発作ホッサ









けほ、と一つ。続けて二つ、けほけほと咳が出る。少し間をおいて、また一つ。今度はごほりと 大きな咳だ。
定期的というわけではないが、自分が風邪を引きやすいことはきちんと自覚しているダンテで ある。またどこかから貰って来たかな。口の中で呟いて、うがいをすべく腰を上げる。熱は まだないようで、足許がふらつくということもなく洗面所へ向かった。
こほこほ、小さな咳がいくつも出る。あまり咳をしすぎると疲れてしまうのだが、こればかりは 堪えられるものではなく、出るに任せるしかない。

「あー……」

ため息を吐きつつ、洗面台に取りつきプラスティックのコップに水を注ぐ。うっかり歯ブラシを 手に取りそうになりながら、うがいを一度、二度――念のために三度して、ふぅと息を吐く。 コップに僅かながら残った水は排水口に捨てた。
これで少しはましになれば良いが、簡単にはいかぬだろうと肩を竦める。高をくくって酷くなる ことはよくあるし、実際そうして悪化したことはダンテにもあった。そのたびに、双子の兄に こっぴどく叱られたものだ。

また兄の手を煩わせることになるか、どうか。できれば手間はかけさせたくないと思うものの、 兄が、ダンテが風邪を引きこんでいる間はひどく優しくなることを知っているだけに、小さな 葛藤がダンテの胸にぐるぐると渦巻く。

「こほっ……」

力ない咳に自嘲が浮かぶ。自分はどうにも、兄のこととなるとだめだ。甘えたくて、対等で いたくて、けれども甘やかしてもらうのがとてもとても好きで。だから自分は、だめなのだ。
こんなことではいけないと、はっきり自覚しているというのに。

「けほっ、ごほっ」

口に手をあて、背中を丸める。息をするのもやっとなくらい、咳が続けて喉をつく。けほ、けほ。 心臓を貫かれてすら死なぬ躰だが、このまま咳が止まらなければあるいは死は自分を迎えてくれる かもしれない。

(それはそれで、)

ぼうっと霞でもかかったような思考が、ふとそんなことに思いを巡らそうとしたとき、

「ダンテ」

静かな、しかしいつもより心持ち早い口調で名を呼ばれ、ダンテの思考は一時停止を余儀なく された。





抱き抱えて、部屋に運び寝台に押し込んだ。双子の弟のことだ。

買い物を済ませ帰宅すると、洗面所のほうから不自然な咳が聞こえてきた。場所はどこであれ、 咳の出所は間違いなくない弟であると判り、バージルは洗面所へ急いだ。案の定、そこには弟が おり、洗面台に突っ伏すように背中を丸めて肩を震わせていた。咳が止まらないものらしく、 合間に苦しげな喘鳴を挟んでいた。
すぐに声をかけると、弟はバージルの顔を見るなり明らかにほっとしたようで、咳のせいで かすれた声でバージルの名を呼ばわった。咳が止まらないのだと訴え、しかし大丈夫だからと 微笑して見せた彼を、バージルは叱った。大丈夫であるようには、まったく見えなかった からだ。

何ともないと繰り返す弟の額に触れると、ほんのりと熱いように感じられた。嫌がる彼を黙らせ 横抱きに抱え、部屋へと運んだのが今現在である。

「どうもねぇ、の、に」

喉に何か詰まったかのように、語尾にかかるかたちで咳をこぼす弟に、バージルはとにかく寝て いろと言って肩を竦めた。何をむきになっているのか、どうも自分は平気であると思いたい らしい。が、こうも咳が出るのだ。風邪の引き始めかもしれず、無理をするのは歓迎されかねる。 バージルのそんな心配を、なぜ彼は受け付けようとせぬのか。苛立ちがもわりと腹に溜まりそうに なるのを、けほりと弟の喉をついた咳がかき消した。
弟の首に指をあてる。しこりのようなものに僅かに触れ、眉をしかめた。

「苦しいか?」

問えば、彼は思いもよらぬことを訊かれたとばかりに目を丸くし、顔を左右にする。咳がまったく 止んでいないというのに、苦しくないわけがなかった。それに扁桃腺も腫れつつある。また、 どこかから風邪をもらってきたに違いない。
めったに風邪など引かないバージルにとって、年に数回、きっちりと体調を崩す弟が不思議で 仕方がない。子どもの頃からそうだったので、これはもはや体質であろうと結論付けている バージルだ。そのくらい、彼は節目ごとに病床の人となっている。長引くときは一週間近くも 寝台から起き上がることすらできないのだ、今回がそうならない保障はどこにもなく、バージルが 彼を無理矢理に寝かせたのはそのためだ。風邪には早い対処が必要となる。

自分は風邪など引いていないと言い張る弟が、平気だということを主張するためにか躰を起こそうと する。バージルは眉を顰めてそれを止めた。

「起き上がろうとするな。寝ていろ」

肩を押さえ、枕に押しつける。彼はむっとしたように文句を口にするが、構ってなどいられない。 この気丈な弟が、根本の部分にひどく弱いものを隠していることをバージルはよく知っている。 体調を崩すとその弱い部分が彼の精神を乗っ取ってしまうことも。

(だから、か?)

彼には自覚があるのかもしれない。他者よりも矜持の高い彼だからこそ、風邪かもしれぬという おそれを頭から否定しようとするのか。自分の弱さを認められぬのか、認めたくないのか。何に せよ、バージルが彼を寝台から出してやる理由にはならないが。

「少し辛抱しろ。今体温計を……」

部屋の隅に据えた棚の中には、救急箱が備えてある。無論ダンテ専用と言って差し支えなく、 体温計もその中に収納されている。
バージルが立ち上がろうと腰を浮かせると、不意につんと、袖を引くものがあった。弟だ。何を するのかと顔を覗き込むと、ひどく傷ついたような双眸と視線が絡む。あぁ、と思った。

「……ばぁじる……」

名を呼ばわる声は、思いのほかに弱々しい。か細いのとはまた違うが、バージルは目を細めて彼の 額をゆるやかに撫ぜてやった。

「そこの、棚から体温計を出してくるだけだ。お前をひとりにはしない」

赤みがさしてきたように思う頬に口付けを落とし、袖をきゅっと掴む指の上から手を重ねる。 撫でてやると、納得したのか指から力が抜けていくのが判った。良い子だと囁き、額に口付けて 躰を起こした。





離れてしまう。けれどもひとりにはしないと兄は言った。だから大丈夫に違いないと、ダンテは 己に言い聞かせて兄の背を目で追った。
平気だと繰り返したにもかかわらず、ダンテは兄によってベッドに押し込まれてしまった。熱も 計るという。苦しくないかと問われ、首を横に振ったダンテの意思表示はまったく通じなかった ものと見えた。いや、信じてもらえなかったのだ。
兄は自分がこうと思うと、他の意見に耳を傾けようとしない。悪癖、とダンテは思うが、だから どうすることもできず結局は泣き寝入りだ。

(なんだよ……)

あやすようなキスが心地好かったと思う自分を、馬鹿と罵り叱咤する。兄にとって自分はまだまだ 幼い弟なのだと、まざまざと突き付けられたような気分だ。実際、対等になどなれた試しはないし、 なれそうもないことは判っているとはいえ。

「げほっ」

少しなりを潜めていた咳が、またぞろダンテの喉を襲う。毛布の中で躰を横向きにして、背中を 丸めて咳き込んだ。げほ、げほ。兄には聞こえているだろう。けれど自分の咳のせいで、兄の 足音や気配が感じられなくなってしまった。万一そっと部屋を出て行ってしまっていても、 おそらく気付けない。

(やだ……バージル……)

ひとりにはしないと兄は言った。けれど兄のことだ、何かしら抜け道があってもおかしくはない。 そんなのは嫌だと思うけれども、止める手段をダンテは持っていないのだから。ただ少し、だだを こねることしかできない。子どものように。

「げほ、げほっ」

まなじりに涙がにじむ。咳がつらいばかりのそれではないと、ダンテは気付いていながら知らぬ ふりをする。

「……ばぁ、じる……」

咳の合間に呼ばわる弱々しい声が、まさか自分のものであるはずがないと。思い込むことで ダンテは自らを守ろうとした。

「ダンテ、」

小さな小さな意地も、兄にかかれば粉々に砕けてしまう。

どこにも行かなかったと判った瞬間、ダンテは自分がひどく喜んでいることを自覚した。同時に、 たかがこれだけのことで、と情けなくもなる。
だから駄目だというのに。どうしてこう、うまくいかないのだろう。

毛布が少し引き下げられ、兄の指がダンテの耳をつまむようにする。痛くない程度に軽く 引っ張られて、ふるりと背中が震えた。甘えたような吐息は、幸い咳に掻き消されて兄の耳には 届かなかったはずだ。

「口を開けろ、ダンテ」

横を向いたままで良い、と。言われたので兄の顔は見えぬまま口を開ける。そこへ、体温計が するりと入り込んできた。慣れているので、言われるまでもなく舌の裏側へ体温計の先を挟み 込む。
ダンテがきちんと体温計を咥えたと判るのか、兄はくどくは言わずダンテの髪を指に巻き付けた。 それは、兄が無意識にする手遊びだ。巻き付け、少し引くとするすると髪が解け、また巻き付ける。 何が楽しいのかダンテには判らないが、それを何度も繰り返すのだ。
ベッドの端に腰かけているらしい兄。すぐそばにある体温は相変わらず低いけれど、ダンテを 安堵させるにはこれ以上ない要素だ。
ピピッと電子音が響き、兄が素早くダンテの口から体温計を引き抜いた。唾液が蜘蛛の糸ように ついと引いたが、兄は気にならないらしく拭う素振りも見せず体温計が示す数値を読み取ることに 集中している。何度くらいなのか、ダンテはじっと兄を見つめた。自覚云々から言えば、熱など ないとダンテは思う。平熱であってほしいと念じるように兄の手許を凝視する。その間に小さな 咳がこほこほと出たが、つらさを感じるほどではなかった。

体温計を睨んでいた兄が、ちょっと肩を竦めた。

「……微熱だな」

「え……」

そんなはずはない。ダンテは主張しようとしたが、兄に肩をそっと押さえられ、双眸を覗き 込まれて起き上がる機会を失ってしまう。

「今日は寝ていろ。飯はここに運んでやる。薬もな」

言葉こそ優しげなものだったけれど、兄の双眸がそれを裏切っている。有無を言わせぬ冷たくも 厳しい瞳。ダンテは中途半端に開いた口を閉じることも出来ず、はくり、と息を吐き出すことすら 困難な有様だ。ひくっと唇が震えたところへ、兄が啄むように触れるだけのキスを落としてくる。 そして息の触れる近さで、まるで睦ごとのように囁いた。

「良い子だ」

ちゅ、とわざとらしく恥ずかしい音をさせて、唇の端にキスをする。子どもをなだめるように 生ぬるいそれに、しかしダンテは反撥することができなかった。兄にかかってしまえば、ダンテは 子ども以外の何ものでもなくなる。こんなふうに甘やかされると、余計にだ。

「ん……んん……」

兄が何か誤魔化しているような気がしてならなかったが、ダンテにはそれを追求する余裕などない。 兄のキスに、とろとろにさせられてしまっていた。





弟の瞳が、だんだんぼんやりと霞がかかっていくのが手に取るように判った。相変わらず口付けに 弱い。無論躰を繋げたときが最も悦に入った顔をするが、口付けは別格であるしい。舌を使わず とも、ただ啄むそれを繰り返すだけで、もはや果てるのではないかと疑うほどなのだ。
誤魔化した、というつもりはバージルにはない。弟はバージルが見ていなければ馬鹿な無茶を 重ねる。そうすることでもたらされる結果を考えずに動くのだから、バージルが小煩く言うのは 当たり前のことだ。
体温は、実際のところ平熱と微熱の間という際どいものだった。はっきり何度だと伝えていれば、 おそらく弟は大丈夫だと自己判断を下し寝台から出ようとしただろう。風邪は引き始めに対処を するのが肝要だが、それを弟が理解するかどうかが問題だ。であるから、バージルはあえて 伏せた。そして弟を寝台へ縛り付けることにしたのだった。

「ん……ん、ふぅ……」

蕩けた吐息にバージルの口の端が吊り上がる。

「気持ち良いか、ダンテ?」

囁けば、吐息が返事として返ってくる。バージルは喉の奥で笑った。きゅっとシャツの肩辺りを 握り締めてくる手が、ほうっと赤くなった頬が、うるんだ双眸がバージルの理性を揺さぶって くる。
快楽に弱いのは確実に弟のほうだが、その弟を快楽漬けにすることをバージルはとくに 好んでいる。その弟に誘われて(それが無自覚に因るものだとしても)、猛らぬバージルでは ない。しかも風邪を引くなどして弱った弟は、異様なまでにバージルが傍らを離れることを 嫌がる。
かわいいと、愛でてやりたいと、思わぬわけがないのだ。

「ダンテ、俺がほしいか?」

あからさまな問いだ。しかしあえて、バージルは直截的な言葉を用いて弟に問うた。弟はよく 判っていないようにぼうっとバージルを見上げ、しばらく見つめ合ったのち、こくんと顎を引く。 この弟が、バージルのことを要らぬと言うわけがない。でなければ、自ら魔界へ堕ちようとした バージルを、身を挺して止めようなどとはしないだろう。
バージルはくすりと笑う。

「ほしいと、言え。お前の言葉でだ」

寝台に腰掛け、躰をひねる恰好で上体をかがめたまま、バージルは弟の頬を撫ぜた。弟はやや 躊躇し、そんな、と往生際も悪く口をもごもごさせている。
矜持の高い、かわいい弟。バージルが我がものとし、支配をしたいと思うのはこの世に彼ただ 一人だけだ。

「言え、ダンテ」

言わねばどうにかするという、いつもならばする脅しをバージルはかけなかった。ただ、じっと 彼の揺れる双眸を見据える。
そうして、しばし。

「ほ……しい、よ」

呟きは小さかったが、バージルの耳に届くには充分だった。バージルは顔だけでなく首筋まで 真っ赤に染めた彼の、恥ずかしそうに震える瞼に口付けを落とし、ふふ、と笑った。

「良い子だ」

褒美に砂糖菓子よりも甘い甘い口付けを。どこからともなく風邪をもらっては寝込む困った 弟へ。



ばぁじる、と。舌足らずに名を呼ぶその声に、兄はいつも慾情する。



















戻。



精神的に弱いダンテ、を書こうとしたところ、兄がこんなになりました。
もっと暗い感じにしたほうが良かったかな…