風彩
白い翼に風を孕ませ、優雅に滑空する大きな鳥――その影を、彼は地上から見上げている。
飛ぶ、というのはいったいどんな心地なのか、翼を持たぬ人間には判らぬ感覚だ。むろん、
文明の利器を駆使すれば空を飛ぶことは可能だが、鳥のように舞うことは不可能だ。ただ
翼あるものを羨むことしかできない。
彼の背にも翼などなく、だからこそ地上にいて、空を旋回する影を見上げるばかりなのだ。
「良いよなぁ……」
思わずこぼれた呟きに、上空の影がぴくりと反応したような気がしたが、はっきりとは判らない。
さらに上空からの光を背負っている鳥の姿は、地上からは黒い影にしか見えないのだ。しかし
はっきりとしているのは、影が徐々に大きくなっていることだろう。地上に降りるつもりなのか。
彼は試しに、腕にタオルを巻き付け影に向けて差し出した。間もなく、大柄な鳥がその腕に翼を
休めた。白い翼の美しい、しかし顔立ち――と表現して良いものかは知らないが――は極めて
醜悪だ。
まず、鳥であるはずなのに、くちばしがない。猿に似た灰色の顔――片方の目は醜く潰れており、
残った隻眼は血のように紅い――と胴体に、何を間違ったのか純白の翼が生えているのである。
両の脚は鳥のものだが、猛禽のそれよりも太く、兇悪的とすら言えるくねった鉤爪を彼の腕に
ひっかけている。
タオルごときで防ぐことのできるような爪ではあるまいに、彼は痛そうな素振りもない。
それはそのはずで、鉤爪は彼の膚には到っていないのだ。なぜかは、この奇妙な鳥にしか
判らぬことだ。
「もう終わりか?」
空の散歩のことを指して、彼が尋ねた。鳥に、である。動物に話し掛ける人間はそう少なくない
だろうが、彼の場合は少し違った。いらえがあることを知っているのだ。
「そんなところだ」
いかにも素っ気ない返答だが、彼は気にしたふうもなく「ふぅん」と呟く。
「そんじゃ、アイスでも喰うか」
時間は午後五時過ぎ。間食をするには少し遅い。いつもならば渋面を作り小言を言う人間が
いるのだが、今日はその心配がないのだ。彼が鬼のいぬ間に羽を伸ばそうと考えているのか
どうか。醜い容姿の鳥は、我関せずとばかりにうっそりと目を閉じている。
今夜一晩、バージルは不在だ。
ほとんどの依頼を二人組で行動するのが彼らであるが、時折単独で当たることがある。今回などが
そうで、バージルの判断によりダンテは留守を預かることになったのだ。曰く、俺一人で充分だ、
と。
翌朝には戻ると言い、出かけたのは今朝方のことである。めったなことでは朝日があるうちに
起床せぬダンテだが、今朝は無理矢理にでも目を覚ましてバージルを見送った。二度寝でもして
いろ、そう言い残して発ったバージルに、ダンテは子ども扱いするなと唇を尖らせたが、睡魔には
勝てず、結局それから昼まで寝て過ごすことになった。
朝食は昼食と兼用だ。
何をするでもなく、件の鳥が空を舞うのをぼんやりと見上げていたというわけだ。我ながら無為な
時間を費やした。が、やることがないのだから仕様がない。まれにあるバージルの不在時、
留守役のダンテは毎度こんなふうだ。
「十八、」
不意に声があがり、ダンテはひょいとそちらを見た。意味不明な呟きをもらしたのは、紅い隻眼が
禍々しい鳥である。
「なんだよ?」
あちらを向いたままの鳥が、ため息、とまたも意味の判らぬことを言った。ダンテは首をかしげ、
なんだよ、ともう一度言って眉根を寄せた。
鳥が、ちろりとこちらを一瞥する。
「……、無意識か……」
ため息混じりの呟きに、ますます意味が判らなくなるダンテ。鳥はもそりと翼を動かし、
ソファーの背凭れからダンテの肩へと移動した。脚でちょんちょんと歩かないのは、何かの
こだわりなのか、どうか。そういえばそんな姿を見たことがないような気がする。気のせい
だろうか?
「……ンだよ?」
すねたような声になってしまったが、今から引っ込みの効くものではない。ダンテはじとりと
鳥を睨んだ。
鳥であるのはその翼だけであって、本性は魔界を棲み処とする魔獣だ。それがなぜダンテの肩に
羽を寛げているのか――話せば長いが、一言で言えば和解したのだ。ダンテと、ではなく、
バージルと、という意味合いが濃い。
その魔獣は、紅い隻眼を細めてダンテの睨みを受けている。
「手持ち無沙汰なのだろう。奴が不在のときは、いつもこうか」
奴、とはバージルのことだろう。ダンテはむっとしてそっぽを向いた。
「べつに。お前には関係ねぇだろ」
それが答えになっているとは、ダンテは気付いていない。
「ふん……」
鼻を鳴らし、鳥はそれ以降話し掛けては来なかった。追求の手を逃れたまでは良いが、唐突な
静寂にかえって居心地は悪くなってしまった。
(早く寝ちまおう)
そう決めて、ダンテは夕食もそこそこに部屋へ引き取った。潜り込むのは自分のベッドではなく、
バージルのそれである。
一時間も、経っただろうか。
ダンテは何かの物音で目が覚めた。寝ぼけ眼を手の甲でこすり、のそりと躰を起こす。何の
音だろうか。バージルが帰って来たにしては、気配が感じられない。では、何か。
物音は窓のほうから聞こえてくるらしい。コツ、コツ。小さな石をぶつけるような、音。
ダンテはベッドから抜け出し、そちらへ近寄った。と、窓の外が何やら白い。光の当たる要素は
ないはずだが……
「ベオ、」
翼ばかりが美しい、鳥の姿をした魔獣がこちらを見つめている。開けろ、と言いたいのか。
「何してるんだ?」
ぼやきながら、ダンテは窓の鍵を開けてやった。隙間から、ベオと呼ばれた鳥が部屋へ入って
くる。
「どうしたんだよ、こんな時間に?」
自分の肩にとまった鳥――ベオウルフへ、ダンテは問うた。白い翼の眩しいベオウルフは、何を
考えてのことか目を細める。
「気にするな。起こして悪かった」
殊勝なことを言うものだ。ダンテはますます不審に思ったが、実のところ睡魔はダンテの耳元に
へばりついたままなのである。眠気というものには、どんなに躰を鍛えても勝てやしない。
「むー……」
ベオウルフに促され、ダンテは腑に落ちないもののベッドへ逆戻りとなった。とにかく眠い。
兄が不在のときは眠れないこともあるのだが、今日はそのつけを払うかのように睡魔が一斉に
襲ってきている。
「横んなるから、下りろよ」
肩に大きな鉤爪を引っ掛けたままでは、横になるには障りがある。ベオウルフは無言でダンテの
肩を離れたが、そばを離れる気はないらしい。翼を幾度かはばたかせ、ベッドヘッドにひょいと
鉤爪を引っ掛けた。今日はそこで眠るつもりなのだろうか。
どこで眠ろうとベオウルフの自由だ。ダンテはシーツにもぐり、ふわ、と大きなあくびをした。
「おやすみ、」
それを言ったのは自分だったか、ベオウルフだったか、それすらも判然とせぬほど睡魔はダンテを
包囲していた。
うなされている。
自分のことではもちろんない。先刻、吸い込まれるように眠った彼のことだ。
ちらと視線をやれば、眉に皺を寄せて唇を引き結んでいる。額に浮いた汗が、よろしくはないの
だろう夢の片鱗を思わせる。
あるやなしか判らぬ肩をすくめ、呟く。面倒な生き物だ、と。人間ほど狡猾で賢しらな生き物は、
魔界にすらいないというのに。その弊害とでも言えば良いのか、人間は己の感情や思考に囚われ
すぎるきらいがある。
自分なら、と、思う。悪魔は本能に忠実だ。腹が空けば殺し、喰らいつく。人間のように面倒は
手間はかからない。しかしこの発想がそもそも、人間にかかわりすぎた証でもあった。自分は
思考に嵌まりすぎている。
彼にかかわったのがそもそもの間違いだったのだろう。なぜか拾った命を、こんなふうに使う
ことになるとは思ってもみなかった。
自身に手酷い凌辱を施した男を、こうして傍らに置こうとする彼の思考は、まるで
理解できない。
ベッドヘッドから、鉤爪を外して翼を一掻き。まばゆい光がほんの一瞬、室内を包む。彼は目を
覚まさない。悪夢をみているわりに、眠りはさほど浅くないようだ。
「面倒な生き物だ」
ため息を一つ、彼の傍らへ逞しい体躯を横たえた。
すぐそばに別の体温が出現したことに、眠る彼はまったく疑問を抱かなかったらしい。むしろ
無意識にすり寄ってすら来て、そのいかにも無防備な姿が男を苦笑させた。
笑う、という行為は悪魔にとってまるで縁のない行為である。慾に関わる喜怒はあっても、
人間のような喜怒哀楽は悪魔にはない。では、今笑ったのはなぜか。
彼を見つめている時間が、あまりにも長いせいだ。
よく笑う彼は、時折翳のある表情をすることがある。今日などがそうだった。
彼の寝顔を見下ろし、今朝からのことを思い返してみる。ずっと、彼は無理に笑っていたように
思う。理由はおそらく双子の兄が不在だからだ。彼がいかに兄に依存しているかは、以前から
知っていたことである。
本当に面倒ないきものだ。
だから、なのかもしれない。
子猫が母猫に乳を乞うようにすり寄ってくる、自分と比べれば小さく細く、白い彼を。小さからず
想うこの感情の名は――。
無意識にか、意識してか、自分でも判らない。が、手は確かに彼の頬を撫ぜ、背中へ流れ、
彼を自分の下へ組み敷いていた。
早く戻ってやらねば。
バージルはその一心――ではなかったものの、帰路を急いでいた。事務所を兼ねた自宅には、
双子の弟を一人残している。今回はバージル単独で仕事にあたったためだ。その程、安い依頼で
あった。
翌朝に帰る、と弟には伝えてある。自宅を出たのは今朝だ。現在時刻は日付が変わって
一時間ほどだが、弟はおとなしく自分の帰りを待っているだろうか。
弟の自分への依存を、バージルはよく知っている。一日不在にするだけでも、弟は堪えられるか
どうかというほどに弱い。悪魔と対峙するときとは、人格が変わってしまうかのような豹変ぶり
なのだ。
しかしその変貌を、バージルは好んでもいる。彼には自分しかいないのだと、弱った弟の姿を
見るたびに確認できるからだ。
ただ、最近は少々面白くない思いをしているバージルである。理由は、弟に乞われたため
致し方なく置いてやっている獣の存在だ。
純白の翼を生やした醜悪な顔立ちの鳥の姿をしているが、意志によって人間の姿を取ることもでき、
魔獣の本性を持つ。以前、弟を凌辱されたことは忘れようもない。あれほどの屈辱をバージルは
味わったことはないし、それは弟も同じだとバージルは思っていた。が、弟はあの魔獣に馴れた。
それがバージルには理解できず、憎しみすら覚えるのだ。
ここしばらくはおとなしくしているあの魔獣だが、いつまた本性を表すか判ったものではない。
今夜は、それを試す意味を含めてバージル単独で仕事にあたったのだった。もしものことが
あれば、今度こそあの魔獣を屠ってやろうというのだ。
弟を餌に使うということには、さしたる抵抗のないバージルである。弟が再び魔獣の餌食になる
可能性もあるわけだが、自分がそうなるよう仕向けたというだけで、怒りも憎しみも沸いて
こないのである。そこが、バージルの一種奇妙なところだ。
心地好い。
ダンテはふわふわとした感覚の中を漂っている。空を舞う心地とはこんなふうだろうか。
ふわふわ、ふわふわ。とてもいい気持ちだ。
彼がうなされるのをやめた。悪夢はいずこかへ去ったようだ。自分の行動がそれを促したのか、
どうか。ベオウルフには判らないが、彼の安らかな寝顔を見ればどちらでも良いことである。
ベオウルフは、彼を横向きに膝に抱きかかえ、ベッドヘッドに背を凭せかけている。彼の首筋には
ぷつりと紅い点が二つ――いや、四つ。それはベオウルフが、彼を組み敷いたときにつけた
傷だった。
彼の血は甘い。が、それを味わうためだけに傷を作ったのではなかった。小さな、ほんの
ささやかな実験である。それ以上のことは、彼にはしていない。無防備な彼を犯すことは
簡単だったが、あえてやめた。我慢をしたとは思っていない。
我ながら変わったものだと、思う。彼の影響力は大したものだ、とも。
「面倒だが、不快ではない」
呟きに、階下の物音がかぶさった。彼の兄が帰宅したらしい。この状況を見て、あの独占慾の塊の
ような男が何を思うか。想像するだに、面白い。
ベオウルフは眠る彼の髪に唇を押し当て、その時を待った。
バージルの自室に、やはり彼はいた。不在の夜、弟はいつもバージルのベッドにいるのだ。が、
今日は様子が違った。彼は、男の腕に抱かれその胸に頭を凭せかけて眠っている。
やはりか、とバージルは思った。好都合である。これで、心置きなくこの男を殺すことができる。
しかも、彼が知らぬうちに。
部屋の出入り口とベッドの上とで、バージルの碧眼と男の火眼がぶつかり合う。男は落ち着き
払っている。バージルに殺されることを、易々と受け入れるほど殊勝な輩ではあるまいに。
静寂を破ったのは、バージルだった。声を発したのでは、ない。閻魔刀の鯉口を切る、鋭い音に
よってだ。
男は口許に笑みをはき、言った。
「俺を斬る、か?」
それが当然の報いだ。何の疑問があろう。
「これを、犯したからか」
自分たちの間に割って入ろうとした。それだけで万死に値する。彼は自分だけのものであり、
世界には自分と彼の他に何者も入り込んではならぬのだ。
男――人に化けた魔獣はくつりと笑う。
「貴様のそれは、破滅を招くだけだ。やめておけ」
「貴様に指図されるいわれはない」
低く、バージルは恫喝した。世界は自分と彼だけで閉じているのだ。そこへ無理矢理首を
突っ込んできた愚か者に、聞く耳を持つほどバージルは寛容ではない。
魔獣は彼を抱いたまま、やはり微笑を浮かべている。その余裕が、無性に腹立たしい。
「これは、貴様が俺を殺すことを望むか? 否、だ。ならば俺は殺されてやるわけにはいかん」
おかしなことを言い、男は体勢を入れ替えてそっと彼を寝台に横たわらせた。
「手は出していない。貴様自身の目で調べてみるが良い。そうすれば少しは気も治まるだろう」
寝台から離れた男を視線で牽制しつつ、バージルは寝台に近付き彼のそばへ腰を下ろした。彼は
安らかに眠っている。その首筋に小さな傷があることに、バージルはすぐに気がついた。自分が
つけたものでは、絶対にない。
「寝かし付けるために細工せざるを得なかっただけだ」
うそぶく男を睨み付けておいて、バージルは彼の頬に掌を押し当てた。無意識に、彼がすりりと
頬を擦りつけてくる。
首筋の傷跡から目が離せない。――慾情、する。
(誰がもっともたる罪人かと問うならば、)
「答えは一つだ」
バージルは彼の寝着を荒々しく引き裂き、しかしそうしてすら目覚めぬ彼を、手荒く犯した。
男はじっと、そのさまを見つめていたようだが、バージルは気にも留めなかった。小さなことだ。
弟が我がものであることを刻み込むことのほうが、バージルにとっては大事である。
ただ気になるのは、どんなに酷く扱っても彼が目覚めぬということくらいだろうか。
久しぶりに、泥のように眠った。
ダンテは半ば覚醒したものの、目は瞑ったまま身動ぎをした。途端に、ひどい鈍痛に襲われる。
悲しいかな、覚えのありすぎる痛みだ。しかしなぜ今これに襲われているのかが判らず、ダンテは
重い瞼を持ち上げた。とにかく、現状を把握したい。
眼前、息の触れる距離に兄の顔があって思わず息を詰まらせる。近い。いや、それよりもいつ
帰宅したのだろう。いつもなら気付くというのに、ゆうべはどうかしていたらしい。
軽い混乱が落ち着いてくると、次第に頭が冴えるものだ。
腰から下の鈍痛、違和感、だるさ。総合して鑑みるに、原因はこの兄しかいない。翌朝、と
言いながら夜半に帰宅した兄は、眠っている自分を……
「っ……」
想像して、赤面する。羞恥を紛らわすように、ダンテは兄の胸元に顔を押しつけた。声を荒げて
兄を罵ることは簡単だが、兄は反省などしないであろうし、まかり間違って朝っぱらから挑まれる
ことになっては身が保たない。
泣き寝入り、というのはいかにも不満だが、兄にはまった敵わないダンテである。これが最善の
策だと、身をもってよく知っているのだ。
(うぅ、痛くて眠れねぇ……っ)
二度寝をしたい気持ちは強いというのに、痛みがそれを妨害する。何とも嫌な状態だ。しかも
犯人は心地好さそうに眠っているときた。いったい、何の嫌がらせだろう。
(馬鹿兄貴ッ!)
声を大にしたいところを我慢して、内心で叫ぶ。それがまた虚しくて、ダンテはほろりと
涙するのだった。
兄の寝顔はいかにも安らか。弟はその脇の下に丸まり、すっかり拗ねてしまっている。
白い翼の大きな猛禽が、眩しいほどの蒼い空に、ため息をひとつ。
「まったく……面倒な餓鬼だ」
リクエストもの第5弾、『彩』でベオ+バジ×ダンでした。
う、裏になれなかった…!
申し訳なさ満載の出来となってしまいましたが、
もしお気に召していただけましたら、リクくださった方のみお納めくださいませ。