蒼檻オリ

――――紅格子コウシ












それはおそらく、理解の範疇であったのだろう。納得がいくかどうかは別問題としても、 理解ができぬことではなかったはずである。
が、それも今となってはもう遅い。

こぼれ落ちた水は、もはや掌には返らない。

過ぎ去った時間は、どうあっても巻き戻すことはできぬのだ。






彼はよく、話をしたがった。
無口、というよりも愛想がないのだと自覚している自分に、自ら話をしようとする物好きは およそ彼ぐらいのものだった。他は、良くても少し話しただけで嫌な顔をしてよそへいく。 それを引き止めようとはしなかったし、煩わしいものがいなくなって清々すらしていた。
冷酷。自分には似合いの言葉だ。侮蔑の言葉とも思わない。それで誰もが離れていくならば、 願ってもないことだった。

彼は、そんな自分のそばについて離れぬ唯一の存在だった。双子であるから、離れるも何もないと 思っていた。当然、と思っていたかどうかは判らない。彼はいつもかたわらにいた。 ただそれだけだ。
特筆すべき、特別なことではない。






きょうだい、とは肉親よりも血の繋がりの濃いいきものであると、少なくとも自分はそのように 思う。ただし、似る似ないはまた別問題だ。
彼とは、まるで正反対と自他ともに認めるほどに似ているところがない。いかに双子であろう とも、似ておらねばならぬ道理はないというわけだ。

血の繋がった他者。
切っても切れぬ縁。

それを切ろうとしたことが、あるいは誤りの始まりだったのだろうか。








「何、してる」

記憶よりも低く、静かな声音は、しかしそれ以上に静まり返った部屋によく響いた。男はちろりと 視線をそちらへやり、口許にあるかなしかの笑みをはく。
声をかけたのは、自分よりもいくぶん年嵩の男だ。歳を食うほどに白さを増した銀髪が、電灯の 黄味がかった光をてらてらと弾いている。その膚の白さもあって、薄暗い場所で彼と遭遇すれば、 何か亡霊でも見たように思うかもしれない。

「何をしているように見える」

疑問に疑問で返せば、彼は眉間に皺を寄せて押し黙った。考えるのも、答えるのも面倒になったに 違いない。男はわずかに苛立ちを覚えるが、飲み込むことにした。 彼の性質は、少しばかり特異なのだと自身に言い聞かせる。

「剣の手入れだ」

答えを投げてやると、彼は一層眉をしかめた。無理もない。彼の目には、剣で自らの掌を斬って いるようにしか見えないはずで、いかにも異様な光景だ。手入れをしているようには、 まずもって見えないだろう。

「血で汚れたものは、血によってしか拭えない。そうしてまた、血に染まる」

あまり覚えていないが、彼の前で剣の手入れをしたことは今までなかったようだ。ずっと以前は、 そもそもこんな手入れの手段は取っていなかったのだから、なおさらである。

ある時、気付いたのだ。この剣は血を吸うことによってその輝きを増すことに。

疑わしげな視線をぶつけてくる彼に、男は肩をすくめて見せた。嘘は言っていないし、彼に嘘は 吐かない。これは男の不文律だ。今まで一度たりとも、彼を謀ったことなどない。
彼はじっとこちらを見つめ、やがてついと視線を外した。眉間の皺が消えていることを、男は 目敏く見て取った。納得したのか――否、すべて面倒になっただけだろう。

「、……」

彼は元から、このような無関心な性格をしていたのではない。元はひどく好奇心が強く、我も 強かった。ある意味で扱いやすいたちで、同時に何を考えているか判りやすくもあった。
今は、何かにつけて判らぬことが増えたがゆえに、苛立つことが多い。

血はすぐに止まる。自己治癒能力が人間の比ではないため、多少の傷はすぐに痕も残さず塞がって しまう。
父の形見であるしなやかに沿った片刃の剣は、細い刀身を美しくも妖しく輝かせている。 やはりこの血が好みであるらしい。人と悪魔の血が混ざった、呪わしい血。ただし自分の血を 用いるのは、あくまで代用でしかない。この剣がもっとも好むのは、男ではなくもう一人の血だ。 そのことにはっきりと気付いたのは、もはや進むことも退くこともできぬ極限の状況でのこと だったが。

それは、今は置く。

昔とはすっかり変わり果てた彼の、水か酒でも求めてか冷蔵庫へ近寄る背中を眺めやり、男は剣を 鞘に納めた。間もなく、それは跡形もなく姿を消す。躰の一部と言って過言ではない剣は、男の 意志一つで現れ、消えもする。煩わしいことを好まぬ男にとって、これほど似合いの 得物はない。
男がソファーから立ち上がると、気配で察したらしい彼がちろりとこちらへ視線を呉れた。 無意識であるに違いないが、流し目のようなそれは、やけになまめかしい。年嵩であると いうだけで、同じ人物でこうも違いの出るものだろうか。男の知る彼にも魅力はあったが、 この彼とは比にならない。少しやつれたような雰囲気が、彼に言いようのない色香を与えて いるのか、どうか。

(これで、)

男を誑かすのだ。彼は。
この容姿に加え、独り身であることを深読みして、彼に近付こうとする男色好みの輩は 少なくないだろう。それらを、彼がどう捌いているか男は知らない。いちいち追い払うことすら 面倒臭がって、来る者拒まずという可能性もなきにしもあらずだ。考えると、やはり苛立って くる。

彼は冷蔵庫から、酒であろう瓶を取り出した。すでに開いていたらしい栓を指で抜き、そのまま 口をつける。男は眉を顰めた。
油断をすると、彼はしばしば食事を抜く。だから痩せる一方なのだ。男が苦言を言うと、彼は 言われるまで気付かなかったとばかりにきょとんとしていた。自分自身のことに、まるで興味が ないのだ。栄養不足で倒れようが、そのまま死んでしまおうが、彼にとってはどうでもいいことで あるらしい。
苛立ちはいや増す。

その躰はお前のものではない。死を良しとするなど、とんでもないことだ。

彼の生死いのちは自分が握っている。男はそう思って疑わない。

「ダンテ、」

名を、呼ばわる。唯一の同種。双子の、弟の名を。
彼はゆるりとこちらを向く。亡霊を思わせる、静かな動作だ。気付けば、彼は息をすることを やめているかもしれない。そうはさせじと、男は彼の意識を自分へ引き寄せる。

お前は俺のものだ。

何度も繰り返した言葉が、しかしなぜか舌には乗らず、ただ脳裏をよぎって消えた。







所有されることには、もう、疲れてしまった。





名を呼んでおきながら、男は何をのたまうでもなくこちらを見つめてくる。居心地が悪い。
剣の手入れとやらは終わったらしく、男の手の内にはすでに何ものも見当たらない。 “相変わらず”便利な凶器だと、彼は思ったが口には出さなかった。過去の記憶は、でき得る限り 掘り起こさぬようにしている。もしそれをして、過去へ立ち返ることにはなりたくなかった。

もう、疲れたのだ。
思い出にひたることも、悔やむことにも。

今はただただ、息をしているだけで充分だ。時折それすら忘れてしまうこともあるほど、何に 対しても意義を感じない。男には、そんな自分の生き方が気に食わぬようである。苦言を吐く ことは少なくても、その視線は多弁だ。昔は男の思考を読むなど、視線からも不可能であったと いうのに、奇妙なものだ。

男の視線はいつも強い。縛り付けるようだと、思う。実際男は、彼を縛り、己だけのものと 戒めようとする。そのための行為は何度も受けた。しかし彼は屈さない。屈するほど、若くも ない。
今さら、なのだ。
長い年月の間に、彼はすでにこの世のすべてを諦めている。それがまた、男の神経を逆撫で するのだとは、よく判っているのだけれども。それこそ、今さら、だ。

仮に、もう十年早かったなら。
そう思わずにおれぬ自身を、彼は侮蔑する。過ぎ去った時は決して元には戻せぬのだと、誰よりも よく知っているのは他でもない自分なのだから。

(くだらねぇ)

毒づくのは、若さゆえに無謀で愚かであったかつての自分。

「おまえは、」

男が重い口を開く。紡がれる声音は、記憶の奥底に響くそれよりも、いくらか低い。それが彼を 少なからず戸惑わせ、同時に心を冷えさせる。これは兄ではないのだと、全く別人なのだと 認識し――落胆、するがゆえに。
男はなかなか言葉を紡ごうとしない。焦れる、ということは彼には無縁だが、じっと待つという 行為さえも無縁であるはずだった。しかし今は、男の言葉を待っている。なぜか。理由は知って いても認知してはならない。彼はもう、考えることにすら疲れを覚える。







待っている。男は明らかにそれを見て取り、何か新鮮なものを感じた。
無関心な彼が見せた、初めての表情――と言えるほどのものではないが――かもしれない。

男は魅入った。自身が彼を凝視していることに気付かず、言葉を紡ごうとした唇はそのままに、 彼をただ見つめた。
それは、かつての彼を――自分との会話を常に求めていた彼を、朧気ながら思い起こさせる もので。
懐かしくあり、そして、

「……ダンテ、」

知らず、弟の名を呟いていた。
いや、意図、したのだろうと、思う。
けっして口には出さぬと決めた、ひとつの言葉を吐かぬために。







名だ。

有り得ぬほど――実際には数分もない――待って、待った結果耳に届いた言葉は何ら変哲のない 自身の名であった。しかしその瞬間、胸に沸いたものは昂揚であったのか、それとも落胆で あったのか、彼には判別がつけられない。それほどに、彼は自身のことに疎くなってしまって いる。
もし落胆しているとすれば、そんな自身に対するそれかもしれぬ。――べつの、違った言葉を 期待していたという可能性もあるが。
男は、脳で考えて言葉を紡いだのではないらしい。何かためらうように唇を閉じ、掌で覆って しまった。まずいことを口にした、いや、しそうになった、そんなふうに彼の硝子玉の瞳には 映った。

珍しい。そう思ったのが先か、後のことか。間を置かず、彼もまた口を塞ぐことになる。唇が、 まったく意志に沿わぬ言葉を発した直後に。

「バージル、……」

ただし、男のように自らの掌で、ということではなく――食らいつくような荒々しい口付けが、 彼のかすかな息すらも飲み込んでいく。
彼は抗うことをせず、しかしいつものように諦観もあらわに意識を閉じるのでもなく。無意識に、 応じていた。







男は驚き、しかし躰を離してしまうことはしなかった。彼が応えた。それはある種、奇跡である。 本来ならば当たり前でなければならぬことを、奇跡と讃えるなどまったくおかしなことだが、 しかし。

男は彼との口付けに、半ば酔った。

まったく、不思議だ。もう何度躰を重ねたか分からぬ(犯した、と言ったほうが正しいだろうか)と いうのに、たかが口付けひとつがやけに新鮮なものに思えるなどと。
不思議で、そして馬鹿馬鹿しくもある。性に目覚め始めた思春期の餓鬼でもあるまいに。なぜ、 こんなにも。





鼓動が、うるさくてならない。





思えば単純なことであったのだ。他者を理解するのに複雑な言葉など必要ではないのだから。 だが簡単なものを難解なものへ変化させ、自ら迷路へ迷い込むのは愚かな人間の特徴と言える かもしれぬ。自身もまた、その例に漏れないというわけだ。

彼はいつもかたわらにいた。それは自身を取り巻く空気と同じく、当たり前のことだった。 なくなる、いなくなるわけがないと、意識せず確信していた。それが、愚かさの始まりだとも 知らず。







大事ななにかをなくして初めて、人は、それが自分になくてはならぬものであったことを知る。 肝要であるのは、そこから何を学ぶのか。何を思うのか。これから先、いかにして大事なものを 守るのかということ。







この世に唯一のものを失った男は、その亡骸を抱き何を学んだのか。――何を思ったのか。 何が変わったのか。







その時――違う土地、違う時間、ふたりはたしかに、同じ涙を流していた。



















戻。


リクエスト第…6弾、蒼檻でした。
誰だこいつら? と思われても、そっと胸にしまっておきましょう。
それが大人の品格というものです(違)。

こういう仕上がりになりましたが、リクくださった方のみお受け取りくださいませ。
遅くなりまして申し訳ありませんでした。


[09/11/15]