銀貨ギンカ









ページを繰る、指先を。いつも、じっと見ていた。
一定間隔に動き、止まることのない指を。
文字を目で追うのは好きではないけれど、紙のすれ合う音は、嫌いではなくて。

気付いてくれなくても構わないから、ただ、じっと。



そばに、いさせて。





目覚めはいつも、一人きり。


ダンテはのそりと躰を起こし、まだ寝ぼけた頭でぼんやりと部屋を見渡した。いつもと変わらぬ 散らかった部屋は、どう眺めてもダンテ自身の部屋以外の何ものでもないことを教えてくれる。 綺麗に整頓された(というより、極端にものが少ない)兄の部屋では、間違ってもない。それが ダンテを少しばかり落胆させ、無意識にため息をこぼさせた。

昨晩は双子の兄であるバージルとは同衾しなかった。週の半分か、ときには毎日、ダンテは兄と 同じベッドで一枚のシーツに包まれて眠る。ただともに眠るだけでないということは、もう いまさらのことだろう。
彼らは間違いなく血を分けた兄弟でありながら、肉体の関係を結んでいる。それはもう随分と 以前からの話であり、おかしいことだとはダンテは思っていない。もっとも、世間的な視点から 見れば、実の兄弟でセックスをするなど言語道断、非難されるのは当たり前……であることは ダンテも知っている。その点では、ダンテのほうが兄よりも世間というものをよく判っている のだ。しかし、世間体を気にするダンテではなく、そもそも世間なぞの目を憚って兄との関係を 断ち切るなど、出来そうもないのだから仕様のないことであった。

のそのそとベッドから這い出し、ダンテは足許を見回した。脱ぎっぱなしの服と洗濯された服と が、ごっちゃになって床に散らばっているこの状態に、兄は完全に無視を決め込んでいるようだ。 片付けろと言われても、兄の期待通りの働きなどダンテに出来るわけもないのだから、無駄なこと と諦めているのかもしれない。自分のことにはとくに無頓着なダンテには、いかに部屋が 散らかっていようとも、何も気にならないのだから整頓の仕様もなかった。
寝着を脱ぎ、無造作にベッドに放ってシャツを適当に拾い上げる。色褪せたジーンズを穿けば 着替えは終了だ。あとは階下へ行き、顔を洗ってリビングへ――――その間に、兄が苦い コーヒーを淹れていてくれる。そう、いつものように。

「……なんか、なぁ……」

意味のある呟きではなかった。ダンテは廊下へ出るドアを見やり、それから窓へ視線を投げる。 何かうまくは言えないが、いつものように部屋を出てリビングへ行くということが、ひどく 納得出来ないことのように思える。何故かなど、しらない。衝動的に、といえば、そう。

ダンテはドアへは向かわずに、ブーツをひょいと引っ掛けて窓へ躰を向けた。あちらとこちらを 隔てる硝子を開け放った先には、薄汚れたコンクリートの灰と、よく晴れた空の青。強くはない 風がふわりと頬を撫で銀の髪を梳き、まるでこちらへおいでと呼んでいるようにダンテは 感じた。

ただの錯覚でしかないことは、判りきっているのだけれども。

窓の桟に足を掛け、ひょいと窓の外へ身を乗り出せば。こんなにも簡単に、自由になれる。





目覚めたらしい気配があったというのに、いつまで経っても弟がリビングに姿を現さない。
バージルは膝に広げていた本に栞を挟んで閉じ脇に避け、一つ肩を竦めてソファーから立ち 上がった。ちらと見やった壁掛け時計は、既に昼の一時を指している。いつも弟が起きてくる 時刻よりも、一時間あまり遅い。
朝の早いバージルには、どうすればこんな時刻まで眠っていられるのかが、甚だ疑問でならない。 同衾した日の翌朝のことならば、判らないでもない。しかし昨晩はそれぞれの寝台で眠ったし、 寝台に入る前も躰は繋げていなかった。しかも仕事も入っておらず、疲れる要素は一つもなかった 筈である。

(手間のかかる……)

まったく、愚弟を持つと苦労が絶えない。

バージルはリビングを出て、階段の先を睨むように見上げた。弟に手間がかかるのはいつもの ことだが、呆れはするものの、弟のことを放り出そうなどと思ったことは一度たりともない。 弟が傍らにいるからこそ、バージルは今この世に存在するのだ。彼が存在していなければ、この 世には何の価値もない。バージルはそう思っているし、バージルにとってはそれが総てで あった。
毎日毎日、遅く起きてくる弟にコーヒーを淹れてやるのにも、慣れた。いつも苦いと弟は言う けれど、マグカップに飲み残しがあったことはない。ソファーに座るバージルと、床に腰を下ろし ソファーを背凭れにする弟と。バージルにとっての大事とは、この小さな小さな世界ただ一つ なのだ。

階段を上がり、弟の部屋の扉へ向かう。やけに静かであることに、眉を顰める。あちらとこちらを 隔てる一枚の板に何故か妙な苛立ちを覚えて、バージルは少々荒っぽく扉を開けた。
散らかり放題の、弟の性格をそのまま反映したといっても過言ではない、乱雑な部屋。家具と いえば寝台くらいのもので、弟がいるとすればその寝台の上しか場所はない。その、筈が。

「…………」

バージルの眉間に刻まれた皺が、深く濃いものになる。いない。弟が部屋のどこにもいないのだ。 その代わりにとでも言おうか、ささやかな風が窓から漂いバージルの鼻先をかすめていく。
素早く部屋を見渡す限り、服が一式とブーツ(最近はそればかり履いている)が消えていることが 判る。そして、開け放たれた窓から推測されることはただ一つ。

「逃げた、か」

別段、捕らえているわけではないのだから、その表現は語弊があるに違いなく、しかしバージルは 疑問には思わずさらりと口にした。
弟が、逃げた。何故かなど、判るわけはない。判らないが、あってはならぬことであることだけ は、確かだった。





ダンテはどこか覚束ぬ足取りで、ふらふらと路地裏を歩いていた。本人には、けっしてふらふら しているつもりはない。とはいえ、しっかり地面を踏み締めているという自覚もなかったが。
ぶらぶら歩いているだけに、どこに向かう目的があるわけでもなく、何なら立ち止まっていても 問題はないのだ。しかしダンテは足を止めない。歩く理由もない代わりに、立ち止まる理由も ダンテは持っていなかった。

衝動。ただそれだけが、ダンテの躰を動かしている。

路地裏は程よく暗い。見上げた空は青く眩しいのに、その光はダンテがいる場所には半分程しか 届かないのだから不思議なものだ。たとえ光が射したところで、スラム街は所詮暗いままかも しれない。
もともとの印象が明るくなりようのない場所に光を持ち込もうとするのは、いっそ無謀なこと なのだろうか。例えばここが、数多く存在するスラム街の中でも一等治安が悪い場所でなければ、 ダンテは店を構えることはしなかった。万が一にもこの地区の治安が良くなることがあれば、 ダンテは別の地区に移るだろう。
まぁ、そんなことはまさかに起こるわけもなく、ダンテの店は変わらず在り続けるに違いない が。

店は、ダンテの好みをそのまま反映して作らせた。だから兄にはどうも気に入らないのだろう、 いずれ改装するつもりでいるらしき気配を、ダンテは感じ取っている。その際には、最低限の 主張は通したいと思うダンテである。
兄に真っ向から歯向かうつもりは、ない。無論従順でいようとも思わないが、下手な反抗は ダンテ自身を危うくしてしまうことを、よく理解しているダンテだ。自身の迂闊なところも 心得ているダンテは、だからこそ兄に対しては慎重にならなければいけなかった。

ぐるぐると、頭の中では要らぬことばかりが巡っては消えを繰り返す。それらの思考総てが 兄に起因するものであるということを、ダンテはおかしいとは思わずにいる。ダンテは己の 信じる正義を貫く為に剣を背に負い、銃を腰に携えた。が、ダンテがこうして息をしている 第一の理由は、けっして信念の為のみではない。

兄の傍らに在り続ける為に、ダンテは今も、生きている。





弟を捜し出すことは、実はさほど難しいことではない。幼い頃はよく、二人きりでかくれんぼなど したものだ(大抵、バージルが鬼役を買って出た)が、その時から弟を見つけることは得意で、 一種特技のようなものだった。人には判らぬこつが、あるのだ。それを知るのはバージル一人で あり、誰ぞに教えるつもりは一切ない。弟に関する何もかもが、バージルは己一人のものと思って 疑いがない。
当たり前のように、バージルは弟を束縛する。バージルにとっては当然かつ自然なその行為は、 他者から見れば異常でしかないのだが。

あまりにも強すぎる執着が、ときに弟の精神を危うくするのだということにも、バージルは 気付いていない。バージルはただ己のあるがままに在り、最愛の弟を思うさま愛でているだけ なのだ。

薄暗い路地裏を歩きながら、バージルは何気なく空を見上げた。天は青い。澄み渡ったその色は、 弟の瞳の色を真似ているかのようだ。薄汚れたスラム街には似つかわしくない、穢れを知らぬ 美しい色――――表現としては、どうにも陳腐だが。
そよりと頬を撫でる風に、バージルは弟の気配を感じ取った。遠くではなさそうだとあたりを つけ、真直ぐに路地を歩いていく。急ぐ必要はない。急いた足取りで駆け付けるなど、バージルの 性質上有り得ぬ話だ。
焦っては獲物を取り逃がす可能性が高くなる。幼かった頃の、二人きりのかくれんぼ――――鬼役 のバージルの心情は、獲物をじりじりと確実に追い詰める狩人のそれとよく似ていた。どこか (二人きりのかくれんぼはいつも、屋内で行われていた)に隠れて息を潜める弟を、ゆっくり 時間をかけて捜し出すことに、バージルはほの暗い愉悦を覚えていたものだ。
我ながら陰湿な子どもだったと、思う。しかし反省しているかといえばそうではなく、むしろ今も その性質はまるで変わっていないという自覚がある程だ。弟もおそらく、判っているだろう。 しかし弟がバージルを厭わしいと言ったことは一度もない。敵同士として剣を交えたあのときで すら、弟はバージルに嫌悪と名のつく感情をぶつけては来なかった。

弟はバージルとは違い、心根が真直ぐでありすぎるのだ。もっともこれがふんだんに自身の願望も 含まれた評価だとは、バージルは気付いていないけれども。





ほどなく、ダンテはバージルによって発見された。歩き続けていると思っていたのはダンテの 頭の中だけのことだったらしく、実際にはスラム街の外にも出ていなかった。路地の隅にしゃがみ 込んで、ぼんやりとどこともつかぬ中空を見つめていた双眸に、突然バージルが現れたのだから 驚かぬわけがない。

「……ばぁじる……?」

茫然としたように、舌足らずに兄の名を口にして、ダンテは無意識に後退りをした。バージルの 双眸に剣呑とも言える厳しい光が宿っているのは、いつものこと。にもかかわらずたじろいた 理由は、ダンテ自身にも判らなかった。
ただ、叱られると子どものように思った。
逃がさぬとばかりにバージルの腕が伸び、ダンテの二の腕を荒っぽく掴んだ。思わず「ひっ」と 悲鳴を上げたダンテだが、バージルの手を振り払う間も与えられず、引き寄せられる。瞬きを したときには、もうバージルの腕に絡めとられ、身動きもままならなくなっていた。

「俺から逃げるなど、出来ると思うな」

バージルの低い声が耳朶をなぞる。ダンテはバージルの肩をぎゅっと掴んだ。そうするより他に、 ダンテが出来ることは何もないように思えた。

「何を思って、部屋を抜け出した?」

少しばかり柔らかさを含んだ声が、問うてくる。ダンテはほっとして、強張った全身から力を抜き、 バージルの肩に顎をすり付けるようにして、首を傾げた。

「……判んねぇ」

衝撃、だった。理由をつけるなら、それだけだ。しかしその理由を言葉にすることは、ダンテには 出来なかった。頭の中に浮かぶ言葉と、実際に音として発する言葉とは、まるで別ものなの だから。
何となく、外に出たかった。何も告げずに出てきた理由は、やはり判らない。

バージルの右手が、ダンテの後ろ髪をくいと引くように梳いた。

「二度と、知らぬ間に逃げるような真似はするな」

(逃げたんじゃない。逃げるわけねぇ。……けど、)

ダンテは黙って、こくんと顎を引いた。見目よりもはるかに厚みのあるバージルの肩に、猫の ようにすりりと頬をすり寄せる。
バージルにこうして抱き締めてもらうのは一昨日ぶりのことだと、ふと気付いて。
何故だかこぼれそうになった涙の粒を、瞬きをすることで遠くへ弾いた。

乾いたアスファルトに、ぽつりとひとつ、雨粒が染みる。





離れられない。

この、何よりもいとしい存在から。



















戻。



説明のしようのないことというのは、けっこうあるものだと思うのです。