!注!
こちらは『黒い終局』分岐後の話です。
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黒歪
夜中の一人歩きは危険なのでしてはならない。男であっても、安全か否かと問えば答えは否。
二人以上人数がいても、安全であるとは言いがたい。
治安の悪さは折り紙付き。強盗や暴漢などに襲われたという話は珍しくもなく、死人が出たと
聞いても「またか」と思うばかり。それこそ日常の出来ごとなのだ。真新しいものは何もない。
街灯の明かりすら暗闇に吸い込まれてしまいそうな、暗い夜。あるべきはずの月明りは分厚い雲に
遮られ、闇は自分の足許にまで及んでいる。けばけばしいネオンの光は、こんな細い路地裏まで
照らしてはくれぬ。
こんな夜更けに、こんな場所に身を置かねばならなかった理由を、男は気を紛らわす意味も含めて
思い返した。だが数秒もかからずその作業を終えてしまって、辺りの闇を相手にするより他なく
なる。理由など単純極まりない。仕事が長引いたから。ただそれだけだ。
いつもの残業ならば午後八時には終わるというのに、こんな夜更けまで居残ることになったのは、
男自身に原因があるのでは断じてない。いつもの時間に帰宅しようとした男に、嫌な上司が書類の
山を呉れたのだ。それらのデータをすべて整理していたら、こんな時間になってしまったという
わけである。
明日に回せば良かった。男はしみじみ思う。何かと自分を目の敵にする上司の嫌がらせなど
無視して、帰ってしまえば良かったのだ。それができない自身の性格が、ひどく恨めしい。
(嫌になる……)
こんな夜更けに治安の悪い土地に一人。護身用の銃はもちろん所持しているが、こんなもので
絶対の安心を得られるわけもない。そもそも男はまだ、上着の内ポケットにしまった銃の
トリガーを、一度も引いたことがなかった。不安。男であっても、襲われぬという保証はどこにも
ない。
すべてはあの、しみったれた上司のせいだ。
男は憤慨して、足許のコンクリートを蹴った。上司の顔を殴り付けるさまを想像し、二度三度と
踵を鳴らす。
少しは気も晴れたかと言えば、そうではない。むしろ虚しさが増しただけだ。
早く帰って、寝てしまおう。明日も仕事だ。
幸い、男には妻も子もない。こんな夜遅くに帰っても、誰に迷惑をかける心配もなく――しかし
真っ暗な自宅にひっそり帰宅することは、いつもたまらぬほど寂しいのだ。かと言って、一夜
限りの女性を連れ込む甲斐性は男にはなく、生涯連れ添う相手はいまだ現われない。ようは、
奥手なのだ。
ため息がアスファルトに融ける。そのとき、男ははっとして顔を上げた。銃声。珍しいものでは
ないが、闇をつんざくそれに男は思わず足を止めた。また、銃声。かなり近い。どちらのものか
判らぬが、笑い声もする。随分とご機嫌だ。頭が少し、ゆるいのかもしれない。
反響しているのか、音の正確な位置を掴めず、男は辺りを見回しながらもその場から動け
なかった。早く帰宅せねばならぬとは、頭では判っているのだ。もし巻き込まれでもすれば、
最悪命を落としかねない。
護身用の銃はいつでも懐から引き抜けるけれども、口径の広いマグナムでもない限り、こんな
小さな銃はこけおどしにもならないだろう。これはあくまで、持っていないよりもましだろうと
いう、ほんの軽い気持ちで購入した代物なのだ。
暗闇を忙しなく見回すこと数十秒。
それは、空から降ってきた。
猫のようにしなやかに、音もなくアスファルトの上に着地したそれは、どうやら人である
らしかった。らしい、とは、男はそんなことのできる人間を一人も知らぬからだ。左右にそびえる
古いビルは、少なく見積もっても五階建て以上の高さがある。
「だ……大丈夫か?」
間抜けのように、それだけしか言葉にならなかった。空から降ってきた人影は、裾の長いコートを
羽織っているらしい。ばさりを裾をひるがえし、男の問いに答えぬままどこぞへ立ち去ろうと
する。ぼんやりとした街灯が照らす人影は、明るい色の髪をした男であるようだが……。
「ま、待て……っ」
なぜだか判らぬが、男はひどく焦った。帰宅するべき男の足は、空から舞い降りた影を追うものへ
変わっていた。
空から降ってきた人物は、男が自分を追いかけて来ていることに気付いていただろう。男は足音を
忍ばせてはいなかった。気付かないわけがない。しかし男を撒こうというそぶりもないまま、影は
路地の奥へ奥へと進んでいく。その足取りに迷いは感じられなかった。
(こんなところに、)
清潔という印象からはほど遠い、バーよりも酒場という表現の似合う店が、こんな路地の奥底に
あるのだと男は初めて知った。雰囲気は見るからに悪いが、人影は確かにこの店に入った。ここ
まで追っておいて、怖じ気付いてなどいられない。
覚悟を決めて、酒場の入口に手をかけた。
明らかに毛色の違う人間が店に現われ、店内が不自然な静寂に包まれる。
エンツォ・フェリーニョはカウンター席で酒をちびちびやりながら、さり気なくその人物へ視線を
やった。なるほど、皆が馬鹿騒ぎを一時中断させるはずだ。新たに酒場を訪れた人間は、いかにも
この場にそぐわぬ風貌と雰囲気をまとっている。場の空気が読めぬほど馬鹿ではないようで、
居心地が悪そうにあちらこちらへ視線を巡らせているのだが、それが逆効果であるとは気付いて
いない。かえって、激しく浮いている。
新顔にしては不慣れすぎ、まったくの一般人ならばこんな荒事師の溜まり場になど来ないだろう。
いったい何が目的か。
考えていると、隣の席へ酒場の主人が何か不釣り合いなものを運んできた。見なくとも判る。
見た目すらも甘ったるくて胸が焼けそうなストロベリーサンデーだ。ここでそんなものを
注文するのは、ただ一人しかいない。
「……オイ、ありゃ何だと思う」
あえてストロベリーサンデーには触れず(いつものことなのだ、いちいち突っ込んでいては疲れて
しまう)、エンツォは顎であちらを指した。ストロベリーサンデーしか眼中にないであろう彼は、
スプーン片手にすでに臨戦態勢。頭が痛い光景だ。
もはやあちらの世界の住人となってしまった彼に、何を言ったところで無駄だということは判って
いるエンツォだ。これも慣れと言えば慣れである。彼との付き合いは短くはないし、たかが
情報屋の身ではあれど知っていることは少なくない。ただ、問題が一つ。それは時を追うごとに
大きくなっている。
(どうなっちまってんだか……)
肩をすくめたエンツォの隣で、顔立ちに幼さを残した彼はにんまり笑顔でストロベリーサンデーに
がっついている。かちゃかちゃと音をたてぬ辺り、意外にも悪い育ちではないのかもしれない。
本当に育ちの良い人間であれば、こんな、社会に爪弾にされた者ばかりが集う吹き溜まりに流れ
着くことはなかっただろうが。
そう、きちんと両親のもとで育っていれば、こんなことにはならなかっただろうに。
エンツォが目を細めたとき、入口付近できょろきょろと不審な挙動をさらしていた一般人らしき
人物が、あっと声を上げてカウンターのほうへ駆け寄ってきた。少し存在を忘れかかっていた
だけに、エンツォは不覚にも驚いてしまった。
「おいおい?」
やはり新顔か、と。男がエンツォに用だというなら思っただろう。しかしそうではなかった。
男はこちらになど見向きもせず(実際視界に映っていないに違いない)、まっすぐにエンツォの
隣へと近寄ったのだ。つまり、目的は彼ということだ。
きみ、と男は身を乗り出すように熱心に声を掛ける。が、彼は無反応。それはそうだ。彼は今、
何よりも愛しているに違いない彼女に夢中なのだから。……それが本当にガールフレンドであって
くれたなら、まだ救いはあるものを。
(こいつに恋人なんざ、まず無理だろうが)
あらゆる方面において問題がありすぎて、何がどうして無理なのか言い表しようがない。
話が脱線した。
男は彼に無視されて怯んだようだったが、図太いたちなのか諦めようとせず、すぐに唇を
回転させている。曰く、きみは何者か、と。
それは自分も共通して抱いている疑問であり、エンツォは思わず耳を澄ませた。
ストロベリーサンデーに夢中である彼から、きちんとした答えが返ってくるとは、あまり
期待できないが。
案の定、彼は答えるどころか無反応を続けている。真横にいる男に気付いていない、という
可能性も見え隠れしながら。
男はやはり図太いたちであるらしい。まるで一目惚れをした女性を掻き口説くかのように、
熱心に声を掛け続けている。その姿は滑稽であり、うそ寒くもある。酒場に溜まった荒事師らの
程度の低い野次と冷やかしが飛び交うが、男の双眸には彼しか映っていないのだ。
(黙ってりゃ、そこそこ良い男だってのにな)
色男とまではいかないが、鼻筋は通っているし、目は切れ長で涼やか、顎は尖っていて、
精悍というよりも端正な面立ちだ。体躯も悪くなく、背も高い。くたびれた感のある背広を捨て、
もっと瀟洒なスーツを着れば女性も放っておかないだろう。
そんな男が、今現在同性に夢中とは悲劇ではないか。いや、その気(け)があるとは思いたくない
が。
スプーンをくわえたまま、彼が至極仕合わせそうに「ご馳走さん」と笑顔を見せる。旨かったぁ、
と腹を撫でる姿にエンツォは内心で顔をしかめた。
彼は、時を追うごとに“彼”らしくなっていく。
他者には意味が判らぬであろう独り言を、エンツォは誰にももらしたことはない。皆、彼が少し
妙であることに気付きはしても、時が経つにつれ彼への疑惑を納得へ変えてしまうのだ。以前が
少しばかりおかしかっただけなのだ、と。
「で、」
彼が不意に、先ほどから無視し続けていた男に声を掛けた。気付いてはいたらしいと判り、
エンツォは何となく、本当に何となくだか嫌な予感がした。
「人がサンデー喰ってるときに、ごちゃごちゃ煩ぇよ、あんた」
下手に見目が良いだけに、彼が凄むと効果が上がる。男は判りやすくぎくりとした。が、図太い
たちであることはすでに判っているのだ。エンツォには、という抜かしがたあ条件が付くが。
「わ、私は……」
怯むが、退かない。その根性は大したものだと思う。
「ンだよ?」
ストロベリーサンデーの効果か、彼は思ったよりも機嫌が悪くない。男にその違いは判らない
だろうが、話をしたいなら今しかないことは間違いない。彼らが言葉を交わすごとに、エンツォの
嫌な予感はいや増していく。
「きみは何者なんだ。空から降って来るなんて、非常識にもほどがある」
酔っ払いの戯言とは、エンツォは思えなかった。くたびれた背広は着ていても、男は酒気を
帯びているようには見えない。
「空?」
彼は身に覚えでもあるというのか、首をかしげながら、カウンターの向こう側にいる親爺へ酒を
注文した。ジントニックではない。もっとアルコール度数の低い、ジュース感覚で飲める酒だ。
ここだけは、彼が“彼”になりきれぬ唯一の部分であるとエンツォは思っている。
「それであんた、俺が何者か知ってどうするつもりだ?」
「え、」
「考えなしか。案外、馬鹿なんだな」
開けっ広げにものを言うのは良いことだが、過ぎれば無頼の輩になりかねない。エンツォは
内心で額を押さえた。男も呆気に取られたように目を丸くしている。が、
「言われてみれば、そのとおりだ……」
さすがに図太い人間は神経のあり方が違う。挙げ句、すまないと詫び始めた。これにはさすがの
彼も面食らったのだろう。言葉が途切れたところをみるに、ちょっと絶句しているらしい。
助け船を出すべきか、エンツォが身をわずかに乗り出そうとしたとき、彼が唐突に笑い出した
ものだから驚いてしまう。
「ははっ、面白ぇ。ホンモノの馬鹿だな!」
ツボに嵌まったようで(付き合いは短くないが、エンツォは彼のツボが何であるのかよく判って
いない)、くっくと笑いながら彼は言う。
「気に入ったぜ、あんた」
と。嫌な予感が見事に的中してしまい、エンツォは頭を抱えたいのを必死に堪えた。また一人、と
喉の奥で呻く。この意味が判らぬ人間は多く、エンツォはできれば自分もそちら側にいたかったと
切に思う。物見高い情報屋などしていると、知らずとも良いことを知ってしまうという弊害が
生じることがあるので困る。
彼はこの短時間に気に入ってしまった男を隣のスツールに座らせるかと思いきや、いきなり席を
立って親爺に酒代を放った。グラスには、一度ほどしか口をつけていない。
「お、おい、もう帰んのか?」
思わず呼び止めたエンツォに、彼は肩越しににやっとして。
「まさか、店を変えるだけだ」
ここじゃ落ち着かねぇ、なんて。本気か冗談かもつかぬことをのたまい、男と連れ立って店を
出ていく彼を、エンツォだけでなく荒事師らもぽかんとして見送った。男漁りに余念がないな、と
わざとらしい嘲弄を囁く者もいる中、ただ一人、酒場を切り盛りする親爺だけが、淡々と彼の
残した酒の始末をしている。
数日後。
彼は平素と変わらぬ風体で酒場に現われた。よりにもよってその場に居合わせてしまったこと、
加えて“それ”に気付いてしまったことを、エンツォはしばらく後まで後悔し続けることに
なる。
彼、は。
顔立ちはもちろん、服装も銃も何もかもが“彼”と寸分違わぬ姿で、
しかし、その双眸は、
凍て付いた氷雪よりなお冷たく。
悪魔すら震え上がるであろう酷薄な色を湛えた、蒼。
その双眸を、エンツォは確かに知っていて。けれども、しかし。
(畜生)
見て見ぬふりをするしか、ない。
“彼”は暗く狭い匣の中。
深く浅い夢の淵を漂い続ける。
桃の節句にこれか…
ある意味私の頭の中には花が咲いてますが。
[09/03/03]