遠雷――――転章、壱
太陽のない空を、厚い雲が覆う。
曇天の多いこの空にあっては珍しくもない現象だが、その光景は誰の目にも異様なものに映った。
なぜならば、雲に覆い尽くされようとしている空に、
隠されることを厭うように月がぽつりと浮かんでいるからだ。
緋色に染まった月が大きな一つ目のように輝き、世界を睥睨している。
彼は不意に、自身を取り巻くものがしんと静まり返っていることに気づいた。
王の居室、そのさらに奥の寝室には、城内の物音が聞こえることはないと言っていい。
彼もそれには慣れていたし、この部屋はそもそもそういうものだと納得もしていた。
王の居室が騒音に包囲されていては、ただの笑い話にしかならない。
そうでありながら、なぜ彼は今更のようにこの静けさを訝ったのか。
彼自身にも、その理由はわからない。
ただ、勘のようなものが唐突に働いたとしか言いようがなかった。
城には今、どの程度の数、兵がいるのだろうか。
王の居室の扉を守るものは、おそらくそのまま残されている。
しかし状況を把握しているとは言い難い彼にとって、兵たちの動きがわかるわけもない。
はっきりとわかっていることは、たったふたつ。城の外で尋常ならざる何ごとかが起きていること。
そして、――王自ら、その鎮圧に赴いたということ。
北へ征く。
そう言い残して王が城を発ったのは、二日ほど前のことだ。
こちらの世界には暦というものが存在しないので、確かな日数はわからないが、
月の満ち欠けや傾きによってある程度の時間を知ることはできる。
あちらの世界の感覚で、暦がないことは不便だと思ったものだが、そもそも暦の必要性がないのだと、
長くこちらに棲んで思い知った。
王がいないというだけで、城はこんなにも静けさに包まれるものだろうか。
以前にも王自らが遠征に赴いたことはあったが、そのときはどうだったか。
久しくなかったことなので、どうにも思い出せない。
彼は寝台から這い出て、近くに散らばっていた服をおざなりに羽織った。
ちらと見下ろす胸板は、いつかに比べて随分薄い。が、今さらのことなので気にも留めない。
自分はおそらく、衰弱しているのだろう。
それも致し方ないことであり、彼自身が望んだことの結果なのだから後悔などするはずもない。
白い足で踏みしめるのは、毛足の長い絨毯だ。
足跡が残るほどの毛並みの上を慣れた足取りで歩き、扉を開けた先、
さらにもう一枚扉をくぐれば廊下に出る。そこには、朱と碧の番兵が控えている。
「アグ、ルド、いるか?」
ダンテは扉を開けずに声をかけた。扉を守る王の下僕はふたり。アグニとルドラという。
しかし彼はいつも、そのほうが呼びやすい、ということでふたりの名を縮めて呼ばわっている。
わずかな間も置かず、扉のあちら側からしわがれた声が応じた。
「いかがした」
問う声はふたつ。同時に紡がれたそれは扉越しでありながら部屋に大きく響く。
「やけに静かだが、どうかしたのかと思ってな」
「うむ、確かに静かであるな」
「然り。いつになく静かであるな」
「しかし王が不在ゆえ、致し方なきことであろう」
「然り。王の不在ゆえに囀る声もなりを潜めておるのだ」
「わかった、わかった。おかしなことが起きてるわけじゃねぇなら、いい」
門番たちは口を開くと次々に言葉を紡ぐため、誰かが止めねばこの応酬が延々と続くことになる。
ダンテは自身が饒舌なたちであるぶん、同じように舌の滑らかなものが好きではない。
門番たちにはそのことを何度も言って聞かせてあるのだが、
いかんせん、彼らはまるでひとの話を聞かないという決定的な欠点がある。
「暇を持て余しているならば、我らと戯れでもするか?」
「それは良き案よ。王の居ぬ間に我らと戯れようぞ」
扉の向こうから届く浮ついた声音に、彼は苦笑した。
この双子の門番は、見目こそ屈強な体躯の男だが、中身はとなるとまるで子どもだ。
あまりの饒舌ぶりに辟易することもあるが、彼は門番たちのことを嫌ってはいない。
根本的に、彼らはダンテの大いなる味方であるがゆえに。
「遊ぶのはいいが、あとであいつに何言われても知らねぇぞ」
ぴたり、扉のあちら側からの声が途切れた。わかりやすい、と彼は笑う。
この世界、とくにこの城に棲むものたちは皆、王に逆らうことはできない。
それはこの門番らも例外ではなく、普段こそ口を開けばこのとおり、
言葉が溢れて止まることを知らぬほど饒舌だが、もしこの場に王がいたとすれば、
彼らはぴたりと口を閉ざし、息さえ殺して彫像のようになってしまうのだ。
彼らの担う役割はこの部屋の扉の守護であり、同時にダンテの護衛でもある。
ゆえに、ダンテが悪癖を起こして部屋を抜け出した際、咎められるのは彼ら門番だ。
彼らは、ダンテの悪癖を止める、という役割も担っているのだから。
王は文字どおりの冷徹な男で、普段は感情というものが存在するさえ疑わしいほどだ。
その王が、はっきりと怒りをあらわにする数少ない瞬間が、ダンテの脱走を知ったときなのである。
王の怒りを知っているものは、二度と同じ過ちは繰り返すまいと肝に銘ずるに違いない。
懲りないのはダンテひとり。
そしてある意味で、扉の守護者もまた懲りぬ者のうちに数えられるだろう。
彼らは時折、遊びと称してダンテと戯れる。
彼らは王の居室に入ることができないので、ダンテが自ら扉のあちら側へ出て、
何をするかといえば、単純な言葉遊びであったり、なぜか膝枕を要求されることもある。
そんな、ダンテにとっては些細なことでしかないことで、王は驚くほど怒るのだ。
確かに部屋から出てはいるが、扉の前からは動いていないし、門番たちもいる。
ダンテの身が危険にさらされることなどあり得ないというのに、王は門番らを叱責する。
それだけで済めばいいほうで、王直々に鉄槌を下すことのほうが多かった。
なぜそうも怒るのか、ダンテは王に問うたが、答えをくれたことはない。
「……目の前の蜜の甘さを知っていて、堪え得るはずがないというもの」
じっと考え込んでいたらしい門番のひとりが、ぼそりとつぶやいた。
蜜? ダンテが首を傾げるのと、もう一方の門番が声を発するのとはほぼ同時だった。
「然り。蜜を目の前にして、指をくわえて見ているだけなどできるものか」
やはりダンテにはわからぬ喚きに、然り、と応じる声。首を傾けたまま、ダンテは訝って問うた。
「何言ってんだ、おまえら?」
扉の向こうから盛大なため息が聞こえたのは、気のせいではない。
「汝は己というものをあまりに知らぬ」
「然り。己を知らぬ者ほど、罪なものはない」
その言葉さえもため息混じりだ。ダンテはますますわからなくなって、しきりに首をひねった。
その様子が扉を隔てた門番たちに見えるはずもないが、
「汝は鈍い」
「汝は疎い」
まるで非難するかのような棘のある声音が聞こえて、ダンテは眉間に皺を寄せた。
「誰が鈍くて、何が疎いって? おまえらに言われたくねぇよ」
ダンテは機嫌を下降させたまま、勢いよく扉を開けた。そして門番たちをぎろりと睨む。
彼は長らく彼の生業から遠ざかっているが、もとは腕利きの便利屋だ。
五感に優れた彼に、鈍いだとか、疎いという言葉は、彼自身が思うにまったく疎遠である。
それを、この番人たちはわかっていない。
「いつも言ってるが、そのうるせぇ口、ちょっとは閉じられねぇのかよ」
眦を吊り上げて憤慨するダンテを、朱と碧の番人が惚けたように見つめている。
その視線の意味には、ダンテはまるで気づかない。
「怒りをあらわにする汝はまた、違った意味で佳いものであるな」
「然り。今、汝の眼に映るは我らのみ。その響きの何とも甘美なることよ」
「然り。王の居らぬ間に、より堪能したいものよ」
「然り。王は汝を独占しすぎる。たまには我らがその権利を得ても罰は当たるまい」
ふたりは調子に乗って次々に言葉を紡ぎ、止まるところを知らない。
ダンテは頭痛持ちのように眉間を指先で揉んだ。
「だから、ちょっとは黙れって……」
おしゃべりな門番たちを叱りつけようとしたダンテは、不意に言葉を切って顔を上げた。
それに倣ったわけではないのだろうが、双子の門番も口を閉ざし、
ダンテの視線が向く先を鋭く見やった。
「……今、」
沈黙のあと、初めに口を開いたのはダンテである。
「なんか聞こえなかったか」
門番ふたりが無言で頷く。
かしましく騒ぎ立てないのは、その物音に確かな不審を感じたからなのだとわかる。
ダンテは眉をひそめ、じっと回廊の奥を睨んだ。
しかし、自身の耳が拾った音が、彼らのすぐ近くで発生したものではないことに、
彼は本能的に気づいていた。おそらく、双子の門番にしても彼と同意見だろう。
「誰かはいるんだよな、さすがに」
ダンテの言う誰かとは、下僕や兵、つまり王に忠実な者、という意味である。
「おらぬ道理はない」
「然り」
双子が頷くのをちらと見やって、そりゃそうだ、と独りごちる。
王が自ら出陣したからといって、兵のことごとくを連れて行くはずがない。
そんなことをして、城を落とされでもしたら始末が悪い。
城にはまだ、相当数の兵がいて、それほど必要とは思えぬ数の下僕たちがいる。当然のことだ。
そして下僕たちも、兵という名ではないものの、皆戦うことができる者ばかりだ。
ここは人間の住む世界とは道理が違う。誰も彼もが鋭い爪を持ち、牙を持っている。
万一何か変事が起こっても、城にいる者たちでどうにでもできる。そのはずだ。
(大丈夫、だとは思うが……妙な胸騒ぎがする。こういうのは侮れねぇんだよな)
過去のこととはいえ、ダンテはもともと便利屋という看板を掲げながら、
悪魔を狩ることを本来の生業にしていた。悪魔とは、今彼が棲むこの世界の住人のことだ。
彼らと戦うには身体能力に優れている必要があり、かつ五感のすべてが研ぎ澄まされ、
秀でていなければ話にならない。第一線から遠のいて久しい身ではあるけれど、
若い時分に鍛え抜いた勘はまだ、多少は衰えただろうがまだまだ健在だと彼は自負している。
その勘が、小さくはない警鐘を鳴らしているのだ。気のせいだと割り切ることは不可能だった。
「気になるか?」
朱色の門番がちらと訊いた。まぁな、と素っ気なく返せば、しわがれた声がくつりと笑った。
「ここは王の城。容易く侵入などできぬ」
「然り。よしんば侵入できたとしても、汝の身が危険にさらされることはない」
「然り。汝の身は我らが護る。それが我らの役目であり、使命である」
「然り。案ずることなどひとつもない」
畳み掛けるように言葉を紡ぐ門番たちを、彼は交互に見やった。そうして、ふ、と息を吐く。
「……それは、よくわかってるつもりなんだがな」
胸のあたりがざわついて落ち着かない。
こんなことは久しぶりで、部屋に戻って寝直すことなどできそうになかった。
また回廊の奥へ視線を向けたダンテに、門番らは顔を見合わせて小さく嘆息する。
「……汝は如何にしたいのだ?」
この声がどちらのものであるか、ダンテは一瞬わからなかった。
「少なくとも、ベッドには戻りたくねぇな」
気になることを放ったらかしにして眠れるほど、ダンテは鈍感ではない。
「なれば、如何にする?」
同じ声がもう一度問うてきた。
双子の門番はまったく同じ声音をしているため、実際にはもう一方の声であったかもしれないが。
「どうしたいか、言うのはいいが、聞いてくれんのかよ?」
彼らは扉を守り、ダンテを護るために存在する。
その彼らが、ダンテの望みを叶えてくれるとは思えなかった。
もっともダンテには、彼らの制止を振り切って好き勝手やる、という選択肢もあるにはあるのだが。
「止めたとて、」
碧色の門番がため息混じりにつぶやいた。そのあとを、朱色の門番が引き継いで曰く。
「無駄骨であろう」
ダンテはきょとんとして、そうして、声をあげて笑った。
その笑顔はまるで花が咲き綻んだようだとは、彼だけが知らぬこと。
フギンは南の空を、魚が泳ぐように飛んでいる。
大きな翼をいっぱいに広げ、そこに受ける風の湿った陰鬱さに辟易しながら、
それでも己の役目を全うする勤勉さを誇るでもなく、ただ鋭い瞳で荒涼とした大地を睨む。
片割れであるムニンが発見した争いの鎮圧には、王自らが赴いた。
それはとても珍しいことだったが、致し方ないことだとも思う。
ただの住民同士の争いならば兵をいくらか送り込めば済む話だが、
今回は楽観視していられぬ理由があった。
現在、この世界では奇妙なことが続けざまに起こっている。
一連の事象に見受けられる奇妙な符合――天使というものの存在に、
フギンは相変わらず疑心を拭いきれずにいるのだが。
天使とは何か。フギンはゆったりと翼を上下に動かしながら、ふと考える。
天の使い、と書くその単語を、フギンは頭の中で転がした。
天とは、神のことだ。神に遣わされた存在。天上におわす神の意を受け、地上へ舞い降りるもの。
神の意思、その具現。
(神など、いるのか)
結局のところ、根本の疑問はそれだ。
自分たちのようないきものが存在するのだから、どこかには神という名のものもいるのかもしれない。
しかし見たこともないものをいると信じることは、フギンには不可能だ。
フギンとその片割れのムニンは、世界の空を飛び回って得た情報を王へ届けることが使命である。
自身が見聞きした情報以上の、憶測や推測などは許されていない。
そんなフギンに、天使の存在など受け入れられるはずがないのだ。
しかし、こうも天使という言葉が気になって仕方がないのは、
ムニンがその姿を目にしたという事実があるからだった。フギンは己の片割れを疑わない。
彼らは一心同体だ。意思さえも共有することのできる片割れを疑うことは、己を疑うということになる。
フギンは己を信じている。だからムニンのこともまた、信じている。それが道理だからだ。
ムニンは天使とやらを見た。その天使が住民と殺しあっているさまを、確かに見たという。
その一報を受けて、王は精鋭と呼ばれる兵を選り抜いて出立した。
(あいつが嘘をつくわけがない)
軽い言動が目立つきらいはあるが、基本的にムニンは嘘をつくことをしない。
茶化すことはあっても、その嘴が紡ぐ言葉はすべて真実だ。
フギンはそれをよく知っている。けれど、
(天使、か)
喉の奥でつぶやいて、フギンは眼下へ意識を戻した。
ここから少し東へ行け、ネロが派遣された街がある。そこはフギンが争いの火種を見出した街だったが、
ネロの報告では住民がひとり残らず姿を消していたという。
フギンが見たときには、確かにそこには住民がおり、
揉めごとの起こるであろう気配が街全体から漂っていたのだが。
まぁ、それはネロが詳しく調べることで、フギンがもう一度行く必要はない。
王も再確認を命じはしなかった。フギンが南へまっすぐ翼を向けたのはそのためで、
小さな邑も念入りに見廻るよう王に指示を受けたからだ。
王は今、フギンから見てもいつになく神経を尖らせている。自ら争いの鎮圧に赴いたことがいい例だ。
確かに見過ごすことのできないではあるが、兵を送り込むだけでも充分だったのではないか。
王の兵は精強だ。天使などという不可解なものが争いに介入しているからと言って、
王がおらねば太刀打ちできぬとは限るまい。
もっとも、王がいれば鎮圧にかかる時間は最短で済むだろうが。
(時間をかけたくないから、か?)
焦り。フギンは王の采配に納得をする一方、そんな印象を受けずにはおれなかった。
何を焦る必要があるのか。
おい、とフギンは声なき声をあげた。
聴こえるか。そう投げかける先は、片割れのムニン。
ほとんど間を置かず、なんだ、と応えがあった。
(北の街はどんな具合だ?)
わずかな沈黙のあと、
(王自ら鎮圧にあたるんだから、大丈夫だろ)
曖昧な答えに、フギンは眉をひそめた。
(おまえは、今どこにいる?)
(まだ北の街だが……王が到着し次第移動することになるだろうな)
(天使とやらの動向は?)
ああ、それか、とムニンがつぶやく。奇妙な反応だ。しかしその理由はすぐにわかった。
(奴らに対抗した住民たちは、ぜんぶ死んだ。今奴らは、街中を動き回ってる。
生き残りを探してるみたいだ……)
沈んだ声。
フギンよりも感情豊かな片割れは、悲しみと怒りよりも困惑に近い声音でぼそぼそと言った。
おまえは大丈夫なのか。フギンが問えば、今のところ、と答えが返ってくる。
ほっとしたが、いつまでも見つからずにいられるとは限らない。
王が街へ到着するまで、あとどれほどの時間がかかるだろうか。
(王は……おそらく強行軍だ。小休止さえ取らずにそっちに向かっているだろう)
もう少しだと伝えれば、ムニンは(そうか)とつぶやいた。
小さく息を吐いたように、フギンには感じられた。
よほど、自分が目にした光景が凄惨なものであったのだろう。
天使。神の使い。それらはおそらく、自分たちにとっての死神だ。
同胞を救うには、力でもって対するしかない。
ムニンが片割れとの会話を打ち切ろうとしたとき、フギンがはっと息を飲んだ気配が伝わってきた。
よもや天使どもに見つかったのかと、フギンはにわかに緊張した。
(どうした?)
問えば、王だ、と短い答えがあり、フギンはほっと息を吐いた。
(あの旗は間違いない。さっそく、指示を仰ぐことにする)
(そうしてくれ。また、連絡する)
了解、というムニンの言葉を皮切りに、フギンは片割れとの会話を切った。
おそらくムニンはこのあと、東への探索を命じられるだろう。
もしかすれば城へ戻り、彼の様子を確かめるよう指示されるかもしれないが、
どちらにせよ、決めるのは王だ。
フギンは前方に見える小さな邑へ向かって、ゆるゆると下降を始めた。
憶測はいつでも、いくらでもできる。今フギンがすべきことは、王の命に従い邑々を調べることだ。
時間を無駄にしてはならない。それは王のもっとも嫌うことであるがゆえに。
大鴉の背を、雲に浮かんだ月が紅く照らしている。
アグルドとダンテ、好きです。
まだ続きますが、もうしばらくお付き合いのほど、よろしくお願いいたします…