写実
「…………は?」
己の耳や目を疑ってみても、現実というものは何ら変わってはくれぬもの。残酷だと嘆き悲しみ、
ついでに涙を流してみても、現実は何も変わらない。すぐそばにいて、何を言うわけでもなく
じっとこちらを見つめている。息苦しくてならないほどに。
兄は、突拍子もない。
なにがかと問われれば、全部、とダンテは即答する。そんな、ある意味潔い答えがすんなり出て
しまう程度には、兄は何につけても突拍子がなく、ついでに脈絡もない。すべては、突発的。
しかしその場の思い付きではないらしい、というのがダンテには毎度信じられぬのである。
我が兄ながら、あの男の頭の構造は謎に満ちている。理解しようと思ってもいないから、当然と
いえば当然のことなのだろうけれども、発作のような突発性の発言を投げられたとき、ダンテは
心底、兄の脳内を覗いてみたいと思うのだ。
実際はそんなことができるわけもなく、ダンテは顔面を引きつらせて兄を牽制するしかない
のだが。
「無茶で無謀な命知らず」
ダンテをそう評する人間は少なくない。馴染みの情報屋(自称だ)は誰よりも早くダンテをこう
評価した。それほどに、ダンテの仕事ぶり――生き方、とも言えよう――は無茶で無謀、命を
捨てにかかっているようにしか見えぬというわけなのだが、そんなダンテですら手を焼くの
だから、兄はつくづくおかしな存在だ。
おかしい、とはおもしろいという意味ではない。奇妙な、であったり、風変わり、という意味が
当てはまる。
ダンテは、あくまで真面目であるらしい兄の澄ました顔を凝視した。見ていて苛立ちを覚えるのは、
その表情があまりにも変化に乏しいからだろう。自分は兄の言葉や行動一つで顔色を様々に変えて
しまうというのに、まったくずるい。たまには慌てて見せてはくれぬものかという、淡い期待は
いつも落胆と寄り添っている。
兄に何をか求めるのは、そもそも間違いであるとダンテはよく知っている。期待をして裏切られる
落胆――絶望――を味わうくらいなら、何をも期待せぬほうがどれほどましかわからない。
ダンテは基本的に前向きな性格であるが、その本質にはかなり後ろ向きな思考を持っている。彼を
そうさせたのは、彼自身であり兄である。ある時期まで、兄は彼のすべてだった。今でこそ自分と
いう確固たるものを持つに至ってはいるが、兄の与えた影響は、いまだに深く彼に根付いている。
我ながら滑稽と思えるほどに。
そのことは、今は隅へやる。
「…………いやだ」
ダンテの口からこぼれたのは、ちょっと舌足らずな(というのがよけいではあるが)、本心からの
言葉だった。兄の鉄面皮に、深い縦皺が刻み込まれる。部位は言うまでもない。ダンテはまずいと
思ったが、前言を撤回するにはもう遅い。
「なぜだ」
断られるはずがない、と妙な確信をしていたのか、兄の口調は明らかにダンテを責めている。
やはり兄の思考は何かがおかしい。悪いのは自分か? いや、そんなはずはない。
半ば脱力しつつ、しかし兄を牽制することは忘れず、ダンテは尖った声を投げた。
「なぜ、はこっちの科白だろ……なんでこんな寒いときに真っ裸にならなきゃなんねぇんだよ」
兄の要求は、突拍子もない代わりに端的極まりなかった。いわく、脱げ、とのこと。しかも下着も
すべてだそうだ。朝晩の冷え込みが激しく、昼の日中であっても暖房の世話にならねばならぬ
この時季に、屋内といえど服を脱ぐなどありえない。まさか、風呂に入ろうというわけでも
ないだろう。もしそうならば、風呂という単語を口にするはずだ。
兄は、やはり不機嫌そうに眉をひそめている。何がおかしいのか、とでも言わんばかりだ。
(こいつは……)
自分が命令すれば、ダンテは何でも言うなりになると思っているのだ。たしかに幼いころは
そうだったかもしれない。前記のとおり、兄はダンテのすべてだった。兄の言葉は絶対で
あったし、それを疑問にも思わなかった。が、今となってはかつてのような盲目さはダンテには
ない。当然だ。ダンテとて、いつまでも子どものままではおれぬ。
ならば、兄はまだ子どもであるのか、といえばそうではない。ただダンテを己と同等に見なさぬ
だけ――それが最もたちが悪いのだ。
ダンテは唇を尖らせた。
「だいたい、なんで脱ぐ必要があるんだよ」
聞いてはならぬ気は、ものすごくする。しかし聞かずにはおれぬこの好奇心に、ダンテはいつも
自滅に追いやられてしまうのだ。
兄は何やら思わせぶりなため息をこぼし、ラフとは言えぬ革パンツの後ろポケットに右手を
やった。何かを取り出し、腕をこちらへ戻す。その手の中にあるものが何であるか、ダンテには
わからなかった。やや長方形で、掌に収まる程度の大きさの、あまり厚みのない銀色のボディ。
「……ナニ、それ?」
頭の悪い質問のようだが、まったくわからぬのだからそれ以上に聞きようがない。
兄は掌の中でそれをちょいちょいといじり、おもむろにダンテへ向けた。銀色の平たい面に
はまった、黒い円。よく見るまでもなく正体がわかった。カメラだ。あまりに縁がないため、
一目ではわからなかったらしい。
厭な感じがする。ダンテは兄とカメラを交互に睨んだ。その瞬間、兄の右の人差し指がわずかに
動いた。ふむ、とつぶやき、手許に視線を落としてにやりと口角を吊り上げる兄。気味が悪い。
いったい何なのか。
「……ンだよ」
仏頂面のダンテに、兄は手首をひねってカメラの裏側を向けた。そこにはカメラよりも一回りほど
小さいディスプレイがはまっており、何かの画像が映し出されている。不機嫌そうに唇を尖らせた
青年が、こちらをじとりと睨んでおり――
「っ……趣味悪ぃぞ、バージル」
悪態に、兄は気分を害したふうもなくのたまった。
「おまえの言う、良い趣味とやらに倣いたいとは思わんな」
いかにも皮肉っぽい口調――ダンテが揃えた、事務所の内装のことを言っているのだろう。
ドラムセットやビリヤード台、果ては悪魔どもの首を貫く剣がいくつも壁に突き刺さっている、
あれらのことを。
「それとこれは別だろ。なにが楽しくて写真なんか……」
「俺が楽しいが、なんだ」
一刀両断、兄が断固たる声音でのたまった。表情、口調ともに威厳に満ちているが、言葉と行動は
まったく反している。ダンテは頬が引きつるのを感じた。兄はいつも頑固だが、こうした
“遊び”を見つけたときはとくにたちが悪く、いくら説得しようが突っ走ることをやめぬのだ。
暴走機関車……では、言葉が古すぎるか。
兄はまた手許でカメラをちょいちょいといじり、さて、などと一息漏らした。
「脱げ」
「……いやだ」
予想通りの言葉だ。おそらく、お互いに。
兄は片方の眉を器用に持ち上げ、ダンテは心底辟易した表情を浮かべている。
弟の裸を被写体にしようとする兄を、世間は果たして正常と評するだろうか。裸身をモチーフと
する画家や写真家はいる。芸術に制限はない。何を描くか、何を写すか、それらは個人の自由で
ある。無論、犯罪にならぬ範疇において、だが。
兄は写真家でも何でもない。ダンテを撮ろうとしているのは、完全なる趣味だ。読書しか
趣味らしい趣味のない男が、べつのものに興味を抱くことは良い。しかし自分を巻き込むなと、
ダンテは声を大にして言いたいわけだ。
「そんなに撮りたきゃ他のを撮れば良いだろ」
たとえば景色であるとか、動物であるとか。被写体は様々、ある。わざわざダンテを撮る必要は
ないし、写してくれるなとダンテは思うのだ。その思いはおよそ、兄には伝わらないと知っている
けれども。
兄は憮然としたふうに、なぜ、とのたまう。
「そんなものを撮って、なにが楽しい?」
会話にならない。ダンテは頭を抱えたくなった。兄はやはり何かがおかしい。おかしいのに、
何かしらこちらに非があるような気がしてくるから、まったく奇怪な気分だ。
これが話術というものか? いや、むしろ催眠術?
おかしな結論に到ろうとするダンテを、抑止する人間は一人もない。取り残されたダンテに
伸びるのは、けっして救いとは呼べぬ手のみである。
がし、と手首をつかまれた。ひ。悲鳴になりそこねた引きつった声がもれる。
情けないことであるが、兄相手ではなりふりかまってはいられない。ダンテは嫌だと言い募り、
兄の手首をつかみ返して振りほどこうともがいた。
兄が眉間に皺を寄せて言う。
「なぜ、そうも嫌がる?」
この男は、心底鈍い。ダンテは唇を噛み、だって、と兄の手を睨んだ。視線を合わせることは
できなかった。なぜならば、兄にはない羞恥というものを、ダンテは幸か不幸か持ち合わせて
いるから。
「だって、なんだ」
まるで理解のない兄。理解しようという気がないことを、ダンテはよく知っている。
兄は、いつもそうだ。いつも、ダンテのことは置いてきぼり。
「っ……」
何やら泣きそうになってきて、ダンテはぐっとうつむいた。そうしたところで兄の目から
逃れられるわけではないのだが、少しでも、情けないに違いない表情を隠したかった。
何もかも、兄が悪い。そうだ、自分に何の非があるというのか。
くそ。喉の奥で口汚なく悪態を吐く。――その瞬間、白く長い指がダンテの顎を下からすくい
上げた。驚き目を丸くするダンテのごく至近距離に、銀色の箱と兄の白皙のおもて。
目を伏せるいとますら与えられなかった。きし。カメラのシャッターが軋むようにまばたきを
するのが、ダンテにはわかった。いや、見てしまったというべきか。
「ッ……!」
咄嗟に声が出ず、見上げた先の兄の視線はカメラに落ちている。にや、と吊り上がる唇。ダンテの
頬が上気し、赤く染まる。
「その表情もなかなか良い……」
などと、うっそりと囁く兄を、ダンテは心底きらいだと思う。兄の悪趣味も極まった。あとは
ダンテがどこまで抵抗できるかであるが、残念ながら自信はあまりない。いざとなれば、兄は
どんな手段に訴えるかわかったものではなく、ダンテの手に負えぬようになるのは目に見えて
いるからだ。
元より、兄の言動をダンテが抑止することは不可能なのだけれども。悪足掻きであることは、
よくわかっているのだけれども。
手首をつかむ兄の手に力がこもった気がして、ダンテは喉を震わせた。
「やっ……いやだ、離せよ!」
無論、兄の手は外れやしない。むしろ逃がさぬとばかりに、ぎりぎりと締められる。かなり
痛いが、それ以上にダンテは逼迫していた。早く逃げなければ――
逃亡手段を必死に思案するダンテ。その息の触れるほど間近に、すぅ、と兄が顔を寄せた。息と、
視線が絡む。兄の頬には、ゆるりとした微笑み。
「俺が、」
ことさらゆっくりと、兄が一語一語噛み砕くように囁きかける。それはまったく、ろくな言葉では
なかった。
「おまえを逃がしてやると思うか……?」
悪魔の囁き。まさにその言葉がふさわしいとダンテは思った。と同時に、逃げ道など始めから
なかったのだとわかり、絶望に見舞われる。――そもそも、ダンテのために逃げ道を作ってくれる
ほど、兄は優しくはない。基本的に、兄は悪魔だ。人間と悪魔とのハーフという実質的なことでは
なく、その本質が。
手首に巻きついたままの手は、鎖のようだとダンテは思う。自分は虜囚か。違う、ときっぱり
反論できぬあたり、情けなくもあり、しかし仕方ないと諦めている自分がいるのも確かなのだ。
(逃げられない。――逃げやしない、のに)
本気で兄から逃げることは、ダンテはしない。無論、兄の妙な趣味に付き合わされるのは嫌だ。
それは逃げたいと思うし、可能であればすぐにも逃げ出す準備はできている。
しかし、気持ちは。
――心は。
その後、ダンテの嫌な予感はその通りの結果となり――兄は至極満足そうな表情でもって夕飯の
支度にかかった。問題の最中のことを、ダンテは詳しくは語らない。語りたくない、と表現すべき
だろう。思い出したくないことを、自ら語ろうと思う物好きはおるまい。
が、その数日後、ダンテは否応なく思い出さねばならぬ事態へ追い込まれることとなる。
囚われている。もう、ずっと。
諦めるよりないほど以前から、彼は兄に囚われていて――そのことを、確かに享受している
自身がいる。
だから。と言ってしまうのは実に癪なのだけれども。事実を受け入れられぬほど、彼は勇気のない
人間ではなく。けれども、けれども――
答えはすでに、目の前にあるから。
少しばかり目をそらして、遠回りをして、寄り道をして、気付かぬふりをしたいから。
あと、少し。
もう少しだけ、横暴な兄に振り回される、哀れな弟でいさせてほしいと、思う。
でも、と、思う。
弟の裸身を写真に残し、あまつさえ壁に飾る(それもほんの一部でないしかない、という要らぬ
情報をくれる)兄は、やはり嫌だと思わずにはおれず。
今日も、しなやかな肢体をさらした銀髪碧眼の青年が、不機嫌そうにどこともつかぬ中空を
睨んでいる。
思い立って書いたものの、過去に書いたことがある気がしてならない…
強制撮影会の際、本番までやったかどうかはご妄想にお任せいたします(逃)