奏楽
物悲しい音色――ダンテは片肘をつき、目を閉じて、哀しくも美しい旋律に耳を澄ませる。
兄は器用な人間だ。
対人間に関してはダンテのほうが上手であろうが、その他一切、兄に軍配が上がる。そのもっとも
たるものは、家事全般であろう。
料理はもちろん、掃除に洗濯――ダンテは何をしてもうまくできたためしがない。それをいつも
兄に咎められ、小言を食らうのだけれども、不得手であるものは仕様がない。兄を真似ている
つもりでも、まったく結果がついて来ない。なぜかなど、ダンテのほうが聞きたい。
兄の手と自分の手と、造作に何の違いがあるというのか。
しかし結果は結果だ。ダンテは二十歳が近付く現在に到っても、いまだに何もかもを兄に任せ
きっている。そうするのが一番の良策であると、よく判っているからだ。
ひま。
仕事もない、夕刻。夏が近付くにつれ、西日がたまらなく暑く感じるようになってきた。そんな、
来るなと呪おうが容赦なくやってくる暑さの中、ダンテはうだりながら呟いた。
動けば暑さは増す。しかし何もせずに汗をかくより、動いて汗を流すほうがましなのでは、と
近ごろ思うようになったダンテである。そんな、自身の中だけでの改革を見出したというのに、
仕事はゼロだ。しかし自分から依頼を求めることはダンテはしない。面倒な依頼が舞い込むことは
避けたいからだ。
ひま、ひま。
ぶつぶつとくさすダンテの斜め後ろでは、双子の兄が涼しい顔で分厚い本を繰っている。昨日、
図書館で借りて来た本だろう。ダンテもついていったので覚えている。が、タイトルまでは覚えて
いない。本にはまるで興味がないダンテだ。
紙のにおいで満ちた図書館へ、わざわざ兄の後ろをついて行った理由は一つ。この上なく暇だった
から――兄と離れたくなかったわけでは、断じてない。
バージルが図書館で借りたのは、分厚い本(いかにも古臭い色味をしていた)と、珍しく薄っぺらな
本の二冊だった。分厚いほうは今まさに読んでいるそれだが、薄いほうをどうしたのか、ダンテは
知らない。そういえばバージルの部屋で見た記憶もなかった。
何が載っているかなど、知るはずもない。
ひま、と再びぼやいたダンテの頭に、バージルの手がぽんと乗せられる。髪をくしゃりとやる、
その手。その長い指が好きだと思う。
髪だけでなく、いろいろなところに触れてほしくて、けれどもダンテは催促はしない。理由は
単純で、ただ恥ずかしいからだ。昔の自分ならば、もっと、などと恥じらいもなく言っている
だろうが。
ダンテはもう、子どもではない。羞恥という言葉を知ってしまった。
くるくる、髪を巻き付けては引っ張る指先。何が愉しいのかダンテには判らないけれども、いつも
兄の好きにさせている。拒むほど嫌ではないし、触れている間は、バージルは自分のことを少し
でも考えているだろうから。
不公平だと思うのはいつものこと。しかしそれは仕方のないことで、ダンテも諦めてはいる。
魔界へ墜ちることを選んだ兄を、泣き喚き無理矢理引き止めたのは自分なのだ。兄の心がこちらを
向いていなくても、それは仕様がないというもの。それでも自分を抱いてくれるのだから充分では
ないか。
「なぁ、バージル」
読書の邪魔をされることが嫌いなバージルを、ダンテはあえて呼ばわった。指先がこちらへ
向いているときは、多少呼びかけても機嫌は損ねないということを知っているからだ。
案の定、兄からは平素と変わらぬ平坦ないらえがあった。
「何だ、」
ダンテはにっこり笑って言う。
「ひま」
本当に言いたいことは、喉の奥、舌の付け根。けっして紡ぐことのできぬ言葉。
いつの間にやら眠ってしまっていたらしい。ふわふわと、宙か水面でも漂っているような
心地なのは、まだ夢の中に片足を突っ込んだままであるからか、どうか。
気持ちの良いまどろみだ。ずっとこのまま、こうしていたいと思うけれども、そうもいかぬことは
判っている。眠りの後は、いずれは目覚めねばならない。現実は少しも容赦をしてくれず、
ため息混じりに夢は醒めていくばかりだ。
(眠っていれば、)
嫌なことなど考えず、あっけらかんとしていられる。悪夢を見る可能性は否めないが、現実よりも
どれほどましか判らない。現(うつつ)は残酷だ。目を逸らすことが赦されない。それでも生きる
しかないこの世は、あまりにも残酷でありすぎる。
勝者と敗者。世の人間はすべて、そのどちらかだ。
やる瀬ないため息を吐いた彼の耳に、しばらく耳から遠ざかっていた音が滑り込んできた。
懐かしさを感じる音だ。今の今まで気付かなかったが、いつから響いているのだろう。認識して
しまえば、もはや音を拾わぬわけにはいかなくなった。
(ピアノ……?)
そう思ったが、違うようだ。ピアノほど明確な音ではなく深みのあるこれは、オルガンのもの
だろうか。
かつて、母が生きていたころ住んでいた家にあった、古いオルガン。母がたまに弾いてくれた、
あれの音によく似ているような気がする。
あのオルガンは、もう手許にはない。引っ越す際に処分してしまった。母の形見は、肌身離さず
身に着けている、不思議な色合いのアミュレットだけだ。――実際彼には棄てがたかったが、
兄を説き伏せることができなかったのだ。オルガンは彼の知らぬ間に姿を消していた。
あれとは、別のオルガンだろう。しかし佳い音だ。彼は目を閉じ、聞き入った。誰が弾いて
いるのか。夢か現かも判らぬのだから、彼に知り得るわけもない。が、――
(知ってる、曲)
時折彼が口ずさむ曲に、あまりにも似ている。いや、同じ曲に違いない。母がよく、彼に聞かせて
くれた歌だ。忘れるはずがない。
(かあさん)
母がそこにいるのか。優しく美しかった母が、大好きだった母が、そこに。
嗚呼、彼はため息を吐く。
これは夢なのだ。でなければ、母がいる理由がつかない。母は、あの日亡くなったのだから。
この世にはもう存在しない人なのだから。
「かあ、さ……」
呟きとともに、彼は目覚めた。哀しい覚醒だ。母がここにいれば、悪い夢を見たのかと言って
頬を撫ぜてくれただろうに。
こぼれそうになる涙をぐっと飲み込み、ダンテは深々としたため息を一つこぼした。くよくよして
も始まらない。自分はもう子どもではないのだ。いつまでも引きずっていては、優しかったが
厳しくもあった母に叱られてしまう。
「あーあ……、……?」
落ち着いてみると、何か聴覚を震わせるものがある。ダンテは首をかしげた。何の音だ?
そして兄の姿がないことに気付く。自分がリビングのソファーで寝こけていたことにも。
何か記憶をくすぐる聞き慣れぬ音と、どこかへ言ってしまった兄。
ダンテはソファーから立ち上がり、兄を探すことにした。寝起きで鈍った動作でリビングを出、
階段の上へのろのろと視線をやる。ジュークボックスとは明らかに異なる音色は、事務所の
ほうから聞こえてくるようだ。そこに何があるのか。二階には兄の気配を感じられぬが、
もしかすればこの音色と兄とはともにいるのかもしれない。
そうっと、ダンテは事務所へ足を向けた。
知っている音だ。ダンテは近付くにつれ、そう確信を抱いた。この音。先刻夢で聞いたあの音では
ないだろうか。音色の違いを聞き分けられるほど、この楽器を知っているわけではないけれど、
ダンテの胸はなぜだかどきどきと高鳴っている。
むろん、弾き手は母ではない。そんな期待を抱くほどダンテは幼くなかった。
事務所へ続く扉を、ダンテはいつになく慎重に開けた。
音色が、いっそう強くなる。それはいつか聴いた、懐かしい音色。
ダンテがそぅっと扉から顔を覗かせたことに、バージルはすぐに気がついた。リビングを出た
あたりですでに気配を察知していたのだが、支障があるわけでもなし、捨て置いた
バージルである。
バージルの指は、ダンテが姿を見せても止まらなかった。止める理由もない。この程度のことで
羞恥を覚えるほど、バージルは多感ではない。聴きたければ聴けば良いと思っている。
ダンテは、おそらくこれの音色が好きであろうから。
何をしているのか、という声もなく、ダンテはぼんやりしたまま気に入りの机へ近寄り、椅子に
腰を下ろした。こちらをじっと見つめてくる視線には、まだ困惑が含まれているようだが、
あえて沈黙を守っているのは、そうすることで音色が途切れると思っているからだろうか。
判らないが、静かにしているならバージルには願ってもないことだ。ふだんのダンテは、
姦しすぎる。
バージルはあるかなしかの笑みを頬に浮かべ、鍵盤を繰る。弾いているものは、古いオルガンだ。
数日前、骨董屋でこのオルガンを見つけた。値は張ったが、高い買い物だとは思わなかった。
ダンテが気に入るかもしれない。
そう考えて購入を決めたのかどうか、バージルはよく覚えていないが。
昔住んでいた家にあったそれと、よく似た音を紡ぐオルガン。古さは同じであるかもしれない。
バージルにとっても、嫌いではない音色だ。
奏でているのは、やはり懐かしい曲である。
母がよくダンテに聴かせていた、子守歌代わりの歌。バージルはダンテのようにぐずることが
なかったから、この歌でなだめられたことはないけれども、記憶にはしっかりと残っていた。
時折、ダンテが口ずさんでいることもあるから、忘れるはずもない。ただしダンテの喉が紡いだ
それは、何かしら音が外れているようなのだが。
バージルがオルガンを弾けるという事実を、ダンテは知らないかもしれない。こうして目の前で
弾いて見せるのは初めてであるし、きちんと弾いたことも今までなかったように思う。指の運び
は、母が弾くさまを見て覚えた。練習などしたことはないが、案外簡単に弾けるものらしい。
視界の隅ではダンテが、瞼を閉じて音色だけに神経を集中させている。聞き入るほど巧いか
どうかは自分では判らないが、こういうのもたまには良いとバージルは思う。
静かな空間に、オルガンの艶めいた音色。
自分と弟の息遣いと心臓の音すらも解け合うように、しっとりと満ちる。
この音色に乗せたならば、けっして紡ぐことのできぬあの言葉も、あるいは囁くことができる
だろうか。
なぜオルガンがここにあるのだとか、なぜバージルが弾けるのかとか、訊きたいことはたくさん
あったが、ダンテはあえて何も訊かずにただ耳を澄ました。美しい、とはあまり使ったことのない
表現であるが、この音色には文句なしに当てはまる。バージルが奏でているからこそなのか、
どうか。ギターならば多少かじっているが、基本的には音楽に疎いダンテには判らない。
ただ、嫌いではないと思う。さすがはバージルだ。何でもそつなくこなすたちは、こんな
ところでも遺憾なく発揮されるものらしい。音色そのものが静かすぎるきらいはあるが、
それも良さであろう。いつまでも、聴いていたいと思う。
バージルが弾いて聴かせてくれるのならば。何時間でも、ダンテはいつもの姦しさを封印し、
ただじっと耳を澄ましていられるだろう。
この空間が二人だけのものである限りは。
けっして紡ぐわけにはいかぬ言葉を、もしも音色に乗せて囁くことができたなら――あるいは
この心も少しは軽くなるのだろうか。
(愛してる)
紡ぐことも、聞くこともできぬ、そのことばを。
リクエストもの第…4弾、『楽器兄弟』でした。
すごい省略しましたが、楽器を弾く兄と惚れ直す弟、というのが正確です。
楽器はオルガンにさせていただきました。
こういうものに出来上がりましたが…
もしお気に召していただけましたら、リクくださった方のみお納めくださいませ。