鉄屑
いつもの喧嘩、だ。
言ってしまえばあまりにもくだらない喧嘩。はたから見れば、そう。
彼もそのことはよく判っているし、自身をして馬鹿だとも思う。何より馬鹿らしいのは、
相手には喧嘩をしたという認識も、己が原因だという自覚もないことだ。
苛々する。
唇を噛み、ダンテはどこかのビルのてっぺんに座り込んで膝を抱えた。そんな恰好をしていると、
拗ねた子どものように見えるのだけれども、自覚はない。彼の思考は今、兄への怒りでいっぱい
だった。
兄との喧嘩は日常茶飯事のことだ。珍しくもない、いつものこと。しかし、しかしだ。
ダンテは自分の膝を抱く腕に力を込めた。苛立ちが、そうすることで消えるとは到底思えない
けれども、膝を抱いておらねば苛立つあまり暴れ出しかねない。
自制、とはいかにもダンテには似合わぬ言葉だ。しかしダンテとて、まるで我慢を知らぬわけでは
ない。母が躾にはとくに厳しかったせいか、奔放なように見えて実はそうではないダンテである。
行儀も、品も悪くない。
とは言え、兄には始終叱られてばかりなのだが。
(そうだ、アイツが悪い……)
何かにつけて厳しい兄、バージルは、ダンテの素行がいちいち気に入らぬらしい。あれはするな
これはこうしろ。耳に幾重にもたこができるほど、毎日毎日何かしら叱ってくれる。いい加減、
うんざりもしようといいものだ。
(でも、)
なじる傍ら、ダンテは思う。
自分も確かに悪いのだ。いや、言ってしまえば兄には何の否もないのだろう。ダンテがただ、
一人で勝手に拗ねているだけで。
判っていても納得はいかない。理解と納得は別ものだ。頭で理解していても、心はそれを拒絶する。
納得などしたくはないからだ。なぜならば、
(あきらめたくない、から)
自身を諦めることは今すぐにも可能だ。ダンテは自分自身を好いていないではないが、大事かと
問われれば否やと答える。だから命懸けの仕事もするし、銃弾の雨の中を丸腰で歩くこともできる。
が、兄に関しては諦めることなど不可能だ。他の何をも捨てることが可能でも、それだけは
できない。
兄についてのみ言えば、優先順位云々の問題ではないのだ。
ダンテは兄のことが大事だ。むしろ兄さえいれば良いとすら思う。面と向かって伝えることは
ないが。
(でも、バージルは)
兄は、ダンテをそういうふうに思ってくれてはいない。たとえ双子でも、ダンテと兄はまったくの
別人だ。同じことを想う保証はどこにもない。それどころか。
(だめだ……気持ち悪ぃ)
ぐるぐるとマイナス思考を働かせすぎたか、吐き気を催してダンテは口許を押さえた。考えては
駄目だと自身に言い聞かせるが、その程度でどうにかなるようならば吐き気を催すほど考え込む
ことにはならない。
だめだ、とダンテは声にはせず呟いた。何度も繰り返し呟くうち、何に対しての言葉であるのか、
自分でも判らなくなっている。
死ねば楽になる、とは、幾度も考えたこと。しかしダンテが今も生き長らえているのは、結局、
兄とともに在りたいと願っているからに違いなくて。
「ばぁじる……」
すきだ、と。囁く声は嗚咽に混じり、音にはならなかった。
とっぷり日が暮れた後、ダンテはとぼとぼと帰路に着いた。兄はダンテを迎えに来てはくれず、
腹を空かせたダンテは独り寂しく帰宅するしかなかったのだ。ダンテが勝手に家を飛び出したの
だから、当然と言えば当然のことなのだけれど。
事務所を兼ねた玄関の戸を開けると、ふわりと美味しそうな匂いが鼻腔をついた。兄はいつも
どおり、夕食の準備に忙しいようだ。
拗ねているのは、ダンテ一人。その原因が自分であるとは、兄は気付いていないのだから。
(ちぇ……)
唇を尖らせて、ダンテはリビングへ足を向けた。食欲はないし兄と顔を合わせたくもないが、
兄は怒ると何をしでかすか判らない。そちらのほうが、ダンテにはこわかった。悪魔も恐れぬ
ダンテが、だ。
「……、」
ただいま、とは言わない。兄はちらとダンテに視線をやったが、そっぽを向いているダンテは
そのことに気付かなかった。
手を洗って来いという、いつもの小言が飛んで来るかと思いきや、兄は何も言わず黙々と夕食の
準備に勤しんでいる。存在を無視されたような気がして、ダンテは鼻の頭に皺を寄せた。
馬鹿だとは自覚があるが、ぐっと堪えねば泣いてしまいそうだった。
(馬鹿兄貴)
直接には投げ付けられぬ罵りを、今日もまた喉の奥、腹の底で繰り返す。なぜ兄は判ってくれない
のか。気付けよ馬鹿。大声で罵りたい。この鈍感!
終始無言で、テーブルに皿が並べられていくのを、ダンテは膝を抱く恰好で見つめた。兄も、何も
言わない。
奇妙な沈黙の中、夕食が始まる。やはり食欲が沸かない。変わりなくフォークを動かしている
兄に、またしても恨みごとが募っていく。
(何だよ……これじゃ俺が馬鹿みたいじゃねぇか……!)
じわりと涙がにじむ。泣いては駄目だと思えば思うほど、情けなさで涙が出る。
ぐす、と洟をすすった。涙腺が緩むとそれに伴い鼻水も出る。まったく情けない有様だ。また、
ずずっと洟をすすった。
ふと、頭に何かが触れた。兄の手であると、ダンテはすぐに気付いた。
「……何」
帰ってから、初めての言葉をダンテは紡いだ。返る言葉は、こちらはこちらで素っ気がない。
「さあな」
ダンテは唇を尖らせ、何だよそれ、と兄のほうは見ずに言う。兄は何を考え、どこを見つめて
いるのか、気にはなるが見てはならない気がしたのだ。
見れば、おそらく泣いてしまう。堰を切ったように我慢が利かなくなるのは目に見えている。
先刻、目が溶けるほど泣いたばかりだというのに。
「冷める前に喰ってしまえ」
言葉ほどに、声音に冷たさはない。むしろぐずった子どもをあやすような、柔らかい響きすら
あって。
「……、……うん」
喧嘩の内にも入らぬ喧嘩だ。兄を罵りたいという気持ちは強いけれども、頭に触れる掌が
あまりにも心地好くて。耳を撫ぜる声音はひどく温かくて。
何をあんなに苛ついていたのか、急に馬鹿馬鹿しくなってしまって。
(バージルのばか)
最後に一つ罵って、ダンテはフォークに突き刺したパスタをばくりと口に放り込んだ。
一緒に買い物に行こうと思ってたのに、兄がいつの間にか先に出かけてしまってた、とか。
そんなちょっとした行き違い。
兄はダンテが何で拗ねてるか、ちゃんと気付いてると良い。