甘味
かろん、と氷がグラスの中で崩れる音が響いた。それが店内における最も大きな音だったという
のだから、その静けさは一種異様と言って良い。
場所はいつもの酒場だ。今夜もがらの良くない(とは、かなり控え目な表現だが)連中の吹き
溜まりのようになっている。これはほぼ毎夜のことで、店主は彼らを迷惑がることもなく、
相変わらず無愛想に注文を受け付けるばかりだ。
店にたむろする客の八割は荒事師や便利屋と呼ばれる生業とする人間である。残る二割は
仲介屋で、前記の人間を相手どり商売をする連中だ。
この酒場が、一般人ならば近寄りもしないようなスラムの真ん中にある理由は、客を荒事師や
便利屋に絞ってしまっているからだった。実際、店は夜毎満席で盛況である。仲介屋を介しての
仕事の請負といった手続き(というには上品さに欠けるが)は、ほとんどがこの酒場で行われる
為だ。かく言う彼もまた、飯の種を受け取るべく酒場に繰り出している。
ぴんと張り詰めた、いっそ息苦しさすら感じる空気の中で、平素と変わらず平然としているのは
ただ一人。彼の、ダンテの隣でいつものごとく酒を舐めている、銀髪碧眼の美丈夫だ。しかし
これは当たり前と言えば当たり前かもしれないと、ダンテはやや感覚の鈍った頭でそう思う。
何故ならば、この空気を作り上げたのは他でもない隣席の男だからだ。
男は名をバージルという。ダンテの、間違いなく血を分けた双子の兄だ。
バージルは場の空気がどうなろうと知ったことではないとばかりに(むしろ静かになったことに
機嫌を良くしているようでもある)、半ば呆気に取られているダンテに流し目を呉れた。
女ならば、これ一つで落ちるかもしれない。そうダンテが思う程、それはひどく艶な
仕種だった。
「早く喰え」
まどろっこしいと言わんばかりに眉を寄せるバージルに、ダンテは一瞬怯みこそしたがおもてには
出さず、こくこくと頷いた。バージルが視線で指したもの、それはさっきから手付かずになって
いるストロベリーサンデーだ。これを、ダンテは己の好物にしている。酒場でこんなものを毎回
注文するのはダンテしかおらず、しかしダンテは気恥ずかしさの欠片も感じることはない。
それが、この異様な静寂の根本の原因となったのかもしれないが、ダンテにその自覚はない。
ダンテはバージルに促されるまま、柄の長いスプーンを摘み溶けかかったラクトアイスをすくって
口に運んだ。頬には痛い程のバージルの視線。そして背中には、荒事師どもの戦々恐々たる視線。
いたたまれない、とはこういうことを言うに違いないと、ダンテは痛感しながらただスプーンを
動かした。
ことの起こりは、カウンター席に並んで陣取った双子に、とある荒事師がちょっとした悪戯を
思い付くように目をつけたこと。そのおかげでしばらくはこの界隈にいられぬようになるとは、
夢にも思わなかっただろうが。
ダンテは例によってストロベリーサンデーを、バージルはリキュールを、それぞれ注文した。
ダンテしか注文することのないストロベリーサンデーは、親爺がこだわり抜いてこしらえた
特別仕立てで、味がダンテの舌に合うばかりでなく腹にも程よい量だ。
かつかつと会話もなく熱心にスプーンを動かしていると、不意にバージルがダンテを呼ばわった。
と言って、名を呼ばれたわけではない。彼ら双子には、外では互いの名を呼び合わないという
暗黙の了解がある。だからそのときも、バージルは「おい」と口にした。
どこの熟練夫婦かと、冗談を言われたことをふと思い出しながら、ダンテはひょいとバージルへ
目だけを向けた。するとそれでは足りなかったのか、バージルが無造作に腕を伸ばしダンテの顎を
掴むなり、ぐいと自分のほうへ向けさせた。そして、
「もっと大人しく喰えんのか」
と小言を言いながら、慣れた手つきでダンテの口許をナフキンで拭う。ダンテのほうもそう
されることに慣れているから、疑問もなくただ享受する。しかし、周囲にとっては当たり前の
ことなどではなく。
「おいおい、ここァどこの託児所だ?」
顔の造作が好いとは言えぬ、体躯だけは逞しい男が呆れたように言った。無論、嘲っての言葉だ。
バージルはそちらに見向きもしない。ダンテとて、わざわざ相手をしてやる程暇ではなかった。
彼にはストロベリーサンデーという、目下集中せねばならぬ可愛い相手がいる。
さらりと無視された形になった男は、こめかみに青筋を浮かべた。腕を伸ばし、ダンテの肩を
無遠慮に掴むことで自己主張を図ろうとしたようだが、残念ながらその手が目標物を掴むことは
なかった。
何か大きなものが壁に叩き付けられる、すさまじい音が店内に響いた。それまで歓談に勤しんで
いた全員が、音のしたほうをいっせいに見る。その前から双子と荒事師のやり取りを盗み見して
いた者などは、目を真ん丸にして固まっていた。
男は、目立つ銀髪碧眼の双子より最も離れた出入り口脇の壁、その根元に尻餅をつく恰好で座り込み、茫然と己の首の横に突き立ったものを凝視している。すさまじい音がしたのは、男が背中から壁にぶち当たったからで、茫然としているのは、首の真横に突き立ったそれがあと僅かでもずれていれば頸動脈を斬り裂いていただろうから。そして当たり前だが、男は自ら壁に向かって行ったわけではなく、カウンター席からここまで驚くべき力でもって吹き飛ばされたのだ。
茫然と、愕然とする理由には尽きない。
その状況を作り出した人物――――バージルは、何ごともなかったかのようにリキュールの
グラスを傾けている。
そうして冒頭に戻るわけで、ダンテはもちもちとアイスを咀嚼しながら(おかしな擬音だが)
背後へちろりと視線をやった。こちらを見ていた荒事師が、そそくさと視線を逸す。何も
しねぇよ、とダンテは眉を顰めた。それにだ、あの男を吹き飛ばしたのはバージルに
他ならない。
もちもち、もそもそ、食べる。
何故か時間がかかったがようよう嚥下して、ダンテは唇を尖らせた。と言って、拗ねているのでは
けっしてない。
「相変わらず、容赦ねぇよな」
バージルはグラスを置き、そうでもない、
としれっとして言った。あれのどこに容赦や加減なぞ
あるのか、ダンテには甚だ疑問である。まぁ、男はまだ生きているのだから、それだけを見れば
確かに加減がなされたのかもしれないが、しかし。
「閻魔刀はよかったんじゃねぇ……?」
そこまで脅さずとも。そうダンテが言えば、バージルはひそと眉根を寄せた。
「あれを弁護するつもりか」
疑問ではなく、断定口調で言うバージルへ、ダンテはまさかと首を左右にした。が、一度そうと
思い込んだバージルを、軌道修正させることはほぼ無理に近い。そんなことはよく判っては
いるのだが、バージルのスイッチがいつどこで入るかという判断は、長年ともにいるダンテで
すらはっきりとは判らないのだ。
わざと地雷を踏んで自滅する人間などいない。ダンテがしまったと思うときには、たいていが
もはや手遅れなのである。
「俺はべつに……」
弁解しようとする口を、バージルが掌で覆うことで塞いでしまう。何をするのかと、
当惑しながらも睨んだ。バージルは何か薄気味悪くすらある笑みを浮かべ、顔を近付けて
ダンテの耳許に囁いた。
「悪さをせぬよう、躰に刻み込んでやらねばならぬらしいな、ダンテ……?」
不吉すぎる言葉。そして必要以上に低められた声音に、ダンテは我知らずぞくりとした。
その無意識にしてしまった反応に、バージルがくつりと、やはり低く笑う。嘲笑うような、
おもしろがるような。どちらにせよ、ろくな笑みではない。
「帰るぞ」
言って、バージルはダンテの返事も反応も待たず席を立った。革パンツの後ろポケットから、
金を出してカウンターに置く。
ダンテはまだ三分の一程残ったストロベリーサンデーと、兄とを交互に見やり名残惜しいのだと
アピールしたが、無駄だった。バージルの冷たい瞳にそれ以上逆らうことも出来ず、悪い、と
しょぼくれた呟きを親爺に投げて自身も腰を上げる。
「次はゆっくり食いな」
無愛想な筈の親爺の言葉はいやに優しくて、ダンテはじわりと涙が滲むのを感じた。
傍若無人な双子の兄。何故離れて暮らすことが出来ないのか、自問することはないけれども。
最悪の専制君主を兄に持った自分を、可哀想だと思うことは多々あっても、それでも。
己をして、不仕合わせだとは思わないから。(むしろ仕合わせだと思うから。)
せめて、ほんのもう少しだけ飴をおくれとねだるのは、おこがましいことなのだろうか。
途中から意図がわからなくなってきました(死)