遠雷――――第七幕
守護者は顔を見合わせて、それから固く閉ざされた扉を見やった。
この扉が閉まっていることに関しては、何ら問題はない。
彼らはこの部屋の住人を護ることを主命として扉の両脇に立っているが、
ここ数年は、王の“半身”を外へ出さぬために存在すると言っていい。
そのため、かの人物が部屋に引きこもっている現状は、彼らにとっては問題がないどころか、喜ばしいことなのである。
けれども、しかし。
扉の守護者は再び顔を見合わせた。
彼らが護るべき存在は部屋の中。それはとてもいいことだ。だが、彼らは彼のことが気になって仕方がない。
なぜならば、彼は先ほど、並々ならぬ様子で部屋へ戻ってきたからだった。
いつもならば、彼は彼らを撒いてまで部屋から脱出したことを、まず詫びる。
そして彼らを労い、部屋へ戻っていくのが常であった。しかし今し方に限ってそれがなかった。
そもそも、部屋から出てはならないはずの彼が、度々部屋を抜け出しているということが問題なのだが、
番人らはすっかりその事実を忘れてしまっている。
彼らは、名をそれぞれアグニとルドラという。
見目は屈強な体躯をもつ偉丈夫で、どちらも鋸状の刃を持つ一振りの剣を携えている。
アグニの刃は黒みがかった緋色。ルドラのそれは灰の混じった碧。
剣の柄の先には丸い装飾が施されており、目のように見える一対の穴と、その下方に口のような裂け目がある。
爛れた鉄と業火で鍛えられたこの趣向の変わった剣が、彼らの正体だ。
話すときにはこの裂け目がかたかたと動き、稀に目がびかりと光りを放つこともある。
そのため、というわけでもないのだろうが、剣を握る偉丈夫には頭部が存在しない。
脳は本体である剣の方にあるので、そちらには必要ないということだろう。
しかしながら、頭脳はあっても本体のみでは動くことができないため、必然的に依代が必要となるのだ。
彼らは王の命によりこの扉を守護している身だが、
本心では王の“半身”個人の守護者としてここに仁王立ちしているといってもいい。
それほどに、双子の番人は彼に傾倒している。彼らにとって、彼は特別な存在だ。
その彼が尋常にない様子で部屋に戻ってきたとあっては、気にするなというほうが無理な話であろう。
「……これは如何にしたものか」
「……如何にしたものか」
同じことを繰り返し、ううむ、と唸る彼らの声は、扉のあちらにはおそらく届いてはいまい。
重厚な造りの扉は、物音はもちろん、話し声もぴたりと遮る。
よほどの大声を張り上げれば少しは漏れ聞こえるかもしれないが、そんな場面はそうそう訪れるものではない。
ひっそりとした廊下に、ただ番人らの嗄れた声だけが響く。
「何があったか、話してはくれまいな」
「あの様子では、まず無理であろうな」
どうしたものか、双子は同時に首をひねった。彼らをこうも悩ませるものは、後にも先にも彼ひとりだ。
「せめて中へ立ち入ることを赦されておれば良いのだが、」
「否。何人足りとも、王の居室へ立ち入ること罷りならぬ」
「然り。我らとて例外ではない」
「然り。王の命は絶対である」
王に逆らうことのできるものは、この世界には存在しない。あったとしても、厳罰をもって処断される。
王とは理であり、法である。即ち王に背いたものは、己の命によって罪を贖うことになる。非難も批判も赦されはしない。
この番人らがいかに彼のことを慕っていようとも、彼に手出しすることができないのは、
そういった理に当たり前のように縛られているからだ。目には見えない鎖が絡まっているように、
彼らは王に背くことができない。或いは、そう、その太く頑強な鎖を断ち切るような、苛烈な何かが現れでもしない限りは。
双子の番人は深々とため息をついた。彼らは普段、物ごとを深く考えるということがない。
本性が何もかもを斬り刻むための刃なのだから、あれやこれやと思考を巡らせる必要がそもそもないのだ。
考えることといえば、どのようにして相対するものを斬るかであって、
それ以外のことは二の次三の次となるのは当然のことであった。
それがどうだ。今、彼らは剣としての本分とはまるでかかわりのないことを、必死になって考えている。
王の“半身”――ダンテという名の人間は、まことにもって稀有な存在なのであった。
バージルが己の居室へ戻ったのは、それから一刻ほど経ったころだった。
王がただ廊下を歩いているだけで、ざわざわと燭台の灯が落ち着きなくさざめくのを、
うるさく思うでもなく聞き流しながら、番人らに扉を開けさせる。
双子の番人は恭しく王にかしずくが、その様子がいつもと違うように感じられたのは、おそらく気のせいではないだろう。
原因はおそらく彼だ。この双子が妙に彼に傾倒していることは前々から知っていた。
半病人と言っていい彼が、毎度毎度脱走を成功させている要因は、番人らが彼に対してとても甘いからに他ならない。
それを、バージルはこれまで咎めることをしなかった。この番人らは彼を慕い、脱走を助長させることはあっても、
彼に危害を加えるようなことは絶対にしないと断言できるからだ。
彼の言によればよく喋るという番人らは、バージルに対しては非常に寡黙だ。バージル自身が無駄口を厭うからであろう。
今も、扉の左右に仁王立ちするこの守護者どもは、一言も発することなく扉を開けてバージルを誘導した。
それでいいと、バージルは思う。
よほど荒れているだろうと想像していたが、室内はいつもと変わらぬ様子でバージルを迎えたものだから、
ちょっと拍子抜けしてしまった。荒れている、とは彼自身も含めてのことだ。
持て余した怒りを、ものに当たることで解消するという手段は取らなかったらしい。
成長したものだ、などと失礼極まりないことを考えながら、バージルは奥の寝室へ足を向けた。
広大な城内と比べれば、バージルの居室などごくごく狭いものだ。
二間続きの居室の、手前の部屋にいないのであれば残るは寝室しかない。
もっとも、広い城を好奇心の赴くままに探索などして、必ずどこかで迷子になる彼を捜し出すことでさえ、
バージルにとってはさほど難しいことではなかったのだから、それはそれで並外れた能力と言えよう。
たとえ離れていても、ぼんやりとだが彼の居場所を感じ取ることができた。
彼が己の“半身”であるがゆえかどうか、バージルにも判然とはしない。
けれども確かに、己と彼とは何かしら引き合うものがあり、
決して引き離すことのできぬ作りになっているように感じられるのである。
それはまるで、強大な何ものかの意志が働いているかのような。
(くだらぬ、)
迷信や伝承、神話などといったものを一切信じないバージルは、喉の奥で吐き捨てて寝室へ入った。
予想に違わず、寝台には人ひとり分のふくらみがある。 バージルの頬に、無意識に笑みが浮かんだ。
「ダンテ、」
特別なものの名を愛おしむように紡ぎ、バージルは寝台の端へ腰を下ろした。
男が三人は並んで寝てもまだ余裕のあるであろう広い寝台。その左側に、彼は身を横たえている。
バージルが同衾しているときがそうであるためか、今のように一人寝をしているときも、
彼は寝台の真ん中を占拠することはない。
もぞり、掛布に包まれた彼が身動ぎした。真白い布から少しはみ出した銀糸が揺れ、ごそごそと、億劫そうに白皙が覗く。
「……遅かったな」
不機嫌そうな声音に、バージルは肩をすくめた。
「これでも急いだのだがな」
そうかよ、と不貞腐れたように彼は息のみでつぶやいた。
「ネロは、もう行ったのか」
薄く持ち上げられた瞼の奥、碧玉の瞳は我が子を案じる母のそれである。
バージルは表現のしようのない靄が、自分の腹の底にとぐろを巻くのを感じた。
「先ほどな」
何の感情もなく、事実を端的に伝えたバージルに、彼はまた瞼を閉ざした。
不憫な我が子を想っているのだろう。彼はとにかく情に篤い。己の子なのだから当然だ、と彼は言うけれども、
バージルにとってその感情は理解できる類のものではない。バージルだけではなく、こちらの世界のものは皆そうだ。
親きょうだいの情など存在しない世界に生まれ育ったものたちに、彼と共感を分かち合うことはとても難しい。
反対にそれが、彼にはわからないという。
そうか、とため息のように囁いた彼を、バージルは氷のような双眸で見つめた。
我が子を不憫と思う彼をこそ、バージルは憐れなものだと思う。
彼は光ある世界に生まれた。彼をこちらの世界へ連れてやってきたのはバージルに他ならず、
もはやこちらで生きた時間のほうが長いはずだ。しかし彼の肌からは、いまだに太陽のにおいがする。
それは幸いであると同時に、この上ない悲劇だ。彼はこの世界にどうあっても馴染まない。
それはつまり、どんなにか時が経とうとも、この世界の王たるバージルとは一つになることがないということではないか。
「バージル?」
黙したまま己を凝視するバージルを訝しんだ彼が、伺うように王の名を口にした。
ちょっと首をかしげたその仕種は、歳に見合わぬ幼さが見える。
バージルはやはり言葉もなく、彼を抱きすくめた。
「バージル……?」
王の名を紡ぐものは彼ひとり。文字通り唯一無二の存在を、王は自ら見つけ、自らの力でもって手に入れたのだ。
あのとき、バージルは確かに幸福だった。その言葉の意味を初めて知ったのだ。忘れられようはずもない。
だが、今の自分は、彼は、果たして仕合せといえるのか――
「おまえは俺のものだ」
何度も繰り返した言葉を、飽きもせずに舌に乗せる。彼は彼で、聞き飽きたとも言わず、
近ごろは苦笑すら浮かべて「知ってる」などと、かわいいことを言ったりもする。
その口を、唇を重ねることで塞ぎ、舌を絡め取ることで言葉を奪う。彼は抵抗しない。
不躾に侵入してきたものを受け入れ、自らのそれを絡めてもくる。
ある意味で、快楽は彼の本分だ。それを与えることをバージルは惜しまないし、彼もそれを知っているからこそ、
嫌がる素振りはひとつとてない。そのはずが、次の瞬間、思わぬことが起こった。
彼の手が、そっとバージルの肩を押したのだ。
「だめだ、バージル。今は……」
紡がれてはならぬ言葉が、ほんのわずか離れた唇の合間からこぼれ落ちた。バージルは目を瞠る。
なぜ、という一言を発することもできなかった。
彼はバージルの変化に気づいていない。もし気づいていれば、続く言葉はおそらく、紡がれることはなかったのだろう。
「あいつが無事に戻るまでは……だめだ」
ぴくりと、バージルのこめかみが痙攣する。頭に血がのぼるとはこういうことだろうかと、
奇妙なほど冷静に考える自分が脳裏の片隅にいる。それは冷ややかな目で彼とバージルとを見下ろし、
酷薄な笑みを浮かべてこう言うのだ。
構うものか、と。
「……おまえは俺のものだと言ったはずだ」
異変に気づいた彼は弾かれたように目を見開き、バージルから離れようと身動ぎする。が、バージルはそれを赦さない。
「まだわかっていないようだな、ダンテ?」
わからぬのならば、わからせてやれば良い。所有物がその主に背くことなどできぬということを。
その身をもって理解させてやればいいだけのこと。
彼の蒼褪めたように白いおもてには、恐怖よりも驚きが色濃く浮かんでいるようにバージルには見えた。
それがなぜなのか、バージルにはわからない。理は我にある。バージルはそう考えて疑わないし、
そもそも疑う余地などありはしないのだ。
「バージル、よせ」
怯えの混じった声音だと、バージルは思った。無論、彼の制止を聞く耳をバージルは持ち合わせてはいない。
後ずさりしようとする彼の細い手首を、バージルは無造作に掴んだ。
もはやこの腕で、かつてのように剣を振ることは不可能だろう。そんなことをぼんやりと考えながら、
彼を寝台へ引き倒した。あ、と彼が無意識であろう声をあげた。艶めいた色などないそれにさえ、
己が欲情していることを、バージルは自覚せずにはおれなかった。
「逃げるな、ダンテ。縛られたくはあるまい」
低く囁けば、彼の肩がぎくりと震える。バージルの言う縛るという行為がどのようなものであるか、
彼は身をもって知っているのだ。
「逃がしはしない。おまえは俺のものだ。今一度、その躰に刻み込んでやろう」
ひゅ、と隙間風が通るような音がした。彼が息を呑んだのだ。
強張った肩を、ことさらにゆるりと押してやれば、彼は拍子抜けするほど簡単にバージルの下に組み敷かれた。
「バージル、」
彼より他に紡ぐもののないその名が、なぜだか自分のものではないような気がした。
まるで非難するかのような目が、バージルの耳にそう響かせたのかもしれない。
悲観も、憤怒も、バージルの胸中には湧かなかった。懐かしい。ただ、そう感じただけであった。
出合ったあのころに戻ったようだと、頬に笑みなど湛えつつ思う。
崇高なる魂。いつか見た太陽の如き輝きは、曇ることも翳ることも知らない。
健気なことだと、感心する。もはや花を咲かせることがないほど、手折ってやったつもりでいたというのに。
「ダンテ」
名を唱え、彼の肩口に顔を埋める。血の通わぬ人形のように白い肌に咬みつけば、彼の背中がびくりと揺れた。
尖った犬歯は柔い皮膚を容易く破る。そこから滲み出す紅いものは、彼の生命そのものだ。
希少な水を口にするように、バージルは彼の血をゆっくりと喉に導く。
「っ……あ……」
震えた声音に、男は獲物を目前にした獣のような目をして笑った。
月の照らす道は、奇妙なほどに蒼い。ネロは白に近い銀髪を粗雑に掻き上げ、小高い丘から周囲を見渡した。
荒野の果てに、うっすらと城を臨むことができる。平素、ネロの身はその城の中にある。
我が家というには巨大でありすぎるそれを、ネロはどこか名残惜しむように見つめた。
あれは、檻だ。
漠然と、そんなことを思う。
王の居城は、ネロにとっては巨大なばかりの牢獄だ。囚われ人はただひとり。
そのただひとりのために、それは存在しているようにネロには感じられるのだった。
日々を囚人のように過ごす彼の名を喉の奥で囁き、ネロは懐古の念に捕われていた。
思い出すもののすべてに、彼の顔がある。ネロにとって、彼は文字どおりすべてであった。
荒野にひとり立ち尽くすネロに、ひっそりと近づくものがある。
王がネロにつけた兵どもを、実質取り仕切っている男だ。ひとの血が混じったネロを侮ることも蔑むこともない、
とても珍しい存在でもある。
「何かあったか?」
男が口を開くより早く、ネロはそう問いかけた。副官としても有能である男は、いえ、と短く応えた。
「少しでも、眠っておかれたほうがよろしいかと」
控えめな言葉とは反対に、声には妙に強制的なものがあるとネロは感じた。
とはいえ反感を抱くことがなかったのは、男の言葉がまったくもってもっともであるからだ。
己の体調管理ごとき、進言されるまでもなくできていなければならない。隊を率いるものともなればなおさらである。
「あぁ、……そうさせてもらう」
行軍そのものは残り半日ほどであるようだが、その先に何が待ち受けているかは未知数だ。
大鴉の情報を信じるならば、およそ楽な仕事ではないだろう。
素直に進言を受け入れたネロを、男がまじまじと見つめている。そのことに気づいたネロは、ちょっと首をかしげた。
「? どうした?」
「いえ、……存外、似ていらっしゃるのだなと」
誰に、とはネロは聞かなかった。どちらかといえば寡黙な部類に含まれる男は、
喋りすぎたとばかりに口を閉ざしてしまっている。その男からあえて聞き出すほど、ネロは迂闊ではない。
男はおそらく、公正にものを考えることのできる性質なのだ。そしてそれは、とても貴重なことである。
この男が発する言葉は、すべてが誠実で裏がない。騙し合いが常套となっているこの世界では、
男は本人の意志にかかわりなく浮いた存在となってしまうだろうが、当人はそれを気にしているふうもない。
ネロは憮然としたまま、天幕へ足を向けた。男が背後から音もなく従ってくるのは、もはや気にしていても仕方がない。
獣が交わるように背後から男を受け入れる格好となったダンテが、苦しげに喘ぐ。
艶めかしくしなる背を見下ろし、彼を攻め立てるバージルの額にはうっすらと汗が滲んでいた。
それをダンテが見れば、珍しい、と思っただろう。しかしダンテは息も絶え絶えになるほど快楽に飲み込まれており、
バージルの常ならざる様子には気づかない。彼をそうさせているのはバージルに他ならなかった。
筋肉が落ちて骨ばったダンテの腰を捉えるバージルの、碧玉の双眸は獲物を貪る獰猛な獣のそれだ。
平素、凍てつく氷のような瞳をしているぶん、交合の際の著しい変化には目を瞠るものがある。
だがそれも、ダンテただ一人しか知るものはいない。
息をつくのもやっとの状態であるダンテが、かすれた声でバージルの名を呼ばわった。
なんだ、と応じる声は言葉こそ素っ気ないものであったけれども、わずかに息が乱れている。
バージルは眉をしかめ、右目を眇めた。深く繋がったそこを、ダンテが強く締めつけたためだ。
「っ……、あまり締めるな。思うように動けぬだろう」
それで足りなくなるのはお前だと、囁く声は甘く、耳朶を舐める舌先は熱い。ダンテはぶるりと身震いをした。
「そ、んな、つもりじゃ……ッ」
ない、と言い終えぬうちに、バージルが腰を引いた。ずるりと、半ばほどまで、バージルの怒張したものがあらわになる。
無意識に震えた彼の尻を、深く抉るように突いた。濡れた悲鳴がダンテの唇から漏れる。
バージルは口角を持ち上げ、ダンテの腰を掴む手に力をこめた。
「加減するつもりだったが……そうもいかぬようだ」
くつくつと笑うバージルを、ダンテが慌てたふうに振り仰いだ。
「な、に言ってんだ、これ以上は……ッあ! はぁ……っ」
バージルは自身に絡みつく粘膜を突くことでダンテの言葉を奪い、その痩身を思うさま揺さぶった。
そうなれば、ダンテの喉をつくのはもはや嬌声のみだ。
甘い悲鳴も、苦しげな喘鳴も、聞くものはバージルの他に誰もいない。
間もなく月が昇る。
太陽のない闇色の世界に夜明けというものがあるならば、あるいは救いの一つもあっただろう。
けれども暁光を知らぬ世界に罪を浄める術はなく、恩赦などあろうはずもなく、空はただただ重く、昏い。
夫婦喧嘩を軽くいなした結果がこれというのも、なんだかな…
息子が不憫でならないのはいつものことであります。