!注!
こちらは『黒い終局』分岐後の話です。
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禍雨
血のように紅い月が、天頂に近付くにつれ禍々しい輝きを増していくように、彼の双眸には
映った。
深紅色の輝きは、しかし地上には紅い光として届かない。それが不思議で、かつ惜しいように
思われた。あの紅い色を、全身余すところなく浴びたいと、強く願うことが時折あるのだ。
あかは、良い。
いのちの色だ。
生きている証がそこにある。
気付けば死んでいるのではないか、そんなふうにすら思うことのある、今この現状で。彼は、
生の証たる朱色を求めている。
馴染みの仲介屋は、馴れすぎている感が時に見受けられる。要らぬお節介を焼きたがる癖が、
この男にはある。
見ていて危なっかしい、と。以前言っていたのを思い出した。否定はしなかった。実際その
とおりだと自分も思っていたのだから、否定する理由はない。
おかしな噂があるのだと、男は言う。それは自分に関する噂であり、そうでなければこんな神妙な
顔でこちらに向かい合いはしないだろう。
面倒だ。
彼は思った。実に、面倒臭い。
手間を取られることを彼は好まない。――いや、違った。自分の興味のないことには、まるで
関心を寄せぬだけだ。煩わしいことも、興味があれば好んで首を突っ込む。そう、そうだ。
「噂、ね」
ひょいと、芝居掛かった仕種で肩を竦める。面倒だが聞いてやろうじゃないか。興味、なくも
ないぜ。そんなふうに男の目に映ったに違いない。
全体的に筋肉より脂肪が勝ちつつある男は、眉根に皺を寄せて声音を落とした。
「笑いごとじゃねぇ。……なぁ、本当にどうしちまったんだ?」
低い声音は鼓膜を心地好く揺らす。いつもこの声音で話をすれば、くそったれな仕事の依頼も
良いものに聞こえるだろうに。請ける請けないは別として。
「何が。俺がどうしたって?」
おかしなところは一つもない。ごく、自然な問いだ。
男の渋面がいっそう深くなる。本当にお節介な男だが、嫌いではない。だから彼はこの男と、
何だかんだと文句を言いながらも縁を切らずにいるのだ。彼は懐く相手を選ぶ。それは決まって、
自分をよくかわいがってくれる人物だ。
「それァ……」
男は言いさした言葉を飲み込んだ。核心に触れるべきか触れざるべきか、迷った末に後者を
選んだようである。それは賢しらか、愚かさか。それは誰にも判らない。彼自身にも。
「話はそれだけか、エンツォ? 俺は忙しいんだぜ?」
握ったままの柄の長いスプーンをくるりと回せば、エンツォ・フェリーニョは辟易したように首を
振った。
「ちっ……何が忙しいだ」
男の舌打ちなど気にも留めず、彼は自分の獲物――ストロベリー・サンデーにスプーンを突き
立てた。掘るようにアイスをすくい、口へ運ぶ。甘さと冷たさが舌に広がり、彼はにんまりと
笑った。
「旨いかよ?」
げんなりと問うエンツォに、彼は言った。
「こいつの味が判らねぇなんて、可哀想に」
“彼”ならばそう返すであろう、答えを。
肉の削げ落ちた体躯は、貧弱というよりも貧相という表現がより相応しい。骨ばかりが目立つ腕を
持ち上げ目の前にかざそうとした彼は、頭上から降る音に気付き顔を上げた。実際には、腕は
一インチも上がってはおらず、視線もわずかばかり眼球を上目にやっただけなのだけれども、
今の彼にはそれが精一杯なのだ。
狭い場所にいるという理由以上に、彼の体力は彼自身の体重を支えることすら、もはや難しく
なっていた。
ぎし、ぎし、家鳴のような音が響く。“扉”がこじ開けられようとしているのだと、彼はすぐに
気が付いた。
じっと、待つ。彼の頬には笑み。
彼を膝に抱き、ぼんやりと読書にふけることをバージルは好んでいる。その間、彼は時折身動ぎ
する程度で、ただおとなしくバージルに抱かれている。それが好ましくもあり、同時に物足り
なくもある。おとなしい人形のような彼は、自分の望んだ姿であるというのに。
人間誰しも無い物ねだりをせずにはおれないのだと、よくよく思う。自分が最たるものだとは、
あまり思わないバージルだけれども。
不満はあるが、これは一種の理想の具現だ。不満ばかりが募るわけではない。至福も、もちろん
感じている。彼は今や、文字どおりバージルだけのものだ。
バージル、と。かすかな吐息のような声が耳に届く。
「どうした?」
応じるバージルの声音は柔らかい。彼とこの関係になって以来、バージルはいつも心穏やかで、
以前のように彼をいじめ抜くということがなくなった。皮肉なものだと、自分でも思う。
いつも、いつも、彼をこんなふうに大事にしたいと思っていたというのに。
めったにバージルの読書を遮ることをせぬ彼が、硝子玉のような双眸をきょろきょろと彷徨わせて
いる。といって、その動作はいかにも緩慢だ。素早く動くほどの体力が彼にはない。
バージルは彼の躰をちょっと倒してやり、覗き込むように彼と視線を合わせた。硝子玉が収縮し、
焦点が合う。
(バージル……バージル……)
力のない声音は、ただバージルの名を紡ぐばかりで、他の何をも語ろうとはしない。まるで、
バージルという言葉以外の語彙すべてを忘れてしまったかのようだ。
有り得ぬことではない、とバージルは思う。彼と触れ合う人間――多少、語弊はあるが――は
バージルだけで、他の誰とも口を利くことをしないのだ。そもそもバージルは、言葉を多く
用いない。それに加えて彼の衰弱ぶりだ。声帯が言葉を忘れてしまったとて、不思議はない。
不要だとも、思うことであるし。
バージルはふと、彼の躰がひどく冷えていることに気が付いた。季節は初夏だ。寒さを覚える
時季ではないが、季節というものとは無縁にある彼だ。常識を問うには様々な事象が支障を
きたす。
「風呂に入れてやる。良いな?」
彼はゆるゆると頷き、バージルのまとうシャツの裾をちょっと握った。実際には力の入らぬ指先が、
ちろりとシャツに触れた程度にしか見えないのだけれども。
骨に直接皮を貼ったような、貧相な躰。いきすぎた肌の白さはいっそ透明に近く、細くなった
血管の一本一本までもよく観察できる。それはそれは気味の悪いありさまだ。服を脱いで
しまうと、よけいに見栄えが悪くなる。
そんな彼の尋常ではない痩躯に、バージルは何を思って触れているのだろう。
バージルに触れられることは昔から大好きであるし、それは今もこれからも変わらない。が、
今この現状にあって、触り心地はどんなにか贔屓目に見ても悪いとしか言えぬだろう。こんな
ものに触れて、バージルは毎日何を思うか。やはり、落胆に違いない。
以前の感触を思い出し、どうしたものかと思案げにため息を吐くのだ。
あぁ、ほら、また。
彼の躰を泡で包む作業に没頭しているように見えて、バージルは違うことを考えているのだろう。
ふ、と時折吐き出される息が彼の頬や肩にかかる。それがどんな類の吐息であるか、彼は判りたく
ないと思う。良いものでは、けっしてないだろうから。
シャワーのコックをひねると、ぬるめの湯が彼に降り注ぐ。そういえば、久しく雨を浴びて
いない――雨を最後に見た記憶すら、相当昔のような気がする。雨のにおいもよく思い出せぬ
くらいだ。
暖かい人工的な雨は骸骨のような彼の全身を洗い流し、その間バージルは彼に傷を作らぬよう
優しく肌を撫ぜる。張りの弱い皮膚は、軽い摩擦で赤くなってしまうほど弱い。
もう慣れたと思っていた。バージルがそばにいてくれるなら、自分はどんな形でも構わないと、
思い込んでいた。
そうしなければならなかったのだ。
自分の、いや、それ以上に、双子の兄のために。
硝子玉の眼球から、湯とは別の透明なものが次から次へとこぼれ落ちていく。なぜか。
バージルには判らない。何が彼を哀しませているのか、涙を流させているのか、バージルには
まるで見当がつかなかった。
彼の肌を撫ぜているこの手に、少しばかり力が入りすぎていたのだろうか。いや、痛みではないに
違いない。以前誤って肌を傷付けてしまったとき、彼はけっして涙など流さなかった。眉をそっと
寄せたのみで、呻くことすらしなかったのだ。
では、何が。
バージルはしかし、なぜ泣いているのかと彼に問うことはしなかった。彼が、自らの意志によって
涙を流しているようには見えなかったからだ。理由を聞けば、おそらく彼を狼狽させてしまう。
最悪、現状を覆すことにでも繋がるやもしれぬ。
(そうはさせない)
彼はいつも、いつまでもこの腕の中にいなければならないのだ。尋常ではなく痩せ細って
しまっても、言葉を忘れてしまっても、何があろうとも、ここに。
(逃がしはしない)
バージルは彼の濡れそぼった髪を梳き、微笑する。
「おまえは俺のものだ。誰にも渡さない」
たとえその“誰か”が彼自身であったとしても。
だから、狭く暗い匣の中に閉じ込める。
そして時折匣から取り出しては、愛でる。
気に入りのたからもののように、慎重に、優しく。
これは、自分だけのものだから。
きれいに微笑んだバージルの、そのおもてをじっと見つめ、彼もまたふわりと笑う。それは
以前の、快濶に生きていたころのものとは比べ物にならぬほど弱々しい。
精一杯の微笑を見る者はバージルしかおらず、同時に彼の世界にはこの男のみ存在している。
他は、棄てた。何もかもを棄て、彼は匣に閉じこもる。
バージルは日に一度だけ彼を匣から出してくれる。ほとんどものを食べることのできなくなった
口に食べ物を運び、水は口移しで直接飲ませ、風呂に入れ、いかにもかいがいしく世話をする。
彼はそれをすべて受け入れている。拒絶する理由も意味もない。彼はバージルのものなのだから、
バージルが自分をどう扱おうが自由である。
自分に、意志はいらない。
ただバージルのため、彼は狂ったのだ。理由をバージルに押し付けるつもりは彼にはない。
これは彼の、最後の意志だ。バージルにもどうこうできるものではない。
狂って、ようやくバージルのものになることができた。そう、彼は信じている。
涙を流していることには気付かぬまま。
“狂う”ことによりまとまりを欠いた思考の中にたゆたううちに、彼はバージルに抱かれ浴室から
出ていた。たっぷり余裕のあるシャツを彼に着せるバージルの手は、指は、ひどく白い。
夜はバージルのベッドで眠る。いつも、そうだ。陽が昇り、辺りがすっかり明るくなるころ、
彼はまた匣の中。蓋にはきちんと釘が打ち付けられる。そんな手間を、バージルは毎日かける。
なぜそうも、とは、彼は思わない。疑問を抱くほどの思考を持たないからだ。
バージルのなすがまま――ただ、息をしていれば良いだけ。
匣の外はやはり匣。
彼が匣から出ることはない。
たとえ今、息が止まったとしても。
彼は今日も、これから先も、ずっと、
――匣の、中。
銀色の青年は緋色の長外套を羽織り、黒鍵と白鍵の名を持つ銃を携え、人を食ったように、
嗤う。
青年の名は、“ダンテ”――変わり者の便利屋。
やっぱり、気持ちは兄→←弟が良い。
[09/06/12]