転落
ちょろちょろと走り回る朱と碧のぬいぐるみ――――表現がいささかおかしいが、この家中に
おいては別段おかしなことではない。
ダンテは事務所、リビング、廊下、物置、とうろうろ屋内を歩き回っていた。捜しているものが
あるのだが、全く見つかる気配がないのである。洗面所を覗くが、やはり、ない。
「どこ行っちまったんだ……?」
頭の上に疑問符を乗せ、首を傾げる。いつもならばダンテの近くに必ずいるというのに、どうして
しまったのだろう。まさか、捨てられた、ということはない筈なのだが。
(やりかねねぇよなぁ……)
誰が、といえば、当然ダンテの双子の兄が、である。ダンテの捜し物と、兄とはおかしなくらいに
反りが合わないのだ。ダンテを間に挟み、いつも意味の判らない口論をし、最終的には兄が力で
もってねじ伏せる形で終了する、というのがパターンであった。折る、裂く、潰す等々、兄の
口からはそんな脅し文句が絶えないというのだから、珍しいことだとダンテは思っている。
兄は基本的に、好き嫌いをせぬ性格だ。総て物ごとは詰まらぬ些事とでも悟っていると言おうか、
何につけても好きとも嫌いとも断じることがないのである。
その兄が、あれが視界に入ることすら厭っているのだ。ただ珍しいというだけでは済まないと、
ダンテは思っている。
要は、拗ねているのだ。兄の感情の一部を確かに占めているものに、はっきりと言葉には出来ぬ
何かを感じてならなかった。
「ちっ……」
舌打ちをして、ダンテは捜し物の捜索を再開させることで、馬鹿な(としか思えない)思考を
無理矢理閉じた。
捜し物は二匹の小鬼。朱と碧の、ぬいぐるみのような姿をした二頭身のいきもの。
二階も総て見回ったが、やはりどこにもいない。
ダンテはがっかりしてリビングへ戻った。これが猫ならば、勝手に外へ遊びに出たのだろうとも
思えるが、あれは間違っても猫ではない。どちらかといえば、性質は犬に似たところがあるように
ダンテは思う。
ダンテを「主」と呼び、常にダンテの周りをちょろちょろするさまは、なるほど犬と言えなくも
ない。そんな性質であるからして、ダンテの知らぬ間にどこぞへ出かけるということはないと、
頭から思っても無理はなかった。
ため息を吐くと、どうした、と耳慣れた声が投げられた。声の主は無論、双子の兄だ。ダンテが
いつになく気落ちしているので、訝しく思ったらしい。
兄に朱と碧のぬいぐるみの所在を尋ねようとしたダンテは、しかしはたと思いとどまった。
この兄と小鬼らはすこぶる相性が悪い。どこにもいないと伝えようものなら、これ幸いとばかりに
捜索をやめさせられる可能性は高かった。
不自然に黙り込んだダンテを、兄は不審に思ったらしい。
「ダンテ? 何かあったのか?」
兄が手招きするのへ、ダンテはほとんど無意識に兄のそばへと近付いていった。ソファーへ座る
兄がダンテの手首を掴み、強く引くものだから、ダンテはふらふらと倒れ込むようにして兄の膝に
乗り上げる形になってしまう。
「なんだよ」
唇を尖らせると、それはこちらの科白だ、と兄が目を細めて言った。
「どうしたのかと訊いたのだが、何故答えなかった?」
低められた声音は、明らかに兄の機嫌が下降していることを示している。ダンテは我知らず唾を
飲み込んだ。兄の怒りは、鉄で出来ていると言っても過言ではないダンテの肝をも脅かす。
子どもの頃からの刷り込みがその原因の大半を占めるのだが、ダンテは一度兄が怒りを発露して
しまえば、おそれが勝ってどうすることも出来なくなるのだ。
下手に黙り込んだのが拙かった。反省をしたところで、もう遅いが。
引け気味の腰をぐいと抱き寄せられて、ダンテは「あう」と間抜けにも喘いだ。より近くなった
兄の表情、双眸は冷たい。
観念するしか、ない。元よりそれ以外にダンテに許された手段はないのだ。
諦観たっぷりに、けれどもぼそぼそとダンテは呟いた。
「あいつら、どこ行ったか知らねぇかって訊こうとしたんだよ。朝からずっといねぇから……」
と言っても、ダンテが目覚めたのは既に昼近くだったのだが。
兄はひそと眉間に皺を寄せた。わざわざ名前など出さずとも、ダンテの捜し物が何であるかは
すぐに判った筈だ。ダンテは上目遣いに兄の反応を待つことしか出来ない。おそらく突き放した
ように放っておけと言うに違いないと、ダンテは下唇の内側を軽く噛んだ。が、
「生憎、知らん」
素っ気なさは予想通り。しかし言葉自体は。
思わぬ答えに、ダンテはぽかんとなった。
「へ?」
「何だ、その顔は」
兄がダンテの頬に手をやり、むにりとつねる。痛みはない。むにむにとダンテの頬の肉で遊ぶ
ようにする兄に、やはりダンテは目を瞬かせるしかなかった。
何かが、おかしい。
「バージル、あの……?」
「奴らはお前の気に入りだろう。姿が見えぬと不安になる気持ちは、判らんでもない」
蛇足のように、兄がそう付け加えた。確かにあの小鬼らはダンテの気に入り(ぬいぐるみじみた
姿をしているときは)だが、それを認める言いようを兄がしたことにダンテは困惑せずには
おれなかった。ダンテの知る兄ならば、少なくともこんな平然とした表情でそんな言葉を吐く
ことはない。忌々しげに、皮肉っぽく、責めるように言う筈だ。
ダンテが言葉もない程戸惑いをあらわにしていると、頬をつねっていた指がするりと滑って
ダンテの耳にかかった髪に差し込まれた。ぞくっとする。この感覚はいつもと変わらない。
しかし。
「どうした、ダンテ。顔色が悪いが」
理由を知っていながらも、わざと訊いている。そんな意地の悪い笑みが兄の頬にはあった。
その笑みのかたちも、兄のもので間違いないのだけれど、しかし。
腰に回されていた腕が動き、ぞろりとダンテの脇腹を撫でる。思わず短い悲鳴をもらしたダンテを、
兄が底意地の悪い目をして覗き込んだ。
「相変わらず、感じやすいことだな」
揶揄されて、ダンテはかっと頬を朱に染めた。確かにダンテはどこもかしこも敏感であるし、
その自覚もある。だが誰の所為でそんな躰になったのか、知らぬ兄ではない筈だ。無論、兄は
判っていながらわざと揶揄しているのだけれども、ダンテは恨めしく思う。
(くそ、)
恨めしいが、今はこんなことをしている場合ではないのだ。自分に対してはいつもと変わらぬ兄が、
小鬼らに対してはどこか妙だというこの奇異を、何と判断すべきなのか。いや、それよりも、
ダンテは早く小鬼らを捜さねばならない。急ぎの用などあるわけもないが、なんとなく落ち
着かないのだ。
ダンテは悪戯をするように脇腹や腰を撫ぜる掌を意識しながら、兄の肩に当てていた腕を
突っ張った。
「バージル、離せよっ……」
そんな気分ではないのだと、兄を睨む。我が身を大事に思うならば、兄に逆らうべきではない
ことはダンテも判っているのだが、ただでさえ、兄は独断専行にすぎるきらいがあり、諾々と
流されるままになっていては、解放されるのはいつになるか判ったものではない。それに、
この兄はどうにも不審だ。
兄は案の定、気分を害したらしい。突っ張り棒のように伸ばしたダンテの腕を、片方掴んで
外させ(抵抗はしたが、簡単に外されてしまった)、体勢を崩したダンテの首にもう一方の
腕が伸びてくる。はっとしたときには、喉を片手で絞め上げられていた。
「ぁぐ……っ」
喉の中央を掌で、長い指で頸動脈を押さえられて、ダンテは引きつった悲鳴をもらした。苦しい。
外させようとバージルの手首を掴むが、びくともしない。今し方、ダンテの手はあっさり外されて
しまったというのに。悔しさに涙が滲む。バージルの手は弛むふうもない。
「ダンテ、何故俺を拒もうとする? お前はただ俺の言うなりになっていれば良い。そうだろう、
ダンテ?」
本当に不思議そうに言うバージルへ、ダンテは何を答えることも出来ない。酸素が欠乏して、
脳が平常の働きを失っているのだ。既に呻きすら出せぬようになっている。
「ダンテ、ダンテ、ダンテ」
うわ言のように、バージルがぶつぶつと繰り返しながらダンテの首を絞める手に力を込めていく。
こわい。純粋にこわいとダンテは思った。
(なんなんだよ、これ……)
霞がかった思考の一片で、ダンテはまなじりに溜まった涙が一つ、こぼれ落ちるのを感じて
ため息をこぼした。意識が遠のく。総てが黒に塗り潰される。
死とはこういうものなのかと、ぼんやりと思いながら意識を失った。
「……テ、おい、ダンテ、」
低い声。聞き慣れたそれはダンテが誰のものよりも一等好きな声音だ。
バージル。名を呟くと同時に、どうしてだろうかと不思議になる。
首を絞められて、ダンテは意識を失った。死んだのだろうと思ったのに、自分はまだ息をしている
らしいことが、不思議でならなかった。
(な、んで、バージル)
どうして殺さなかったのかが、ダンテには判らない。
「ダンテ」
また名を呼ばれて、ダンテはようよう目を開けた。もしかすれば、意識を戻させておいてまた首を
絞めるつもりなのだろうか。意図が読めず(読めるわけもない)、ダンテは視界いっぱいの兄の
顔を焦点の合わぬ瞳でぼんやりと見つめた。
「目が覚めたか」
やれやれとばかりに、バージルがため息をもらす。ダンテの額に手をあて、何ともないか、と
判らぬことを言う。
(首、絞めといて)
何ともないか、はないのではないか。何ともないわけがないと、ダンテは抗議しようとしたが、
出来なかった。ベッドに寝かされているらしい躰が、何故か全く持ち上がらないのだ。困惑して
いると、バージルがダンテの額をするりと撫ぜて言った。
「頭と背中を強く打ったんだろう。階段の上から下まで逆さに落ちれば、普通は死んでいる
ところだ」
「え?」
階段? 逆さ? バージルが何を言っているのか、ダンテは全く理解出来なかった。ダンテは
兄に首を絞められたのであって、階段から落ちたわけではないのだが。しかし、ダンテの首を
絞めた筈のバージルは、そんなことは知らぬとばかりにダンテの額を撫で続けている。わけが
判らない。
「バージル、俺……?」
ぽかんとしたダンテの様子に、バージルは眉を顰めた。まさか覚えていないのかと問われ、うん、
と即座に顎を引く。バージルのため息。
「頭を打ったからか……階段から落ちたことは覚えていないんだな?」
「さっぱり」
「では、奴らを捜していたことは?」
奴ら、と言ったところで、ダンテの枕許で朱と碧の塊がぴょこぴょこと跳ねた。
「主よ、大事ないか」
「大事ないか、主よ」
ダンテの双眸がそれらを映すと、喜びのあまりか二匹がダンテの頬にすり寄ろうと短い両腕を
広げた。が、バージルの手で容赦なく打ち払われてしまい、目的達成はなされない。
「八つ裂きにされたいか? ダンテに近寄るなと、何度言えば判る」
完全に本気なのであろう冷たい語調に、小鬼らはブーイングをしながらもベッドの隅で固まった
ままだ。何度となくバージルによって鉄鎚を下されているだけに、ある程度の聞き分けは出来る
ようになっているのだった。
見慣れたいつもの光景に、ダンテはほっとするものを覚えた。あまりにもほっとしすぎて、
視界が滲む。
「バージル、」
呼ばわると、バージルはダンテのほうへ向き直り、
「まだ痛むか?」
と額を撫ぜる動作を再開させた。ダンテはゆるく頭を左右にして、腕を持ち上げた。どこをどう
打ったのか打ったのか、躰は変わらず鉛のようだが、腕はどうやら自由になるらしい。
掲げた腕の意味を、聡いバージルはすぐに察したようだ。くすりと笑って、ダンテの腕を自身の
首の後ろへ導くように回してくれた。ぎゅうっと抱き付くと、バージルも強く抱き返してくれる
ので、ダンテは嬉しくなる(馬鹿かと言われても構うものか)。
「主よ、抱き合うならば我とするが良いぞ!」
「我は準備万端調えておるぞ、主よ!」
ぴぃぴぃと喚く可愛げのない声に、ダンテはバージルの首筋に顔をすりつけながら微笑する。
あれは夢だったのだ。冷酷無比を地で行く兄に抱き付き、その脇には喧しい程に喚き散らす
小鬼ども。こんな日常を欲する人間などどこにもいるまいが、ダンテにとっては大切に違いない
日常なのだ。
ダンテは犬のように鼻をひくつかせ、バージルのにおいをいっぱいに吸い込んだ。
裏に置くか悩んで、結局こっちに。
なんとなく気持ち悪く変な兄は夢オチでした、と。