隷属しもべ












あの日、彼は生涯消えぬであろう傷を負った。

母が逝って以来、初めて泣いた。
雨だと言って誤魔化したのは、恥ずかしかったからだけではない。
――泣くとは思っていなかった。覚悟はしていたはずだった。

彼らは決定的に決別していたのだ。あの日以前に、すでに。
泣く、など考えたこともなく、悲しむ、など無縁のことだと思っていた。だから、彼は自分自身に 対して言い訳をせねばならなかった。悲しくなどない。この涙に意味などない。

あの日から、彼は以前にも増して無茶を重ねるようになった。
見ているこっちがひやひやする。そうもらしたのは、馴染みと言える仲介屋であった。







痛い。ずきりと走る痛みに、彼は夢から醒めざるを得なかった。嫌な目覚めだ。薄目を開けた 彼の視界は暗い。まだ夜が明けていないのだ。ため息をつくと、またしても慣れぬ痛みが走った。 こめかみがずきずきする

「いてぇ……」

呟きは、静寂の中で驚くほど大きく響く。ダンテは唇を噛み、毛布を蹴った。ベッドから降りて、 そのあたりに散らばったシャツを一枚拾い上げる。

ダンテが事務所兼自宅として使っている建物は、古ぼけてこそいるが住心地はまずまず良い。 一人暮らしの身で二階建ての物件など贅沢すぎるかもしれないが、土地柄に問題があるため、 よほどの物好きでなければここに住もうとは思わない。
特別物騒な土地。そう指定して、仲介屋に都合させたのがこの物件なのだ。

一階には、キッチンとリビング、洗面所、それからバスルームがある。玄関を兼ねている事務所と 居住空間とは、扉一枚で隔てられている。
真っ暗な中、ダンテが向かったのはリビング――続きになったキッチンだ。冷蔵庫を開け、 ミネラルウォーターのボトルを取り出す。やけに喉が渇いている。キャップを外すと、 一気にあおった。ごくごくと小気味良い音をさせて、水が胃へと滑っていく。その冷たさが、 何とも心地好い。

「はぁ……、」

口元をシャツの袖で拭い、空になったペットボトルを屑籠へ放った。かこん、と軽い音。 そしてすぐに、痛いほどの静寂に包まれる。聞こえるのは自分の鼓動のみ。まだ生きている という、証の音。
ダンテは目を閉じた。ほんの二秒ほどの、瞬きの延長。
戻って、寝直そう。ため息をひとつ、埃まみれのキッチンに残して廊下へ出た。

物音がしたのは、丁度その時。

事務所のほうからだ。

玄関扉に鍵を掛ける習慣はダンテにはない。物盗りに入られたことはなく、そもそもこんな 貧困街の奥底で、人家に泥棒に入ろうとする物好きはいないらしい。収穫の少なさは火を見るより 明らかだ。
何も知らない馬鹿が流れて来たか。
その程度に考えて、ダンテは事務所へと足を向けた。無視をするには、彼は好奇心が旺盛で ありすぎる。





闇はひっそりと息をする。その胎内より生ま出でる影は、人を襲いその血をすすり肉を喰らい、 断末魔の悲鳴に愉悦を覚える。そうして闇は、ますます肥え太っていく。
肥大した闇の欲望は、およそ尽きるところを知らない。





何も見えない真黒に塗り潰された事務所に、ダンテは眉をひそめた。仕事の都合で夜更けに 帰宅することは少なくはなく、その都度、玄関を兼ねているこの事務所を通過するわけだが、 こんなにも暗いものだっただろうか。
不自然なほどの、黒一色。やはり、おかしい。
何かがいつの間にかダンテの縄張りに侵入したに違いない。何か、とはもちろん人間ではなく、 悪魔の類だ。招かれざる客だが、ダンテにとっては歓迎したい客である。便利屋を名乗ってはいるが、 ダンテの本業は悪魔狩り――人間に手出しするしないにかかわらず、悪魔を狩ることが本来の 生業と決めている。

剣は。口の中で呟く。
父の形見である両刃の大剣は、事務所の壁にしつらえたラックに横たわりダンテを待っている。 それを忘れたわけではないが、何せこの暗闇だ。優れた五感を持つダンテの目ですら、かすかな 光も拾えぬのだから尋常ではない。

(なんなんだよ、これ)

内心で毒づいたとき。

「ッ……!?」

息を飲んだ。誰か――何かの腕が、ダンテの首を鷲掴みにしたからだ。感触は、右手。しかも 真正面からである。接近されていることに全く気付かないとは、何とも情けないことだ。ダンテは 唇を噛み締めた。気配がなかった、とは、事実であるが言い訳に他ならない。
闇に腕が生えたかのように、それは黒に塗り潰されて姿はまるで判然としない。人に近い形を しているようではあるが、いくら目を凝らしてしても、輪郭すらも見えなかった。
ぎりぎりと締め付ける手――そこから伸びる腕を両手で掴み、力をこめる。この躰は、 何の呪いによってか死から遠ざけられているものの、抵抗をせぬのはダンテの好みではない。

(俺はマゾヒストじゃねぇぞ……ッ)

毒づき、何者かの腕に爪を立てる。ふ、と。何か笑うような吐息が聞こえた。怪訝に眉をひそめた ダンテの足が、床を離れる。支点は首。腕の一本のみで、けっして軽くはないダンテの躰を 持ち上げたのだ。驚くよりも、息苦しさと痛みが勝っているが。
何者か――悪魔に違いない――は腕を引きつけるようにし、次いでその腕を勢いつけて 押し出した。ダンテの躰は宙に放り出され、受け身を取る間もなく背中から壁にぶつかった。 背骨が軋むほどの衝撃。

「ッ、ぐ……!」

呻き、床に手をついたダンテの視界に、自分を放り投げたものの足が映る。次が来る。身構えた 瞬間、その足がダンテの肩をしたたかに蹴った。またしても壁に背中をぶつける格好になった ダンテの髪が鷲掴みにされ、二度、三度と壁に打ちつけられる。鈍く、重い音が響く。

「ぅ、あ」

脳震盪を起こした頭を、ダンテ自身はどうすることもできず。鼻血が出ているのか、口の中を 切ったのか、舌ににじむ鉄錆の味が不快でならず。しかし、冷ややかにこちらを見下ろす眼を屹と 見上げる双眸は強い。
舌打ちが聞こえた気がした。耳鳴りがしているので、空耳かもしれない。意識が朦朧とする。 たったあれだけのダメージで、こうも再起不能になるなど奇妙なことだ。いかに不思議がった ところで、この事実は変わらぬけれども。

「この程度か」

不意に落ちた声音は、低く、重い。悪魔のそれというにはやけに明瞭で、ダンテを驚かせた。

「もう少し、愉しませてくれると思ったのだがな」

落胆。失望。そんな色をない交ぜにした呟きに、ダンテは自分が侮られていることを悟って眉を しかめた。不意をつかれたからだ、と言い訳をするのは嫌だった。丸腰だった、という理由も 然りだ。

(なんで)

答えは一つしかない。が、それを認めたくなくて、ダンテはただ、目の前に佇む影を睨む。 先刻よりも、影の輪郭がはっきりしてきたように見えるのは錯覚だろうか。肩幅のある、 大きな男のような。
じっと目を凝らすダンテの髪を、影が再び掴もうとした。何度も同じ目に遭ってたまるものか。 ダンテは手を振って影の腕を振り払った。感触は人のそれと変わらない。柔らかくはないから、 やはり男であろうか。
影がくっと喉を鳴らした。笑っているらしい。

「それで良い」

高圧的な声音に、むっとする。ばかにするな。そう思うが早いか、手首を掴まれた。が、影に、 ではない。紐のような布のような、細く薄い何かに。

「、な……っ?」

声を上げるのと、両腕が頭上に持ち上げられるのはほぼ同時だった。壁に手の甲があたる。 肩が痛んだが、それどころではない。動きを封じられた。手首を捕えたものが、同様に脚にも 巻き付いている。

「っ、くそ……!」

いかに力を入れようとも、それは伸びるどころかびくともしない。まるで鉄だ。

「何、した」

恨みをこめて影を睨みつける。次第に輪郭のはっきりとしてきた影は、やはり人型――人間と 同じ姿を取る悪魔を、ダンテはほとんど見たことがない。

「失せろ」

影が低く恫喝した。ひどく気分を損ねたような響きだ。ダンテに対してではないらしい。 手足を戒めていた何かが、影に気圧されするするとどこかへ消えた。腕が落ちる。その腕を影が つかみ、床についていた尻が浮く。引きずり上げられたらしい。そう気付くなり、きらりと 光るものがダンテの視界を横切り――熱に似た激痛が左手に走った。焼印を押しつけられたかの ような、ひどい熱だ。

「、……っ!」

悲鳴を堪えたのは、やせ我慢というわけではない。常人ならば死に到るであろう怪我を、 ダンテは何度も負ってきた。それに比べれば、この程度は小さな傷だ。掌をナイフで貫かれる くらいのこと。
しかし予想外の展開は、そのあとに訪れた。
ダンテを殺すためにある影の手が、彼の胸から腹部にかけてをゆっくり撫でた。下腹へ落ちた手は さらに下へ。ダンテは動揺した。下、には脚と脚の間のものしかない。痛みを与えるわけでも なく、この男は何をしようというのか。

「なに、を」

応えはない。ただ、影はうっそりと微笑した。顔立ちなど見えもしないというのに、なぜそうと わかったのか、ダンテに知るよしはない。
布の裂ける甲高い音。寝着代わりの薄手のパンツが、男によって簡単に引き裂かされ襤褸と 化す音だ。男が何のためにそんな行動に出たのか、わからぬほどダンテはうぶではない。 わからないのは、行為に至ろうとする理由のほうだ。ダンテの股を割り、彼の象徴に手が触れる。 男の意図はより明らかになった。が、やはり理由がわからない。

「なんで、」

節の張った、人間じみた手――手袋でもはめているのか、感触こそ硬いけれども――が彼を ゆるゆると愛撫する。自然と息が上がるのが嫌で、彼は唇を噛み締めた。その唇に、男の指が 無理矢理割り込んでくる。

「声を出せ。……心地が悦いのだろう」

隠微に囁く声音に、かっとなって男を睨んだ。ちがう、と吠える声は男の指があるせいで間抜けに 響き、いっそう情けなくなる。ナイフで縫い止められていない手で、男の肩を押した。 ごつごつとした感触だ。筋肉のそれではない。まさか、鎧でも着けているのか。

「な、」

なんなのだ、おまえは。そう紡ごうとしたが、できなかった。男の手が彼の腿を、下から すくうようにして持ち上げた。内股の奥が男の前にさらされる。ひどい羞恥に顔が歪んだ。 その反応すらも、男は愉しんでいるに違いない。

「好い恰好だ」

揶揄は、股を開いたさまだけを差しているのではない。その中心で、鎌首をもたげて震える彼の 花芯だ。人外に触れられ、その気になるなど正気ではない。しかし男といういきものの下肢は、 性欲に関して正直でありすぎる。

「言え。おまえの望みは何だ」

知っているのだ、とでも言いたげに、男は囁く。その声音は甘やかで、鼓膜が、身の内が痺れる。 どうしてか、熱が上がっていく。あらわにされた秘蕾が、襞が、内が、主の意志に反して ひくついているのわかる。
狂っている。そう、狂っているのだ。そうでなければ、悪魔の手によって快楽を得るなど、 あっていいわけがない。

「ぁ……あっ……」

追い打ちをかけるように、男は彼の中心を巧みに刺激する。言え。そう囁きながら、先端を指先で 引っ掻くようにした。
下肢の疼きと掌の痛みにより、朦朧とする意識。靄のかかった思考は、もはや抗うことを忘れ―― 解放を求めて、啼く。

「ほ、しい……はや、く、っ」

せめて一時の解放を。本当にほしいものは、二度と得られぬと知っているから。
ダンテの求めに応えるように、押し広げた秘蕾へ男の体躯が割り入ってくる。たくましい楔が、 彼を貫く。掌のナイフを凌駕するほどの熱だ。ダンテは知らぬうちに声を上げていた。痛みによる 悲鳴ではない。それは明らかに、快楽による嬌声――犯されることへの、歓喜の声。 乱れるさまは、まさしく狂気の沙汰に違いなく。

「ぁ、はあっ……あぁ……ッ!」

熱にうなされたように喘ぐ彼の耳朶に、男は低い、ぞっとするほどに冷めた声音で囁いた。

――淫売め。

ちがう、と叫んだのか、さっと蒼白になったのか。
その言葉の直後に、彼は意識を失った。失神したのか、意識はあるけれども理性が残って いなかったのかは、彼にはわからない。
ただ、漆黒であったはずの視界が、まぶしいまでの白に染まったことだけ、憶えている。






気付けば、彼は元いたベッドにうつ伏せに寝転んでいた。がばりと、反射的に身を起こす。 あるはずの腰の痛みや重さは一切なく、破かれたはずの寝着には糸が引き攣れた箇所すらない。 掌は――傷などすぐ治ってしまうから、やはり跡形もなかった。

「……ゆ、め、……?」

それ以外に説明のしようもない。しかし夢と片付けてしまうにはあまりにも生々しすぎた。 掌の痛みや熱塊が押し入ってくる衝撃など、夢だとは納得しかねる。が、証は何一つないし、 誰に訴えることもできないのも確かだ。

「疲れてんのかなぁ……」

安堵とも落胆ともつかぬため息をつくダンテの耳には、意識を失くす間際に囁かれた男の言葉が、 いつまでもこびりついて離れなかった。



















戻。


ようやくリク8つ目消化です。長らくお待たせしてしまい申し訳ありません。
これでも一応、ネロアンジェロのつもり…ひどい出来だ(爆)
このような事態に相成りましたが、リクくださった方のみお納めください。

[10/03/20]