肉刺
少しで、良いから。
黒い影がさっと視界の端に入り込んでくる。ダンテは銃の手入れをする手を少し休め、付かず
離れずのところに腰を下ろした黒い塊を見やった。黒いものは、名をユタという。ダンテが
付けた名で、黒の毛並みが艶やかな野良猫である。
名も与えたというのに、野良と言うのは少々おかしいかもしれないが、ダンテにはユタを
“飼っている”つもりが全くないのだから、あながち間違いとも言い切れない。その為、首輪も
着けさせていなかった。野良に首輪など、邪魔なだけでものの役にも立たぬだろう。
ダンテはあくまで、ある日出合った一匹の黒猫に、雨露を凌ぐことの出来るねぐらを提供して
いるだけなのだ。
黒猫はダンテによく懐いている。どうやら頭も良いらしく、油断したりへまをしたりすると
叱られることもしばしばだ。たかが猫に説教をされるなんて、と人は思うかもしれないが、
ダンテはそう思ったことは一度もない。
猫は、ダンテにとって飼い猫でこそないけれども、今では己の一部と言っても過言でない程、
そばにいるのが当たり前になっていた。
だから現在も、猫はダンテの視界の中にいる。賢い猫だと、つくづく思う。馬鹿ではないが、
頭の足りないところのある自分に、何故懐いているのか不思議に思うこともあった。が、訊いた
ところで仕様のないことだ。そばにいれば心地が好い。それだけで良いと、ダンテは思う。
ひとりは、さみしい。
目を手許に戻し、再び銃の手入れに集中し始めたダンテの傍らで、ユタは躰を丸めてじっと彼の
横顔を見つめた。
ダンテはよく、銃の手入れをする。自作したという愛用の銃を器用にばらばらにし、部品を
一つ一つ丹念に磨いてまた元通りに組み立てる。何ごとにも無頓着で、およそ几帳面とは程遠い
ダンテであるが、銃に関しては別問題であるようだ。最も、銃は見た目こそ武骨だがひどく
繊細な代物であり、手入れはこまめにしてやらねばいざというときに弾詰まりを起こし兼ね
ない。ダンテのように、微に入り細に入り磨き上げて、やり過ぎということは全くなかった。
その、銃にかかりきりのダンテを、ユタはいつもこうして眺めている。普段はおどけて見せる
ことの多いダンテが、このときばかりは真剣な表情で銃に向き合うのだ。初めは、珍しさから
興味を持ったというのが本音である。
ダンテはユタの主人だ。それはユタの心中でのみ誓われたもので、肝心のダンテは何も知らない
ことである。
彼の与り知らぬところで、ユタとの繋がり(精神の、とでも言おうか)は日に日に強くなって
いる。が、やはり彼はいまだに何も気付いてはいない。無頓着というか、鈍くありすぎるという
か、どちらが正しい言い回しかなどユタには判らない。
気付かなくとも良いと、ユタは思う。
ダンテとの関係は、このままのほうが良好なのだ。何だかんだといって、ダンテは無意識に
ユタの言葉を理解しているようであるから、余計にだ。
にゅう、と小さく鳴けば、手許に集中していたダンテが視線を上げる。空を切り取った碧眼が
ユタを見つめ、ふわりと笑った。
けっして、多くは望まない。
飯だ、と低い声が告げるのへ、ダンテは勢いよくそちらを見た。双子の兄であるバージルが、氷の
ように冷めた双眸にダンテを映している。バージルの目は、いつも冷たい。しかし怒っている
ときとそうでないときの違いをダンテはよく知っており、今は怒っていないのだと知れた。
バージルは誰もが口を揃えて鉄面皮の冷血男と言うが、感情の起伏がないわけではない。とくに
怒りに関しては、ダンテはほぼ毎日目にしていると言って良いだろう。
バージルの機嫌を損なわぬよう、ダンテは銃を組み立てずに黒檀のデスクから立ち上がった。
ばらばらの部品たちが恨みがましく見上げてくるのを、後でな、と内心で詫びつつ振り払う。
銃は大事だ。これは当たり前のことで、だからこまめに手入れもするし、面倒だと思ったことは
一度もない。が、何よりも優先させ得るかと言えば、そうではなかった。
「途中だったのだろう?」
ばらしたままで良いのかと、バージルが問うてくる。ダンテの答えを知っていて、わざと訊いて
いるのだ。人(自分たちは半人半魔だけれど)が悪いと、ダンテはつくづく思う。
「後で良い。それよか俺、腹減ったし」
いくら空腹でも、バージルが呼びに来なければダンテは最後まできちんと銃の手入れをし、
組み立てていただろう。だからといって、バージルの為だと恩に着せるようなことはダンテは
しないが。
バージルは猫のようにすり寄るダンテの髪に指を差し込み、するりと梳いた。
「ならば、来い」
双子の兄弟だというのに、バージルはダンテに対し常にこんな口調でものをいう。専制君主の
ような性格だと、ダンテは呆れるもののさして不快とは思っていない。何故かと問われれば、
首を傾げてしまうのだけれども。
(慣れ、とか)
理由をこじつけることは出来る。けれど、しっくりくる理由を見つけることは出来ないのだ。
結局、まぁ良いか、となるのが常である。
当然のように先に歩き出したバージルのあとを、ダンテは疑問もなく追う。その後ろから、
黒い猫がひそりと付き従って来るのが判り、無意識に笑みを浮かべた。頭の良い黒猫は、ダンテの
心を読み取っているかのように、ダンテの望む行動を取る。
黒猫がててっと駈け、ダンテの腰を一つ蹴って肩へと飛び乗った。落ちないように腰を据え、
長い尻尾をくるりと反対の肩に引っ掛ける。首に巻き付くような恰好で落ち着いた黒猫へ、
ダンテは手を挙げて喉をくすぐってやった。黒猫がごろごろと喉を鳴らす。
「お前も腹減っただろ」
銃の手入れをするダンテのそばで、ただじっと座っていた猫へ、言う。
「付き合わせて悪かったな」
黒猫は目を細めてくるると喉で鳴いた。
「好きでしてることさ。気にしなくて良い」
そんな声が耳のすぐそばで聞こえたかと思うと、ふかふかの毛皮が頬にすりりと心地好い感触を
くれる。ダンテが思わず顔を綻ばせたところへ、不意にバージルがこちらを振り向くので、
ぎくっとしてしまった。
「……何をしている」
冷え冷えとした声音で言ったバージルの、鋭い視線はダンテの肩――――黒猫に注がれている
ように思えたが、
(んなわけねぇか)
相手は猫だ。
そう、あっけらかんと思って内心で肩を竦めた。目下ダンテが気になるのは、バージルの機嫌が
下降しているらしいこと、だ。何が原因でかは、判るわけもない。
馬鹿なことを、と自覚はしている。
ダンテの肩に我がもの顔で腰を落ち着ける黒い塊を、バージルは睨まずにはおれなかった。
双子の弟は膚触りの良いものをとにかく好む。それが判っているのだろう、黒い塊はよく、
己の毛並みをダンテの頬にすり寄せている。今も、そうだ。心地が好いのだということは、
ダンテの顔を見れば一目瞭然である。
猫が二匹、じゃれているようだとバージルは思った。可愛いものだと思う一方、忌まわしくも
ある。後者の感情が勝っていることを、バージルは正確に認識していた。
自分のことは、己が一番よく判っている。
しかしダンテは違う。バージルとダンテとは双子の兄弟だが、性格も性質もまるで似ておらず、
ダンテは自分のこととなるとまるで無頓着で、ひどく鈍い。だからいまだに、黒い塊の正体は
おろか、飼っているわけでもないものが何故自身のそばを離れないのかも、全く判っていない
のだ。
馬鹿な弟だと、いつも、つくづく思う。
「何だよ、バージル?」
何を怒っているのかと、ダンテが問うてくる。怒り、とは違うようにバージルは思う。苛立ち。
そう、言葉にするならば、それが最も相応しい。ダンテには、どちらにせよ怒りを湛えている
ように見えるのだろうが。
「……早く来い」
言いたいことの大半を飲み込んで、それだけを言葉として紡ぐ。低い声だと、我ながら
思った。
ダンテはむっとしたように眉を寄せ、しかし唇を噛むことで言葉を飲み下したらしい。
不貞腐れた表情で黙ってそばにくるダンテの、黒い塊が居座ったのとは逆の頬をするりと
撫ぜる。思いがけないことだったのか、ダンテがちょっと目を瞠った。
「な、に」
自分のものに触れるのに、許可など取る必要はどこにもないとバージルは思っている。ダンテの
頬から耳の付け根辺りを指を滑らせるように辿った。何故、触れるのか。ダンテには本当に
判らないのだろうか。
(お前は俺のものだ)
強い念にも、ダンテはいっこうに気付かない。気付かなくとも良いと、確かにバージルは思って
いるのだけれども。
けれども、だ。
銃の手入れにかける綿密さの、ほんの僅かで構わないから、他のことにも気を配ることが
出来ぬものなのかと。
栓のないことを思い、バージルはダンテの後頭部を鷲掴みにして引き寄せ、少し肉厚のある唇を
無造作に塞いだ。
ダンテの肩で黒い塊が怒りもあらわに威嚇してくるが、構うものか。
使い魔にゃんこはいつも、もこもこのふかふかです。