音色
聴いたことのある音だと、思った。しかし耳に入ってくるこれは少しばかり調子外れで、記憶に
あるそれとは微妙に違っているようにも聞こえるから、確かなことは言えなかった。
けれども、嫌いな音では、ない。
この調子の外れた音にしろ、他の人間はどうあれ、耳障りだとは思わない程度には。
ダンテはよく、気付けば何か口ずさんでいる。テレビなどのメディアに全く興味のないバージル
は、流行の音楽などからは遠く離れた場所におり、ダンテが口ずさむ曲が何であるのか、判らない
ことは多かった。そもそも、ダンテの喉が紡ぐ音はどれも僅かに原曲とは違っているらしく、
たとえバージルが原曲を知っていても、結局は首を傾げていただろうが。
双子の弟は、とにかくいつでも何かしらの音を発せずにはおれないのだろう。何も口ずさんで
いないときは、ひたすら喋っているダンテである。相槌も何も求めていないらしく、バージルが
話を右から左に聞き流していても、とくに気にしたふうはない。ただ傍らに在るだけで、この弟は
満足であるようだった。離れていた一年間、どのように過ごしていたのか疑問に思うのは、
こういうふとしたときだ。
バージルは右斜め下方にある、ダンテのつむじを見下ろした。膝に乗せた本は、先程から少しも
読み進んでいない。とある革命家の著書――――図書館で借りたのは昨日のことで、もう残り
十数頁程で読み切ってしまう。ダンテに言わせれば、バージルの活字中毒は末期だということだ。
そうでもない、としれっと返し、呆れ顔で見つめてきたダンテを無理矢理組み敷き行為を強いた
ことはまだ記憶に新しい。
バージルにすれば、本などよりも格段に“嵌まって”いるものがすぐそばにあるのだから、
活字中毒などという言葉に納得が出来ないのは当然のことなのだ。ただそれを、ダンテが知らずに
いるだけで。
バージルは双子の弟を性的な意味で抱くことに、一切の疑問を感じていない。むしろこれは
当たり前の行動だと思っている節があり、世間の基準に合わせようなどとは思ったこともない。
バージルにとって、社会などというものは総てが余所事だ。己の世界は己とダンテだけでぴたりと
閉じており、それを自覚しているからこそたちが悪いのだ。
ダンテの鼻歌は、調子外れであるわりに柔らかな音を紡ぐ。先日、バージルが骨董品店に足を
運ぶ際、自ら進んで同行してきたダンテが、古い蓄音機に興味を示していたことを思い出す。
真新しい玩具を前にした子どものような顔をして、蓄音機に魅入る姿は一種見物だった。
欲しいのかと問うてやれば、少し悩む素振りをして、首を左右にしたダンテだったけれども。
歌が好きなのは母譲りだろうか。しかし母はダンテとは違い、歌が巧かった。柔らかな声が紡ぐ
音はバージルもダンテも好きで、よく歌って貰ったものだ。
ダンテが口ずさむ歌の半分は、かつて母が彼らに歌って聞かせたものが占めている。無意識に
している選曲であろうと、バージルはあたりをつけているが。
不意にダンテの鼻歌が止んだ。何をか考えているのか、黙り込んだダンテをバージルは何を問う
こともなく静かに見下ろす。
しばらくして、
「……喉、渇いた」
ぽつり、と。呟いたのは無意識にしたことだったのだろう。バージルが立ち上がり、待っていろ、
と告げるとダンテは、驚いたようなきょとんとした顔でこちらを振り仰いで。
「? 何を」
などと本気で首を傾げているものだから、バージルは眉を顰めた。
「喉が渇いたのだろう?」
「へ? 何で判ったんだ?」
「……コーヒーで良いな?」
呆れつつ、他の選択肢を与えなかったバージルに対し、ダンテは素直に首を縦にする。
「う、うん。……」
まだ何か納得していないふうではあるが、説明してやるのも面倒だ、バージルはしきりに首を
傾げるダンテを残してキッチンへ向かった。ついでに自分のコーヒーも淹れることにして、
ダンテのものと二つ、マグカップを棚から取り出す。カップの縁を指の腹で拭うのは、ただの
癖であって意味などない。
バージルは濃いエスプレッソを好む。ダンテは反対に薄いアメリカンを好む傾向にあるの
だが――――エスプレッソで構わないだろうと勝手に判断したバージルの耳を、いつもの聞き
慣れた歌が撫でた。ダンテがまた、歌を再開させたらしい。とはいえ声はさして大きくなく、
むしろ囁き程度だが、聴力も人並み以上であるバージルには、耳を澄ませる必要を感じない
音量だ。
口ずさむ音は、母の好んだそれ。ダンテが歌うと音程が少し外れてしまうのは、いっそ愛嬌と
思うようになっているバージルである。
ダンテの歌を聴きながら、コーヒーを淹れるというのも悪くはない。そう思いあるかなしかの
微かな微笑を浮かべたバージルは、ふと目を上げ、いつからかこちらを眺めていたらしいダンテと
視線が絡んだ。と、ダンテは何故か歌うのを止めてしまった。恥ずかしいとでも思ったのだろう。
バージルは眉根を寄せてマグカップを手にキッチンと続きになっているリビングへ戻り、
テーブルに並べて置いた。
「何故、止める?」
聴いていると思っていなかったのか、ダンテは気まずそうに視線を泳がせる。バージルは
ソファーに腰を下ろし、ダンテの頭をくしゃりと掻いてやった。
「お前の声は、悪くはない」
だから歌っていろ、と。我ながら馬鹿に優しげな声だと自覚しつつ促すバージルを、ダンテは
そうっと振り返って。上目遣いに見つめてくるそれは、幼い子どものようだ。
「何だ」
何をかねだってくるときの顔だとバージルはすぐに察したけれども、あえて判らないふりをして
やると、ダンテは言いにくそうに口をもぐもぐさせた。
「あの、さ、」
言い淀み、しかし引っ込める気はないらしく、ダンテはぼそぼそと言葉を繋いだ。
「たまにはその……アンタの歌も聴いてみたいって、思ったんだけど……」
駄目だよな? と。
「悪い、忘れて?」
バージルは一言も発していないというのに、ダンテは勝手にそう言ってくるりと顔を元に戻し、
自分のマグカップを両手で包み込むようにして引き寄せた。ふぅふぅと黒い水面に息を吹き
掛けるダンテへ、バージルは肩を竦める。
「……誰が駄目だと言った?」
その言葉に、ダンテの肩がぴくっと跳ねる。
「手前勝手な解釈をして、俺から逃げるとは良い度胸だな、ダンテ?」
言いざま、バージルはダンテの脇に腕を差し込み、反動もつけず抱き上げた。思わぬことに、
ダンテが声を上げる。
「わ……ッ!?」
ダンテがマグを押し抱いたままだということはもちろん判っている。無様にダンテの服に染みを
作るようなバージルではなく、膝の間に座らせぴたりと抱き寄せたダンテのマグから、コーヒーは
一滴たりともこぼれていなかった。
「何だよ……」
すっぽりとバージルの腕の中に納まったダンテが、尻をもぞもぞさせて小さく文句を言う。
バージルはダンテの横に流した髪を掻き上げ、姿を見せた耳朶をやわく食んだ。ぞくりと、
ダンテが背筋を震わせる。
「ん……ッ」
甘い声だ。自覚がないからこそ、いっそう。
「歌って欲しいのだろう?」
囁きながら首筋に犬歯を押し当てれば、ダンテは吐息をもらしつつ肯首する。目の前のまたたびを
無視出来ず、すり寄ってくるさまがいかにも愛らしい猫のようだとバージルは思った。
「ならば大人しくしていろ」
ダンテの腹に絡めた腕に、恐る恐る触れるものがある。それがダンテの手であることは
間違いない。マグカップから片方、手を外したのだ。
バージルは口の端に笑みを乗せ、息を吐くように口を開いた。歌はさして得意ではないが、
聴いているのはダンテのみだ。もっとも、バージルが歌って聴かせるのもダンテ一人よりほかに
ないのだが。
選んだ曲は、いつか母が、双子の枕許で歌ってくれた子守唄。儚げな音色をそのまま再現する
ことは、自分には出来ないけれども。
弟をゆったりと抱き締め、その艶やかな髪の感触を頬に。
兄の唄はただ、愛すべき弟の為だけに紡がれる。
しばらくして、
弟は兄に凭れてすっかり寝入ってしまい。
兄は弟の首筋に顔を埋め、しかしこちらは眠り込んではおらず。
テーブルの上には空になったマグが二つ、仲良く寄り添うように並んでいる。
いつものこととはいえ…恥ずかしい兄弟です。