壊音コワレオト









ぴんと張り詰めた糸が切れるかそけくも重い音を、聞きたいとは、思わない。





髪は銀。瞳は蒼。膚は白く、身に着けた赤の鮮やかさがよく映える。まだどこかしら幼さを残した 青年の名は、ダンテ。歳は二十に今一歩足らぬ程度だ。親は亡い。しかしそのことが与えるだろう 陰は、表面上は全く窺うことができない。彼はそういった翳りを他者に見つけられることに、 堪えられないたちであるからだ。

ダンテは現在風呂上がりで、いつものようにソファーに背を凭せかけて床に尻をついている。 いや、厳密に言えば床ではなく、床に敷かれた小振りの敷き物の上だ。それはダンテの双子の 兄が、床にばかり座る弟が腰を冷やさぬようにとダンテの意見は全く聞き入れずに敷いたもので ある。ちなみに柄はなく、よく言えば落ち着いた雰囲気の、悪く言えば地味な象牙色。これも ダンテの好みは一切取り入れられず、ダンテの兄が独断と偏見により選んできた。
その敷き物の上に座ったダンテの、背後から覆いかぶさるようにして兄がソファーに座っている。 少し前屈みであるのは、大きく開いた膝の間にダンテを置き、ダンテの濡れた頭からタオルで 水分を拭っているためだ。

ダンテの兄は、名をバージルという。姿形はダンテと全く同じで、一卵性双生児らしく微細に 到るまで酷似している。が、その醸し出す雰囲気は正反対と言って良く、顔立ちは同じだという のに彼らが双子であると知らなければ似ているとすら思わないのだから不思議なことこの上ない。 当の双子にしてみれば、お互いに片割れと自分とは似ていないと認識しているので、問題は どこにもない。むしろ見分けがつかないと言われるよりも良いとすら思っている。
彼らは双子であるが、兄と弟にその役割は完璧に別れる。バージルは根っからの兄気質の持ち主だ。 彼らの見目が誰の目にも全く同じであった幼少のころから、それは遺憾なく発揮されており、 ダンテはバージルに育てられたとすら言ってしまえるほどだ。そんな兄を持つ弟は、当然ながら 末っ子気質甚だしい。気が弱い、おっとりしている。そういったものは歳を経るごとに薄れて いったが、しかし根底にはまだまだ幼い彼が膝を抱いて眠っており、時折目を覚ますのだ。

バージルは弟を愛でることで余所のきょうだいに全く追随を許さない。今こうして弟の髪を タオルに包んでいることも、もちろんバージルが好きでやっているのだ。蛇足だが加えるならば、 ダンテの髪はバージルが手ずから洗っている。以前はダンテが自分で洗っていたのだけれども、 お前に任せていては傷むだけだというバージルの主張により、髪に関するすべての手間を バージルに委ねることになった。そうして出来上がったのがこの光景というわけだ。
初めは洗髪ぐらいできると文句を言っていたダンテだが、今ではすっかりバージルに任せきりに なっている。バージルの意志はあまりにも強固で、ダンテが少し押した程度ではびくともしない。 そのことを誰よりもよく知っているダンテは、自ら折れるというよりも考えることをやめて諦観に 達した。バージルがしたいというならさせれば良いのだし、何より楽で気持ちも良い。兄には 逆らわない。逆らってはならない。刷り込みに近いものが自身に根付いていることを、ダンテは あえて見ないふりをする。

そういうわけもあって、ダンテはバージルの左膝に頭を乗せる恰好で浅い眠りを楽しんでいる。 ひとに頭を拭いてもらうというのは意外なほどに心地好く、いつも眠気に襲われるのだ。 バージルも今は「寝るな」とも言わず、黙って脚を枕にさせてくれている。こういうちょっとした 優しさが、どうにもくすぐったくてとても好きだとダンテは思う。

はぁ、と。無意識にため息がもれた。疲れの見えるそれではなく、どこか満足げなため息だ。 バージルは無言。彼のため息はこれが初めのことではなく、もう何度もこぼれているものだから だ。

バージルはめったに自ら話題をこしらえるということをしない。しゃべるのは専らダンテだ。 しかしそのダンテも黙るとなれば、彼らの間には沈黙あるのみとなる。眠るダンテを相手に何をか 話しかけるバージルの姿など、想像するだけでうそ寒い。
沈黙はダンテの苦手とするものだが、今のような沈黙は嫌いではない。バージルのことを、何を 考えているか判らないと評し近寄らぬ者は多いけれど、ダンテとしては思っていることを何でも 話すバージルをこそ見たくない。それに今バージルは、確実にダンテのことを考えている。 自意識過剰なのではなく、前に一度確認したことがあるので間違いない。だから、ダンテは 安心してバージルに身を預ける。眠りもする。

ここが最も、安堵できる場所だと知っているから。

笑みを浮かべてまどろむ彼を、見つめる瞳が二つ、ある。
それは全身を黒く艶やかな体毛で包み、しなやかな手足で床をしっかと踏み締め、長く細い尾は 床をなぞるように垂れ。空色の瞳で、じっと己の主人を見据える。その双眸の奥には何か 恨み言でもありそうな色が潜んでいるが、睡魔に半ば侵掠されているダンテは気付かない。 だからこその、恨みがましい目をしているのかもしれなかった。

黒い猫の名はユタという。ダンテがその場の思い付きで命名した、元野良だ。今でもダンテには 猫を“飼っている”という認識はなく、そのため猫が自分をして“主人”と定めているという 事実などまるで知らない。そしてユタが、ただの猫ではないということも。
ものに魂が宿り変化へんげとなることは少なくない。同じく長い歳月を 生きた動物が変化となることもあり、ユタはまさにその一例であった。

ダンテは強い魔力を有しているが、いまだ若いためか自身の潜在能力を自在に操ることには 不得手であり、だから黒猫の正体にも気付かぬままなのだろう。そう、黒猫とバージルは 認識している。もちろん、ダンテにはそれと話したことはない。ダンテと言葉を交わすことの できる黒猫ですら、だ。

黒猫との会話に、ダンテは何も疑問を抱いてはいない。それは大いにおかしなことだ。ダンテは 黒猫の言葉を理解していながらも、黒猫と会話をしているという認識には欠けているのだから。 何か思うことはないのかと、猫のほうが首をかしげている始末なのだ。
ダンテの兄は、黒猫の正体を見抜いている。いるが、しかし言葉を理解することはできない。 バージルもまた強力な魔力の持ち主だが、こればかりは主人となったものにしか聞き取ることは できないからだ。しかし黒猫が、ダンテを深く慕っているということは、バージルは当の ダンテよりもよく知っている。

ダンテは、何も知らず気付かず、バージルの膝を枕にすっかり眠り込んでしまった。バージルも、 彼を起こすことなく好きにさせている。拗ねたように目を細めているのは黒猫のみ。
そんな穏やかな――穏やかすぎる日常に、誰が何のおそれを見出すだろうか。
眠ったダンテの寝顔は健やかで、いつにも増して幼く見える。それを直接見ることはできないが、 バージルは弟の頭を優しく揉みながらあるかなしか程度の笑みを浮かべ。

穏やかに、ただ穏やかに時が過ぎていく。心地好いという以外、表現の仕様のないゆるやかな 沈黙。二人と一匹の呼吸が繰り返されるだけの空間。
そんな光景に、誰が、何を思うというのか。

「ん……」

沈黙に落とされる密やかな寝息。平和そのもの。けれど。けれども。



ぴんと張り詰めた糸は常にそこにあり、その存在こそ稀薄ではあれども確かな重みを誰かに 与えている。
誰かは糸を恐々と見守る。そして誰かはさも愛しそうにそれを撫ぜる。爪弾く。――狂った ように。



糸の切れるかそけくも重い音は、穏やかな日常を覆す。すなわちそれは世界の崩壊。すべての 終わり。何かの始まり。

破壊の音を聞きたいと、思うものは誰一人としてない。





糸は確かにそこにあり、一瞬ですらたわむことはなく。





黒い猫は主人を見つめ、主人をして変だと言わしめた声音で一つ、にゅうと鳴いた。



















戻。



最近暗い話書いてないなぁ…