震韻シンイン









「雨だ」

その言葉で、一日は始まった。





なぜ目が覚めたのか、自分でも判らない。いつもならば昼近くまで開くことのないはずの瞼が、 睫毛を震わせたのはまだバージルですら目覚める前のことだった。有り得ない。とくに後者、 バージルよりも早くに目が開くなどと、片手で数えようとしてもまず一本目の指すら曲がらないと いうのに。
その尋常ではない状況の只中に放り出され、困惑するダンテの耳に、ふと音が届いた。いや、 音そのものは少し前からしていたのだが、ダンテがそちらに意識を向けていなかったために 気付かなかったのだ。が、気付いてしまえばそれまで、という言いようもできた。ダンテは 窓の外から聞こえてくるその音に、全神経を集中させた。
ざぁぁ、と。夜明け間近の早朝の静寂を破る、密やかでありながら騒がしい音。およそ聞き覚えの ない人間などいないであろうその音に、ダンテは眠気を奪われた。忌々しく思うものに対峙した かのように、眉をしかめぼそりと呟いた。

「雨だ……」

苦手とするものの到来を、ダンテは当然ながら歓迎することなどできなかった。



雨はきらいだ。己の信念を貫きつつも人生を好きに生きているダンテは、しかしながら明確に 嫌いと評する対象はほとんどない。人間にしてもそうだ。苦手な類の人種はもちろんいるが、 嫌いだとはっきり言うほど厭っているものはない。そういう人間とは付き合いを持たなければ 良いだけであるし、事象や物体にしても同じことが言える。要は近付かなければ良いだけの 話なのだ。が、雨だけはそうはいかない。
雨は空が気まぐれに降らせるもので、人間はこれを避ける手段も、抑圧する方法も持たない。 雨宿りをするか傘を差すか、それとも家に閉じこもるか。何にせよ、雨の音は耳に届く。 ――耳栓でもすれば、この音を聞かずにいられるのだろうか。

ダンテは雨を嫌っている。すべてを洗い流してしまう雨を、好きになどなれるわけもない。 無論これはダンテの感覚によってしか判らぬ好き嫌いであり、人の理解を得ようとしたことは なかった。いや、話したことすらないのだから、理解を得る以前の問題であろう。

ともかくも、ダンテは雨が嫌いなのだ。すべてを洗い流す雨が。嫌いでならない。



大事に大事に取っておいたわけではない。自ら捨てたものも少なくはないし、意図せずなくした ものでも未練には思わなかった。けれど、

(雨は、――)

残しておきたいと思ったものを、なくしたくないと願ったものを、一片の容赦もなく、一筋の 慈悲もなく、すべて洗い流してしまったから。
女々しいとは嫌というほど自覚しているけれども、それは一種のトラウマのように、ダンテの心に 巣くっているのだ。





「どうした」

寝起きとは思えぬ明瞭な声音が、すぐ左から聞こえた。バージルだ。ダンテが目を覚ましたことに 気付き、こちらも起きてしまったらしい。雨、とダンテが呟けば、聡い兄はそれだけですべてを 察したようで、そうかと囁く声はどこかいつもより低かった。気遣いなど要らないのに。拗ねる ように思ったダンテの、へその辺りをバージルの掌が撫ぜた。
バージルの体温はいつでも少し低い。逆にダンテは体温が高めであるから、その差がより はっきりとするのだろう。ダンテがバージルの体温を心地好く思っているのと同じに、 バージルもこちらの体温を心地好く思ってくれていれば良いのだけれど。時折、そんなふうに 思う。詮ないことだ。

寝着の下だけを穿いたダンテの、へそから上は当然ながらむき出しの状態だ。下は、バージルが 穿かせたのだろう。当然のように一つのベッドに同衾する彼らは、膚を合わせるようになって 久しい。昨夜も。当たり前のようにセックスを、した。
ダンテの弱いところを熟知しているバージルによって、高みはすぐに極めることができた。が、 それで解放してくれるようなバージルではなく、それから散々、好きなようにされた。
ダンテはセックスの最中に気を失ったらしく、気付いたのが今し方、ということだから、どれほど 激しくいじめ抜かれたのか、想像するだにおそろしい。
が、それはいつものことで、慣れてはいる。

バージルの掌は飽きもせずにダンテの腹を撫ぜている。もう拗ねてはいないというのに。――雨は まだ、降り続いているから。

「……バージル……」

呼ばわるつもりはなかった。いや、声に出したつもりではなかったのだけれども、実際には 声として紡がれていて、どうした、という低い声音によってそのことを知るに到った。え、と 返せば、眠れないのかと問うてくる兄に、ダンテは頭をゆるく左右にした。
眠れないのではなく、眠りたくないのだ。おそらくは。確固たる自信は持てないけれど、 そうなのだろうと思う。

バージルはダンテの腹を撫ぜていた掌を、するりと胸のほうへと這わせてきた。性的な意味合いは ないのだと判るその仕種に、しかし首筋の産毛がそわと逆立つ。バージルに触れられていると いう、ただそれだけのことでダンテの躰は反応してしまうのだ。今はとくに、その傾向が強く あらわれている。

「バージル……」

呼ばわる相手が、すぐそばにいて自分に触れてくれている。言ってしまえばそれだけのこと でしかないが、ダンテにはそれは何より掛け替えのないものなのだ。誰もいない部屋、ベッドでただ独り過ごしたあの一年間、ダンテがどんな気持ちでいたかバージルは知らない。雨が降るたびにダンテがどんな思いでいたか、バージルは知らない。 だから、今この時がとてもとても大切でならないのだ。 バージルの掌がダンテの首に触れる。頸動脈の真上に指があたって、思わずぞくりとしそうに なるのを、目を瞑ることで堪えた。その目も、すぐに開けてしまう。碧眼に映し込むのは双子の 兄。部屋は暗いがバージルの顔は見える。それだけ、互いの距離が近い。

「バージル、」

なぜだか涙がこぼれそうになって、ダンテは慌てて瞬きをすることで水気を払った。そのとき、 ふと、

「ダンテ、」

低い声に名を呼ばれたかと思うと、ちゅ、と。恥ずかしい音をさせて唇を啄まれた。無論、 バージルの唇に、だ。

「な、に」

動転してどもってしまったが、バージルは気に留めなかったようだ。また、ダンテの唇を啄んで くる。かさかさに渇いた唇を舌で舐めたりもして。そこがしっとりと潤いを取り戻せば、満足した ように深いキスを仕掛けられた。ダンテはただただ翻弄されるよりない。

「ん、ふ、ッ……」

途切れ途切れの吐息が羞恥を煽る。頬は紅く染まっているのに違いない。もしかすれば首筋まで。 あぁ、そんなありさまをバージルに見られるのは嫌だ。恥ずかしい。もうどんな姿も見られている が、それはそれ、これはこれだ。暗いからといって安心などできない。相手はバージルなの だから。

「ダンテ、」

兄がキスの合間に自分の名を呼ぶ、その声が好きだとダンテは思う。絶倫でありながら理性の いきものである兄の、どんなときにも冷たさを失わぬ声音が、ほんの少しだけ熱を含んでダンテの 名を紡ぐ。それが、とても好きだ。その僅かな変化はダンテにしか判らぬ類のものであるが。

「バ、ぁ、ジル……」

息を乱しているのはダンテのみ。これはいつものことで、ダンテも腹は立たないが、たまには こちらがバージルを翻弄させたいと時には思うこともある。まだ成功した試しはないのだ けれど。

息の触れる距離に。仰向けになったダンテの上にかぶさるようにして、バージルの秀麗なおもてが ある。バージルの掌はダンテの喉をやんわりとおさえ。時折ふにふにと下唇を甘く噛まれる。 それはひどく官能的で、ダンテはひとたまりもない。
はぁ、と我ながら熱っぽいため息が唇の端からこぼれ落ちる。バージルはその吐息すら我がもの だとでもいうように、ダンテがため息をもらせば必ず唇を重ねてきた。これを繰り返していたら 唇が腫れるのではないかと、少し心配になってしまう。――馬鹿だという自覚はあるが、 そのくらいバージルがキスを降らせるのだから仕様がない。

「ん……はぁ……」

眠いと、思った。いつまでもキスを味わっていたいけれど、あまりの気持ち良さに余所に追い やっていた睡魔が足音を忍ばせてこちらへやってくる。バージルにもそれが判ったのか、くっと 喉の奥で笑うのが判った。

「寝て良いぞ。眠いのだろう?」

「んん、ん」

すぐ近くまで迫った睡魔を、しかしダンテは拒んだ。眠りたくないのだということを思い出した。 雨の音はよく聞こえないが、止んだかどうかなど判らない。すべてを洗い流してしまう雨。この まま眠ってしまって、目が覚めたときにもしバージルがいなくなっていたら。

「、や、だ……寝ない……ねた、く、ない」

ぐずるように訴えると、額にバージルの唇が触れた。恭しさを覚える、羽のように軽いキスだ。

「こうしていてやるから、眠れ。どこへも行かん」

目覚めるまでそばにいてやるという兄の、腕が腰に回され、ひょいと躰を横向きにされる。 きつく、しかし苦しさは感じぬ程度に抱き締められ、頬や額、眉間には綿雪のようなキス。

「んん……っ……ずる、ぃ……」

くすっと笑う気配。そうだな、とでも言うように。
確信犯かと罵るだけの余裕はダンテにはなく、バージルの思惑どおり(それがとても気に入らない けれども)すうっと眠りへと引き込まれていく。

ずるいよ、お兄ちゃん。

その恨みをこめた言葉を、自分の唇は紡いだのかどうか。認識するよりも早く、ダンテの意識は 夢の淵へと沈んでいった。



雨の音は、もう聞こえない。

次に目を覚ましたときには、どうか空の機嫌も直っていますように。



















戻。



精神的に弱いダンテが好きです。兄、優しくできましたかね…