼は一度も心を 開かなかったかもしれない。
それがいけなかったのか、どうか。恋人と長続きしたことはなかった。いずれも、女のほうから 彼を捨てた。マザコン、と侮蔑をこめて言われたこともある。

そんなことを繰り返すうち、いつしか彼は、ひとりきりの暮らしに折り合いをつけるように なっていた。
無理に相手を求めるのは、不毛なことなのだと考えるに至ったのだ。彼が求めるものと、女が 求めるものには大きな差異がある。彼は女に安堵を求めたが、それはある種、母が与えてくれる 愛情であった。女がそれをよしとするはずもない。
彼は、ひとり。ぼんやりと過去を想う。

心の奥底、誰も踏み込むことのできぬ水底――固く閉ざされた扉の前に、彼はひとり、背を もたせかけてゆるゆるとまどろむ。







「バージル、」

呼びかけると、いつもの仏頂面がこちらを向いた。眉間には、深くはない縦線が常に刻まれて いる。とはいえ、常時不機嫌というわけではなく、これが平素の表情なのだ。
せっかく秀麗な顔立ちをしているというのに、もったいない。
そんなことを考えるダンテもまた、バージルに負けず劣らず整った顔立ちである。顔立ちが 瓜二つの双子なのだから、当たり前であるが。

「何だ」

応じる声音は無愛想を地でいくバージルらしいそれ。これだから女が遠巻きにしか寄って 来ないのだ。彼女らはバージルの表面しか見ていない。寡黙で気難しい、見目麗しい男。 眺めるぶんには申し分ない容貌であることは確かだ。
バージルの中身を知っているのはダンテただ一人。兄の閉塞的な世界に存在するのは、 バージル自身とダンテのみ。だから、バージルに恋い焦がれる女がいても気にせずにして おられるのだ。間違っても、バージルが他者を容認することはないと知っているから。

「なぁ、バージル」

双子の兄の口から、それらを聞いたわけではない。バージルは何も語らない。双子には特別な 能力がある、とは信じてもいないけれど、産まれるより以前からともにいるのだ。他者に わからぬことも、ダンテには知ることができる。

「ケーキ食いたい」

にっと笑えば、バージルは肩をすくめる。

「誕生日はまだ先のはずだが?」

「良いじゃん、食いたいもんは食いたいんだよ」

ケーキを買ってほしい、とダンテは言っているのではない。バージルはダンテと違って器用な 男で、料理は前菜からデザートまで何でもこしらえることができる。しかも、うまい。とくに デザートに到っては、下手に市販のものを買い求めるよりもはるかに旨いとダンテは知って いるのだ。
だから、ねだる。
たまに、思い出したようにねだるのが効果的だ。まれにであれば、バージルはダンテを冷ややかに 突っぱねることも少ない。

「今すぐには、無理だ」

待てるか、と。わかりやすく、作ってやると言うバージルに、ダンテはにっこりする。答えは 一つだ。

「当然」

褒美があるからこそ、我慢は成立する。ダンテの辞書に書かれた我慢の文字が引き出されるのは、 こんなときくらいのものだろう。
無茶で無謀な命知らず。死にたいのか、という問いは、いつしか、好きにしろ、という投げ遣りな ものへ変わっていた。

ダンテにとり、大事なものは己の命ではない。だから、命を粗末にするような振る舞いを平気で 行う。死ねばそのとき。惜しいとは思えないのだ。

「ダンテ、」

不意に名を呼ばれ、ダンテははっとして顔を上げた。めったに変化することのない兄の顔が、 じつとこちらを見つめている。

「? なに?」

「……いや。ケーキの種類は何が良い」

明らかに何かを隠したふうだが、ダンテは追及しなかった。バージルはダンテ以上に頑固で、 一度こうと決めてしまえばてこでも動かない。ぶれることもしないのだから、ダンテがいかに 追及したところで無駄に違いなかった。もちろん、気になるけれど。
ダンテは肩にかけたブランケットに頬をすり寄せるようにして、ことりと首をかしげた。

「ん〜、バージルの作ったのは全部旨いからなぁ。何でも来いなんだけど……たまには……うん、 ショートケーキが良い」

ぶつぶつ言いながらも答えを返せば、バージルはダンテにしかわからぬ程度の笑みを浮かべ、 わかった、と喉の奥で応じてくれた。笑顔の安売りをしているダンテとは違い、バージルの それはおよそダンテに対してしか見せることがない。特別、なのだ。はっきりとそうと わかるから、嬉しくないわけがない。

「サンキュ、バージル」

笑えば、バージルは何やら目を細めて。しかし何を言うわけでもないので、ダンテはまた首を ひねった。

「バージル? どうした?」

「おまえは本当に甘いものに目がないな」

「旨いんだから、仕様がねぇ。あんたが食わなさすぎなんだよ」

バージルは肩をすくめ、話を打ち切った。この話題に結論はない。あるとすれば、ダンテは 甘いものが好きだがバージルはさほと好きではない、と現状維持で落ち着くというものだけ ――つまりは話を途中でやめてしまっても、結果は同じということだ。

「買い出しに行くか」

バージルの独り言のような呟きに、ケーキの材料かな、とダンテはぼんやりと考えた。







泡沫の夢は儚く、消えてしまえば跡にも残らず。

ひとりきりの朝は、昏い。







うとうと、まどろんでいたらしい。気付けばソファーに寝そべって、ブランケットを頭から かぶっていた。気に入りのブランケットは毛足が長く、ふかふかしていて手触りも当然最高だ。 頬をすり止せ夢とも現実ともつかぬ狭間でまどろんでいると、贅沢だと思うほどに心地が良い。
寝てしまおうか。睡魔に半ば負けて、そんなことを考える。だらしがない、と苦言を吐く者もない。 寝てしまえ。まどろみは安らぎをくれる。睡魔に抗う必要がどこにあるというのか。

どうせ、見咎めを受けることもない。そう、ここには自分一人しかいないのだから、誰が文句を つけられようか。

彼はブランケットを引き寄せ深くもぐり、再び夢うつつを漂うべく意識を手放そうとした。が、 はたと、気付く。

(……?)

疑問は、今し方の自分の思考へ向けて。細かく言うならば、ひとり、という単語に対しての 疑問。
彼に妻子はない。恋人もいない。親兄弟は――いた。過去形であるのには、無論理由がある。 父の行方は知らない。生きてはいないと思っている。ある種の伝説の中でしか語られぬひとだ。
母は彼が幼いころに悪魔によって殺害された。ゆえに悪魔は、彼にとって生涯の仇なのである。
それから、兄は。
双子の兄は、彼とおよそ正反対の性格だった。几帳面で、潔癖。顔色一つ変えずに人を殺す ことのできる残忍さをもっていながら、彼にだけはやさしかった。潔癖ゆえに他者と相容れず、 唯一の同種であった彼とも決別した。袂を分かってしまえば元には戻れず、彼は兄をこの手に かけたのだ。人は殺さないと決めた、この手で。
だから、彼は今や天涯孤独の身である。おそらく妻も子も望めぬだろう。いや、子はおらぬほうが いい。少なからず悪魔の血が流れていれば、子も彼と同じ苦労を背負うことになるに違いない。

(誰もいない。誰も、いらない)

ひとりが、いい。

誰の手も煩わせず、誰に気を遣うこともなく、誰からも苦言をもらうことなく。ただ、息を するのみ。
理想的ではないか。独りごちる心の奥底で、何をか叫ぶ己がいることに、彼は気づいていながら 聞こえぬふりをする。

何も言わない。何も聞かない。何も見ない。

孤独にはもう慣れた。

寂しい、とは、どんなものだっただろう。







バージルのこしらえたホイップ満載のショートケーキは、甘ったるくなく脂っぽくもなく、 ダンテの胃に瞬く間に収まってしまった。とはいえ、ホールごとぺろりと平らげたわけではない。 何ごともそつのないバージルが、四分の一の大きさに切り分けた一切れだけをダンテに与えて いたのだ。

「残りはまた、明日にでも出してやる」

言いながら、バージルは余ったホイップを指先に取り、ダンテに向けて突き出した。何の疑問も 抱かず、ダンテはその指にぱくりと食いつく。ほどよい甘さが舌をとろけさせる。ほう、と ため息がこぼれた。恍惚とも見える表情に、バージルが目を細めたけれども、妙なところで 鈍いダンテは気づかない。

「俺の指は旨いか?」

再度、バージルがホイップをつけた指を差し出してくる。無論、ダンテはそれを咥える。至福の 瞬間だ。うん、と頷いたダンテの口から指を引き抜き、バージルはそれを自らの唇へ寄せて舌を 這わせる。それが妙に卑猥に見えてしまって、ダンテはちょっと頬を赤くした。
思ったとおりの反応だ、とばかりに、バージルが人の悪い笑みを閃かせる。

「もう満足しただろう、ダンテ?」

「え? あ……、う、ん」

どもるダンテをよそに、バージルの微笑は深くなり。いやな予感が、ダンテ脳裏をよぎる。

「ならば、次は俺を満足させろ」

言うなり、ダンテをソファーへ引きずり上げるバージル。ダンテは狼狽した。満足、の言葉の 意味を取り違えるほど、彼はうぶではない。しかし時刻はまだ陽のある午後二時だ。行為は夜に 及ぶもの、と決まっているわけではないけれども、躊躇して――後ろめたく感じて――しまうのは なぜだろう。
無論、バージルはそんなダンテの内心など汲んではくれず。抵抗らしい抵抗もしなかった ダンテは、あっさりバージルの下に組み敷かれ。見上げる兄の白皙の美貌は、今日も今日とて、 鉄でできているかのように冷たい。

「バ……ジル」

かすれた声が出てしまったことはわかったが、その一言によってバージルの奥底に火が点いた ことには気づかない。

「たちが悪いな」

などと、バージルがつぶやいた言葉の意味もわかろうはずがなく。え? と瞼を瞬かせている 間に、バージルの手はシャツの裾を割って腹へ、胸へと入り込む。存在する意味のわからぬ胸の 突起をいじる指先には慣れがあり、ダンテを翻弄し始めるのに時間はかからなかった。あっ、と。 聞く者が聞けば欲情を抑えられぬであろう小さな悲鳴を、耳に入れるのはバージルただひとり。

「好い声だ」

なんて。愉しげに囁くものだから、ダンテはバージルをきっと睨む。

「っ、誰のせいだよ」
ダンテに性的な快楽を教えたのはバージルに他ならない。それをよく、バージルは棚上げして ダンテを侮蔑するのだ。ダンテが快楽主義者になった原因のひとつは、きっとこの兄にあると いうのに。

なんでも、そうだ。ダンテは思う。

バージルはいつも、ダンテを見下すようなことを言う。自分はもちろん棚の上だ。なんという 傲慢。なんという暴虐。
暴君という名が相応しい男を、なぜ自分は慕うのか。――自問はいつも、不問に終わるけれど。

ひとつだけ。たったひとつだけ、確実に言えることは。

(ひとりに、しないで)



それは祈りにも似た、切なる願い。



















戻。



リクエストもの第8弾、甘いバジ×ダンでした。
長らくお待たせしてしまってまことに相すみません…!!

それにつけても、切なさ満載にしてしまいがちなのは、性格でしょうか…
甘さに徹し切れなかったことが悔やまれますが、
もしお気に召していただけましたら、リクくださった方のみお納めくださいませ。