悪意
ぷつりと、何かあまり良いものではない音が脳に響いた。
いわゆるキレるというのとは、違う。その音は彼の脳内で発せられたものではなく、べつの
ところに音源があるからだ。しかし、脳に響く、とは、音源はまったく彼と無関係ではない
からで、むしろ彼は見事なまでに当事者なのである。まことに不本意甚だしいが。
何故忘れていたのだろうか。自分で自分が嫌になる。しかし覚えていたからと言って、何が
どう変わったわけでもないということは判りきっているのだけれども。それでも、こう、少なく
とも理解の助けにはなった筈だ。まったく何もないよりは、確実に。
ダンテはリビングの隅に蹲り、両手で頭をおさえている。唇はぴたりと閉じたまま、
やや尖り気味であるのは彼の機嫌が大いに影響を及ぼしている為だ。
「まだ拗ねているのか」
呆れたような声がしたが、ダンテはそちらを見なかった。声の主が誰であるかは判っているし、
何よりダンテの機嫌はまだ下降したまま――――いや、今声をかけられたことによって、なお
下がったと言って良い――――なのだから。
返事もせず、わざとそっぽを向いていると、やれやれとばかりにため息が吐き出されるのが
聞こえた。わざとらしく、こちらの耳に届くように。ダンテは眉を顰めた。が、やはり唇は
引き結んだままだ。
今し方の声の主が、肩を竦めたのが空気で判った。
「俺にうつらなかったことが、そんなに不服か?」
無遠慮に核心を突いてくる男を、ダンテは時折ひどく嫌いになる。もう少し優しいものの
言いかたというものがあるだろうに、まったく気遣いの一つもないのだから。
(ふん……)
心の中で、いじけたように鼻を鳴らす。実際、ダンテはいじけている。男、バージルの言う
「うつらなかった」とは、彼の現状そのものをバージルに伝染させようとして失敗したことを
指した言葉だ。
ダンテの現状とは。彼のそれぞれの掌の下で、押さえ付けたことによりひくひくと震える、
猫のそれと同じ形状の動物の耳。それから腰と尻の丁度間くらいにひょろりと伸びた、これも
猫のそれと同じ形をした動物の尻尾。これらが人間であるダンテに生えている、この状況の
ことだ。
ちなみにしばらく前までは、これらはバージルの頭と腰にあった。それが今ではダンテがこの
とおりの姿で、バージルはといえば耳も尻尾も跡形もなく消えているのだから不公平だ。
ダンテにこれらが「うつった」理由は、おそらくバージルに噛み付かれたことが原因だとダンテは
考えている。
現状にあるまで、その「うつされた」云々はバージルが主張していた言葉であった。バージルに
耳と尻尾が生える直前まで、ダンテには犬の耳と尻尾が生えていたのだ。そしてバージルに
噛み付いた結果、バージルにそれが「うつった」と。
しかし犬と猫だ。伝染するには無理があると、ダンテはバージルの主張を否定し続けていた。
それが、今度は自分がうつされてしまったわけだ。ダンテははじめ、何が何だか判らなかったが、
こうなって初めて、バージルの言葉は間違っていなかったらしいと気付いた次第だ。そして間も
なく報復を――――実行に移したわけなのだけれども。
耳と尻尾は今も、しっかりダンテの躰に生えている。
なんで、と声高に叫んだのはダンテで、そういうこともあるのだろう、としれっと言ったのは
バージルだ。しかもバージルの双眸には、まだこの状況を愉しめると確信した色があったのだから
ダンテは面白くない。
犬になっていたときもそうだったが、バージルのはしゃぎぷり(ある意味で、だ)は目に余る
ものがあり、正直、ダンテはもううんざりなのだ。それを口に出して言ってしまえば、また
バージルの怒りを買いかねないので黙っているけれど、それ故に鬱憤は溜まる一方だった。
「ダンテ、」
気を引こうとしてか、バージルがダンテを呼ばわる。その声音には僅かだが甘いものが含まれて
いるように、ダンテは感じた。似合わぬことだが、こちらの機嫌を取ろうとしているのかも
しれない。ならばよけいに乗ってやるわけにはいかないと、ダンテは半ば意地になって
バージルから顔を逸らし続けた。無論、唇はへの字に結んだままだ。
(俺のことなんか放っときゃ良いだろ)
完全に臍を曲げていることを、ダンテは自分のことであるのに全く自覚していない。内心に
あるのはバージルへの文句ばかりで、自分自身のことにまで意識が回らないのである。
そんなダンテを、バージルは何を思って見下ろしているのか。もちろんダンテには判らない。
そっぽを向いているから、兄の表情すらも視認出来ない。
兄は。かなり極端に走りやすい思考の持ち主である。そのことはダンテが最もよく知っているの
だが、しかし今のダンテにはそこまで考えが及ばないのだから仕様がなかった。
「ダンテ、」
もう一度、名を呼ばれた。そう認識したのと、肩を掴まれたのとはほとんど同時であった。
「ッ!?」
さすがに驚いて、ダンテは顔を上げ兄を見上げた。バージルは、微笑している。しかしそれは、
あまり拝みたくない類の笑みであって。掴まれた肩はみしみしと嫌な軋みを伴った痛みを訴えて
いる。
「バージルっ……」
痛い、と。訴えるが聞き届けられはしないだろうという、確信に似た予想はしている。案の定、
バージルはダンテの言葉など右から左で、白皙のおもてに嫌な微笑を貼り付かせたまま、ダンテの
肩を掴む手にいっそう強く力をこめた。
骨が軋むどころではなく、指先が食い込み肉が抉り取られそうだ。
ダンテはバージルの手首を掴み、やめろと叫んだ。兄の握力は凄まじく、引き剥がすことはほぼ
不可能だ。ならばせめて、力を緩めて欲しい。
「なぁ、って……!」
痛いのだ。とても、痛い。しかしバージルはいっこうに力を緩めてはくれず。
「俺を見ろ、ダンテ。目を逸らすな。顔を背けるな。俺が呼ばわれば返事をしろ。出来ぬなら、
出来るようになるまで調教してやろう」
処刑執行に匹敵するその言葉に、ダンテは一瞬にして蒼白になった。一度そうすると決めた
バージルは、なまなかのことでは意を覆さない。つまり、ダンテはバージルのなすがまま、
刑の執行を享受するよりないということだ。
(なんで、)
絶句する。機嫌をそこねていたのは自分だというのに、いつの間にかバージルを宥めねばならぬ
側に立たされてしまっているではないか。どうしてだ。今の今まで、バージルこそがダンテを
宥めようとしていたというのに。
「立て、ダンテ」
こちらへ来い。息だけで告げ、バージルが視線で指したのは二人掛けのソファーだ。そこで何を
するのか、ダンテは考えたくもない。が、こうなったバージルに逆らえる程、ダンテの肝は
据わっていなければ、命知らずでもない。
どうにもならない。
「っ……!」
引ける腰を持ち上げ、立ち上がるなりバージルに背中を突き飛ばされた。ソファーの肘置きへ
乗り上げるようにして、倒れ込む。常人よりもはるかに優れた身体能力を誇るダンテであるが、
それは双子の兄たるバージルも同じだ。むしろその能力は、兄のほうが上回ってすらいる。
腕で庇うことで腹をまともに打ち付けることは避けられたが、状況はよろしくないままである。
ダンテは素早く立ち上がろうとした。しかし、すぐ真後ろにいたバージルが、ダンテの頭を
鷲掴みにしてそれを阻止してしまう。ぎりぎりと指で頭を締め付けられ、ダンテは呻いた。
「っ、う……ぅ……、バ……、ジル……はな……ッ」
もちろん、バージルの手は離れない。しかし指先に込められた力は緩んだようだった。痛みが
引いた。頭に生えた猫の耳が、へにょりと垂れてぷるぷる震えている。が、これはダンテが
意図してのものではない。髪と同じ銀色の毛並みをした耳と尻尾は、ダンテの意思とはべつに
動いている。そう思っているのは、実は当人だけなのだが。
「怖いか、ダンテ?」
いっそ愉しげに、バージルが囁く。ダンテは唇を噛んで首を左右に振った。くつくつと笑う
気配が、間近でする。つんと、縮こまった耳をつままれ引っ張られた。
「これは、震えているようだが?」
こちらも、という尻尾を指してだろう言葉に、ダンテは顔が熱くなるのを感じた。誰の所為だと
言いたくなるが、ぐっと奥歯を噛み締めることで飲み込んだ。反抗がなかったことが面白く
なかったのかもしれない。
ダンテの頭から手が離れ、襟の後ろを掴まれ肘置きに突っ伏していた躰をぐいと引っ張り上げ
られる。喉が絞まり「ぐえっ」と情けない声がもれるが、バージルは素知らぬ顔だ。
引きずられるように、先にソファーに座ったバージルの膝に上半身を乗せ、膝は床につく
かたちにされる。
この恰好で何をするつもりなのか、ダンテはシャツからバージルの手が離されたことにほっと
しながら、首を傾げた。調教、というからにはそれにかこつけたセックスをするつもりなのだと、
ダンテは思っていたのだけれど。この体勢からそれに移行するものだろうか。いや、相手は
バージルだ。思わぬことをしでかす可能性は大いにある。
ダンテがぐるぐる考えていると、ふにりとバージルが耳に触れた。ダンテ自身の耳ではなく、
ふかふかの毛並みを持ったほうにだ。必要以上に敏感なそれを、むにむにと揉むようにされて、
嫌でもびくびくと震えてしまう。
「っ……ん、ん……」
声を出しては負けだと、いらぬ意地を張る。それはバージルにも伝わったらしく、ふんと鼻を
鳴らすのが聞こえた。
「声を堪えるな」
敏感な耳に吹き込まれ、あっと声を上げてしまいそうになるが、奥歯を噛み締めて耐えた。
「……好きにしろ。堪えられるものなら、な」
不吉な言葉を落とし、バージルは執拗に猫の耳をいじる。ばかりでなく、てろんと垂れた尻尾に
まで手を伸ばし引き寄せたものだから、ダンテは焦らずにはおれない。耳以上に、そこは敏感に
出来ているのだ。
ダンテは腰を振ってバージルの手から尻尾を救い出そうとした。が、その動きにまさか男を
煽る効果があるとは思ってもおらず。
「誘っているのか?」
喉の奥でくつりと笑うバージルに、「は?」と間抜け面をさらしてしまう。何故そうなるのかと
問いただそうとした口は、バージルに尻尾をいじられて、まったく不本意な声を上げるだけで
終わった。
「ひゃっ……!」
爪を立て(けれど痛みはない)、根元から先端までつつっと掻くようにされて、ぞくぞくとした
ものが尻から背中へ駆け登る。
「っあ、ぁう……ッん……んん……!」
早くも堪えられなくなって声をもらしたダンテへ、ふふ、などと愉しそうに笑う声が降ってくる。
悔しいが、ダンテを鳴かせることなど、ダンテのすべてを知り尽くしたバージルにとっては
簡単なことなのだ。
「もう辛抱堪らぬようだな」
意地の悪い揶揄に、ダンテはうなじまで朱に染める。バージルの指がうなじを撫ぜる、それだけ
でもうだめだった。
「ぁ……ッ」
ふるっと腰が揺れたことに、ダンテ自身は気付いておらず。見下ろすかたちにあるバージルは、
無論総てをその瞳に収めている。
「顔を上げろ」
命令口調はいつものこと。しかし声音は、何故だか柔らかくすらあって。バージルの機嫌の
上下についていけぬダンテは、目をぱちぱちと瞬かせた。
「何だ、その顔は? ……ふむ、足りぬということか」
一人で勝手な解釈をして、頷くバージル。ダンテは慌てて「違う」と否定したが、もはや遅いと
いうことは間違いない。
ダンテはその後、小一時間に渡ってバージルに耳と尻尾を撫で回されるという、一種の拷問かと
思える責め苦に喘がねばならなかった。
調教などという物騒な発言をそのまま実行されたほうがましだったのか、どうか。ダンテには
拒む権利はないのだから、どちらにせよ結果は同じようなものだったかもしれない。
にゃんてでした。