遠雷――――第九幕
「“天使”、だと?」
王の氷色の瞳が大鴉へ向けられた。
大鴉――フギンは萎縮するでもなく、ひとつ逞しい嘴を上下させる。
「つい今しがた焼失した邑の者が、そんな証言をしたようです」
フギンが王へ伝えた言葉は、片割れのムニンから聴いたものだ。
彼ら一対の大鴉は互いの意思を共有しており、どんなに離れたところにいても、
容易に言葉を交わすことができる。
「何か、お心当たりが?」
王の反応を驚きと受け取らなかったフギンは、ちょっと首をかしげるようにして問うた。
王は秀麗なおもてに渋面を浮かべ、何か探るように慎重に口を開いた。
「……これまでに消えた邑や街の調査報告書の中に、同じ言葉があった。
それだけと言ってしまえばそれまでだがな」
しかし王は天使という言葉が気になっているようだ。
「天使など、存在するのですか」
素朴な質問に、王はゆるく首を振った。
「知らぬ。だが証言によれば、存在すると思っている者は少ないなりにいるらしい。
それをどう捉えるか……」
王は珍しく逡巡して、執務室の窓へ目をやった。
暗い空には、ひとの住むあちら側にあるような、
太陽という名の眩しく輝くものが顔を見せることはない。
月に支配された世界の中心に君臨する王は、いったい何を考え、どこへ向かっているのか。
王の尖兵にすぎないフギンにはわかるはずもない。
今後の方針や対策をどう講じて展開するかは、すべて王が決めることだ。
自ら考える必要のないフギンは、しかし少しばかり奇妙だと感じずにはいられなかった。
(王の熟考する姿など、これまで見たことがあっただろうか)
王は何ごとにおいても即断即決。
およそ、悩むという行為とは無縁の男だと思っていたのだが、これはどうしたことか。
王は手を口許にあて、深く考え込んでいる様子である。
そんな光景はついぞ見たことがなく、フギンは無性に落ち着かなかった。
フギンは王の指示がなければ、勝手に王の執務室から出ることができない。
王はこの世界の理だ。理に対し、こちらから指示を求めることはできない。
どうしたものか。フギンは内心でため息をもらした。
これも珍しいことなのだが、フギン自身は気がついていない。
視線を窓へやろうとしたとき、不意に声が聴こえた。王のものではない。
(ムニンか。どうした?)
声なき声で応じる。こちらを呼ばわるムニンの声は切迫しており、
緊急を要する事態が起こっていることは間違いない。
――天使だ。
(何?)
――天使と住民が殺し合ってるんだよ。北の、一等でかい街だ。
何を言っているのかフギンには理解しかねたが、争いが起きていることだけはわかった。
フギンはすぐさま王に向き直り、
「王よ、ムニンより火急の報せです。北の街にて争いが起こっている模様。
――天使と住民が殺し合いをしている、とのことです」
早口にまくし立てた。王は形の良い眉をひそめてそれを聞いた。
「天使、」
フギンは応える代わりに頭を垂れた。あとは王が考え、決定したことを実行に移すだけだ。
王が再び口を開こうとしたとき、不意に政務室の扉が鳴らされた。
すぐに王が入室の許可を与える。
「ネロ様よりの伝令が参りましたが、いかがいたしましょうか」
表情というものを持たない衛兵は、ひと息に言うと、
ぴたりと口を閉ざして王の下知を待った。
「通せ」
王の命はいつも短い。
それで充分なのだから、フギンとしてはあれこれ言いつけられるよりも楽でいいと思っている。
間もなく執務室へやってきた兵は、王の姿を見るや平伏し、
絵に描いたように縮み上がっている。
「報告を聞く。端的に話せ」
凍りつくような王の声音に、伝令はびくりと肩を震わせ、それでも気丈に声を張り上げた。
「も、申し上げます。
南東の街に住民の気配はなく、ゆえに争いの起こる兆しも確認できませんでした。
現在、ネロ様を筆頭に市街の捜索を行っております」
「誰もいない、と?」
フギンは思わず声をあげた。南東の街に争いの気配を感じて報告をしたのは、他ならぬフギンだ。
フギンがかの街を空から見下ろしたときには、住民らは確かにそこにおり、
街全体が厭な殺気に満ちていた。その時点から数日が経過しているとはいえ、
短時間にすべての住民が姿を消すなどあり得るだろうか。
「すべて殺されているのではなく、か?」
王が静かに問うた。伝令はこくりと頷き、
「部隊が街に到着して間もなく、自分は伝令として隊を離れましたので、
詳しいことはわかり兼ねますが……」
住民たちが争った様子はおろか、殺戮の痕跡もなかったという。
「ご苦労。下がれ」
王は伝令を一言労い、部隊へ戻るよう指示をした。
伝令は深く頭を垂れ、足速に執務室から出て行った。
その背中を見送ったフギンは、腑に落ちぬものを抱えて顔をしかめる。
王もまた同様であるらしく、こつり、こつり、指先で机を弾いている。
何か、尋常ならざる事態が起こっている。
例えばこれが王への反旗であるならば、理屈は通る。王はこの世界に秩序を敷いた。
それはあるものにとっては幸いであったが、べつのものにとっては受け入れがたく、
王への反撥を招くことになった。
それを知らぬ王ではないし、フギンら大鴉もまたよく知っている。
これまで幾度か反乱が起こったが、王はそれらすべてを即座に鎮圧してきた。
その程度のものだった、と言ってしまえば身も蓋もないが、
王にとってはたかった虫を払うようなものだっただろう。
だが、今回の騒動は一体何であるのか。
それさえもわからない状況で、王はいかなる判断を下すのか。
フギンはじっと、王の下命を待った。
丘の上の建造物の内部は、城の地下にひっそりと存在する書庫に似ている、とネロは思った。
ただ、さすがに本は並んでいない。
柱に施された彫刻などが醸し出す雰囲気が、おそらくそう感じさせるのだろう。
入り口の正面は細長いが吹き抜けになった広い部屋があり、両側にそれぞれ扉が三つずつ。
二階部分の廊下には手すりがしつらえられ、その向こう側にはやはり扉がある。
しんと静まり返った屋内に、ネロたちの足音が大きく響く。やはり誰もいないのか。
落胆に肩を竦めたネロの耳に、建物内を調べさせていた兵のひとりから声が届いた。
「ネロ様、少し、よろしいでしょうか」
「何か見つけたか?」
応じながら、ネロはそちらへ足を向けた。兵が調べていたのは、一階の右奥の部屋だ。
「見つけた、と言いますか……、見てもらいたいものがありまして」
ネロは首をかしげ、問題の部屋へ顔を覗かせた。
広い部屋だというのに、窓は天井近くに小さなそれがひとつきりだ。
窓の足元にはずらりと本棚が並んでいるが、肝心の本はといえば数えるほどしかない。
何のために棚を設えてあるのか、甚だ不可解だ。
あれなんですが、と兵が指差したのは、本棚でも本でもなかった。
「なんだ、これ?」
ネロは眉間に皺を刻み、不審げに言った。
「見たところ、甲冑のようですが……」
兵の声も歯切れが悪い。それはそうだろう。
巨大な城の中にさえ、こんな甲冑を飾っているのは見たことがない。
鎧を纏っている兵もいるにはいるが、
(真っ白の甲冑なんか、誰も着ないだろ)
自己顕示欲の強い者ならば好んで身に着けるだろうか。
それでも、暗い世界に純白の甲冑はあまりにも目立つ。
甲冑を睨むネロの傍ら、兵もまた、それを怪訝な目で見つめている。
どうにも、どこかにあったものをわざわざ運んできたという感が否めない。
まったく、この部屋の雰囲気に馴染んでいないのだ。
しかし誰かがここへ運び込んだとしても、いったい何の目的で?
力がすべてである世界に、この甲冑のような装飾品に価値を見出すものはひとりもいない。
無用の長物でしかない甲冑を、誰が何のためにここへ置いたのか。
「わからないな……」
ネロはつぶやき、傍らを見やった。困惑した様子の兵と目が合って、ネロは小さく首を振った。
「ここは置いて、ほかの部屋に何かないか探すほうが先だな」
部屋は扉の数と整合していれば、一階に六、二階に四。
ふたり一組を五つ作って探索させているので、単純計算だが、
まだ調べていない部屋は半分残っている。ほかの部屋にも、不自然な置物があるかもしれない。
「あまり時間はかけられない。手早く頼む」
ネロが言うと、ふたりの兵はさっと敬礼し、素早く部屋を出て行った。
できた隊長が頭に据えられていると、その手足となる兵たちもまた上等であるらしい。
彼らはネロを蔑むことも、必要以上に持ち上げることもない。
ネロを、自分たちの上官のさらに上官として理解し、必要な礼節を守っているにすぎないのだ。
そしてそれは、ネロにとってもっともありがたいことであった。
感情の善し悪しにかかわらず、特別扱いをされることは耐え難い苦痛なのだ。
(俺はダンテの子であって、王の子じゃない。でも、)
どうあっても王の存在が自身の背から消えることはないのだと、ネロはよく知っている。
例えばあの男が死んだとして、ある意味で解放がもたらされたとしても、
ネロの苦悩が消えることはない。王の死は、すなわちその“半身”である彼の死だ。
ネロは彼の死を望まない。ネロが王を憎むのは、息をするのと同程度に当然のことなのだ。
ネロはくどくどとした思考を振り切るように首を左右にし、
自身も部屋から出ようと足を踏み出した。
――かちり。
金属が軽く触れ合うのに似た音がして、ネロは動きを止めた。
音源を確かめるため、首だけで振り返る。
が、そこには白い甲冑が鎮座しているだけで、他は本が少しあるばかりだ。
(気のせいか?)
再び顔を前へ向ける。と、
――かちり、
見計らったかのように、音が耳朶をかすめた。しかも今度は、今し方よりも大きな音だった。
「なんだ……?」
ネロがもう一度振り返ろうとするのと、それはほぼ同時だった。
「…………ッ?!」
鈍い音とともに、ネロの立つすぐそばの床に何かが突き刺さる。
細長い円錐のそれは、柄が極端に短く、ひどく不恰好に見えた。
一瞬にも満たないほんのわずかな時とはいえ、ネロは文字通り無防備だった。
そこを、狙われぬはずがない。
白いものが視界に迫り、ネロの首めがけて腕を伸ばした。
「くっ……」
ネロは床を蹴って右へ跳び、すぐに剣を抜いた。
(なんだ、こいつは)
真正面から見た敵の姿は、記憶に新しいというのにネロを困惑させた。白い甲冑。
置物だと思っていたそれが、生きている気配などなかったものが動いている。
ネロをいっそう混乱させたのは、甲冑の背から生えた翼の存在だ。
そんなもの、先刻はどこにもなかったというのに。
甲冑は床に突き立った得物を無造作に抜き、滑らかな動作でネロへ向き直った。
扉を背にする格好で。
(逃がさない、ってことか?)
それとも一対一にこだわってのことか。意図はわからないが、それが善意でないことは確かだ。
置物と思い込んでいたときには感じられなかった殺意が、
肌を刺すような感覚としてネロを取り囲んでいる。
この奇妙な殺気は、街の探索を始める前に感じたものだ。
生者ではないもの。同時に死者ではない何か。――まさに、この甲冑のことではないのか。
百人隊長へ連絡を取る術を実行するには、何はともあれこの部屋から、
さらにはこの建物から出る必要がある。
扉の前には、生きても死んでもいない、気味の悪い翼の生えた甲冑が一体。
その甲冑は、一言も発することなく、
円錐形の武器――槍の一種だろう――を右脇に固めて構えを取った。
甲冑の軸足が、床をぐっと掴んだのを見るや、ネロは反射的に右へ跳んでいた。
白いものが凄まじい速さで突撃し、ネロが半瞬前まで立っていた床を無惨に貫く。
ネロは左手に握った剣を一瞬引き寄せ、甲冑へ向けて刺突を放った。
甲冑は白い残像を揺らめかせてネロの突きを躱し、空中で体勢を整えるや、
またしても体当たりのような突撃を繰り出した。
「っ、く……」
小さくうめき、ネロは左へ体重を移動させることで突きを避けながら、
手首を返して甲冑へ斬りかかった。少しでも距離を置けば、甲冑はその都度突撃を繰り返す。
逆に間合いを詰めてしまえば、突撃はできまいし、槍そのものが不利になる。
そう考えたネロは、剣から遠ざかろうとする甲冑の腕を右手を掴んだ。
ほんの一瞬、甲冑が怯んだかのように動きを止める。それを、ネロは見逃さなかった。
甲冑の頭、首の繋ぎ目めがけて剣の切っ先を突き込んだ。
手応えは、奇妙なほどに、ない。
朽ちた土へ剣を突き立てるほうが、よほど手応えがあるに違いない。
甲冑はよろよろと後ずさった。槍を放り出し、両手で喉を押さえる。
さして間を置かず、甲冑は繰り糸が切れるように床へくずおれた。
悲鳴の一言さえないまま、ばらばらになって。
ネロは軽く肩で息をしながら、この奇妙な襲撃者の成れの果てを見下ろした。
「なんだったんだ、こいつ……」
誰が入っているわけでもない、空の甲冑が襲ってくる。
しかもその背には、闇に満たされた世界にはおよそ似つかわしくない、純白の羽を負って。
その尋常ではない現象を、ネロは王へ報告すべきが悩んだ。
いざという時のために温存している翼を持つ兵を、今ここで使うべきが、どうか。
しかしそれを遣いにやるには、まずは百人隊長の率いる隊に合流せねばならない。
ネロは剣を手に提げたまま、部屋を出た。
警戒を解かなかったのは、ここ以外にも、この甲冑のような襲撃者が、
ほかにもあるかもしれないと考えたからだ。
ゆらり、燭台の灯火が揺れている。細く弱った炎はいかにも心許ない。
男がひとり、弱々しく灯火の並ぶ回廊を歩いていく。
広い肩幅を縮めるように背を丸め、ひょこひょこと歩く姿は滑稽でさえある。
しかし、例えばこの光景を見たものがいたとすれば、きっと笑うことなどできなかっただろう。
えもいわれぬ不気味さが、その男にはあった。
灯火がひとつ、震えて消えた。まるで脆弱な命が吹き消されるかのように、ふつり、と。
男はひとつ、またひとつと消えていく灯火へ一瞥を呉れることもなく、
ただ真っ直ぐに歩き続ける。
どこへ向かっているのか、何をしようとしているのか、知るものはいない。
ちょっと、前進…?