遠雷エンライ――――第六幕ムッツメ









荒野に佇む青年の髪が、月に照らされ蒼く冴え冴えと輝く。

ネロは草木の乏しく生える、道なき道を南へ歩いていた。この世界の景色というものはどこまで歩いても変化に欠く。 もとは緑の生い茂る土地もあったと、ものの本には書いてあったが、まったくもって信憑性のない話だとネロは思っている。 事実、ネロの知る世界は枯れ果てた荒野でしかないのだから、夢物語のような話を信じろというほうが無理であった。
見たこともないものを信用することはとても難しい。ひとから百の話を聞かされても、 実際に己の目で見ないことには疑いは消えない。ネロを疑い深いと評するものは、月が支配するこの世界には存在しないだろう。 世界を牛耳るのは実質的な力であって、学ではない。いかに知識を蓄えようと、力によってねじ伏せられればそれまでだ。
そんな実力主義の世界に生まれたネロもまた、最後の最後には己の力しか頼るものはないのである。 他者は疑い、信じぬもの。そんな観念が生まれついて備わっているのか、ごく自然にそう考えているのだった。

けれどもネロには例外がただ一人存在する。それはネロをこの世に産み落とした人物である。





「なんであいつに行かせる必要がある!?」

彼は普段見せることのない剣幕で王に掴みかかった。眦を吊り上げ、まるで殺意を抱いているかのようだ。 胸ぐらを掴まれた王は、つと目を細めた。哀れむようなその表情に、彼はかっとなった。

「まだあいつを殺したいのか!」

「そうだな」

冷淡といえる声に、彼は頭に血が上るのを感じた。

「アンタは……!」

「逸るな。おまえも聞いていただろう。緊急事態だ。何も奴単独では行かせぬ」

それは情によるものではなく、あくまで事務的な作業をこなす上での判断が紡がせた言葉だった。
ダンテは眉根を寄せ、いっそう強く男を睨んだ。そうすること以外に自分にできることは何もないのだと、 彼はよく知っていた。だからこそ悔しくてならないのだ。我が子を特別扱いしろと打診することはできない。 そのためかどうかはわからないが、王はネロに兵を持たせると言ったのだ。 それはつまり、王はあくまでネロを自軍の将兵と等しく扱っているということだ。
世襲の観念がないこの世界において、力なきものは淘汰されて然るべき存在であり、そういう意味で言えば、 王は他者と我が子をまったく対等に扱っていると言えた。

そう理解できるからこそ、ダンテは心底悔しいのだった。

王は我が子を愛さない。兵らとともに子を死地へやろうともも、王にとっては何の感情も動かされることはないのだ。
ダンテが押し黙ったのを見て、王は彼から視線を外した。

「おまえは部屋へ戻っていろ、ダンテ」

「……命令か」

己が思うよりも低い声音が紡がれて、けれども彼は王を睨むことはやめなかった。

「……そうだ」

「俺にはアンタの命令を聞く義務も義理もねぇ。違うかよ?」

剣呑な言葉に、王はちらと彼に視線を呉れた。王の執務室に張り詰めた空気が満ちる。 扉の外側に控えた衛兵が背筋を凍らせ緊張に身を竦ませていたが、彼らにそれを知ることも気遣うこともできようはずがない。

「……好きにしろ」

吐き捨てるように、とも違うけれども、とても冷たい声音で王が言った。 面倒臭いものを追い払うかのように、彼に背を向ける。

悲しいだとか、淋しいだとか、そういった、ある種真っ当な感情は彼の心の内には沸かなかった。 ただ乾いたように王の背を見つめ、そして絶望した。やはりこの男は変わらない。冷酷無比。 出合ったころの、燃えるような双眸で彼を射抜くことは、もはやない。
期待していたわけではないと、思っていた。 けれど、足許の床がたわむような、底のない沼に足を踏み入れたような、形容しがたいものが彼を襲う。

「そうかよ、」

長年かけて培われてきた彼の面の皮は、彼の揺れる感情を表に晒すことを許さなかった。 一言、それだけ言い捨てて彼は王の執務室を後にした。
激情に任せて飛び出すことをせず、ことさらにゆっくりと扉を開けたのは、なけなしの意地がさせたことである。





王からの召喚をネロに伝えたのは、紅い右目をもつ大鴉だ。

“東にて争乱の起こるおそれあり――。”

王への報告を終え、再び情報収集のため飛び立とうとしたムニンへ、 意思でもってそれを伝達したのは、ムニンの片割れであるもう一羽の大鴉だった。
彼らは王より命を受け、王の耳目としてこの暗い空を奔走している。 すでに十ばかりのむらが消えている現状もふまえ、 地上へ向ける目も厳しいそれとなった矢先の報せであった。

フギンが伝えてきた争乱の欠片を、ムニンはすぐさま王へ届けた。王は彼らを耳目として使役するが、 彼らと意思を共有できるわけではない。そのため、有事が起こった際の伝達役は、より城近くを飛行しているものと、 暗黙のうちに決められていた。
フギンの言葉を、ムニンは飾ることも端折ることもなく、一言一句違えず王へ伝えた。 王の傍らには王の“半身”である、大鴉らの気に入りの姿もあったが、これは想定していたことである。 王の“半身”は、ムニンと入れ替わりに王の執務室へやってきた。それからムニンが戻るまで、 ほんのわずかな時しか経っていなかったのだから。

彼はムニンの報告をじっと聞いていた。何が起ころうとも、王がすべて良いように取り計らう。 そう信じて疑っていないようにムニンには見えた。彼がにわかに取り乱したのは、王の舌にネロの名が乗ったときである。 いや、正確に言えば、王はネロの名を口にはしなかった。王は我が子の名を呼ばわったことがない。
争乱の火種をどう始末するのか、指示を待つムニンへ王は言った。あれを呼べ、と。 ムニンはもちろん、彼もまた王が誰のことを言っているのか、すぐに察することができた。

「いいんですか?」

問うムニンへ、王は追い払うような仕種をしただけで、言葉を発することはなかった。
もはや何も言うまいと、ムニンは口を噤み、止り木から脚を離した。そのため、彼が王に掴みかかったところは見ていない。 いないが、想像はつく。彼にとって、ネロは文字通り腹を痛めて産んだ大事な我が子だ。 そのネロに剣術を教えたのは他ならぬ彼だが、彼はネロが死地へ赴くことを想定してのことではない。 何があっても一人でも生き延びることができるよう、鍛え上げたまでのことだ。
彼が目をかけた子は、これまで何度か遠征という名目で死地へ派兵されている。命を下したのは当然ながら王である。 そして、今も。

城の廊下は大鴉が翼を思い切り伸ばしてもなお余りあるほど、広い。いつ、誰が建立したかも定かではないこの巨城の中で、 異質とされる存在はふたつ。ひとつは王の“半身”。そしてもうひとつが、他ならぬネロである。



部屋の扉は、基本的に開け放たれることがない。これはどの扉も同じことで、ネロの居室だけが例外というわけではない。 太陽というものが存在しないこの世界は、どんな時期においても肌寒さを感じる程度に気温が低い。 城内は外と比較すれば暖かいと言っていいが、始終そこにいれば、外気との落差など関わりなく寒いと感じるものである。

ネロはそのとき、寝台に寝転がりぼんやりと天井を見上げていた。外界の喧騒が城まで届くことはほとんどない。 暇という名の平和なひと時を破ったのは、忙しない物音であった。
ばたん、と壊すではないかという勢いで扉を開け放ったのは、右目の紅い大鴉だった。 ムニンの平素にない慌てた様子に、ネロはすぐに寝台から身を起こした。

「なんだ?」

王の尖兵である大鴉は、情報収集のため、常にどこかの空を泳いでおり、報告のために城へ戻ることはあっても、 ほんのひと時翼を休める程度だ。そのわずかな合間にネロの顔を見に来ることはよくあるが、 ムニンなどはとくに、窓からやってくるのが常である。それが今日に限って扉を経由しての来訪だ。 これを非常事態と捉えるべきかどうかはさておき、珍しいことには違いない。

大鴉は色違いの瞳にネロを映し、何かしら悟ったような静かな声音で言った。

「王がお呼びだ」

あまりにも簡素で事務的な言葉は、おしゃべりな大鴉にはどうあっても似つかわしくないほど素っ気なくて、 ネロは一瞬意味が理解できなかった。表情でそれを察したのか、ムニンが続けて言葉を紡いだ。

「王は執務室におわす。急げ」

機械的な声だとネロは思った。聞いたことのないそれを、ムニンのものだと認識するのに時間がかかってしまう。

「何だってんだよ、急に」

王が発する召喚とは、ネロにとっては歓迎することのできぬ類のものだ。 苛立ちを隠すこともせずに言えば、ムニンは止り木代わりにネロの肩にひょいと脚を休め、翼を折り畳んだ。

「ただの任務と割り切ることだ。――俺に当たってくれるな」

「……当たってない。あいつのところに行けばいいんだな」

そうだ、とムニンは嘴を上下させた。ネロの眉間に深々とした皺が寄る。
正直なところ、行きたくはない。父である王とネロの間には、どうあっても埋めることのできない深い溝がある。 お互いが、それを埋めようだとか、橋を渡そうだとか、歩み寄るための努力をする気がまったくないため、 溝は年々深くなる一方だ。
ムニンなどは呆れ半分、諦め半分で遠目に眺めているだけだが、ネロのもう一人の肉親はそうもいかないらしく、 どうにかして王とネロを歩み寄らせようと努力を尽くしているのだが、 当の本人らにしてみれば大きなお世話でしかないのだった。
彼の努力に応えてやれたならば、そう思うけれども、現実はそんな理想を冷酷に笑い飛ばして彼方に追いやってしまう。

結局のところ、王とネロとは相入れぬいきものであるという確信は深まり、 回復の兆しなど見えるわけもないまま時は過ぎていくのだった。

ともあれ、王の召喚に応じぬほどネロは子どもではない。快諾こそせぬけれども、命令には従う。王はネロを特別扱いしない。 世襲という言葉をネロは知らないが、そういった慣習と無縁である世界に生まれたからこそわかることもある。
ふつうに考えれば、ネロがこうして暇を弄んでいるといことがすでに異常なのだ。
子は産み捨てが当然と言えるこの世界に生まれて、こうして歳を経てもなお城に留まることを許されているのは、 母がそう願っているからに違いない。母はこちらの出自ではないからか、子を慈しむことを惜しまない。 そのため、ネロが城の外へ出たことは数えるほどしかないのだった。

死地へは、何度も往った。

いつ死んでもおかしくはなかったし、王がそれを望んでいることはネロも知っていた。 大小の関わりなく、争乱に自ら足を踏み入れて無事に生き残ることのできる確率はけして高くない。 それはネロ以外の兵どもも同じことだ。

自分がいつどこで死のうと、実のところネロはどうでもいいことだと思っている。 けれども命を投げ出そうとしないのは、そうすれば母が哀しむとわかっているからだ。
生き残るための手段はすべて母に習った。母はネロが死ぬことを望んでいない。だから、生きる。 何があっても、泥濘を這ってでも、ネロは生き延びてやるつもりだ。
この生は、母のためにある。ネロはそう信じて疑わない。

「気をつけろよ」

いつになく神妙な目で大鴉が言った。外で何かが起こっているのか、火急の事態なのであろうとは察せられても、 それ以上のことは何もわからない。つくづく、城の中は平和で困る。

「あぁ。行ってくる」

王がネロを呼び寄せる理由はただひとつ。兵として使うため、それだけだ。 つまるところ、ネロの命を脅かすことに繋がるため、ムニンの口からネロを気遣う言葉が出たのだろう。
ネロはムニンとともに自室を出た。己は王の命を受けるべく、大鴉は王の命を遂行するため、 似て非なるそれぞれの道を、淀みない足取りで進む。





荒野にあるのはネロと、ネロにつけられた百の兵どもだけだ。
城を出立して約二日。隊列が間延びせぬよう気を配り、半刻に一度は小休止を取る。これらはネロの傍ら、 一歩後ろを歩く百人隊長が提案したものだ。
ネロが大所帯での行軍に慣れていないことを知っていて、しかし侮ることなく、よくネロを補佐してくれる。 城の下僕らにしろ、将兵にしろ、ネロを蔑み侮るものは多い。 それを知っている身からすれば、王がこの隊長をネロに貸し与えたことは甚だ意外だった。 王に望まれていることといえば、死ぬことよりほかにないと思っていた。 そのためならば、王はどんな手段でも取るものと思っていたのだが、違うらしいとわかって、ネロは少々困惑したものだ。
考えてみれば、さもありなん、という話なのだ。
王はあくまで事務的に、効率的にネロへ命令を下した。派兵するからには、迅速かつ効率的に敵を制圧することが求められる。 ならばどうすれば良いか。優秀な隊長の率いる精鋭をつけてやればいい。それだけだ。その精鋭をネロにつけることに、 王に躊躇いはなかっただろう。おそらく、そういうことに違いない。
どこまでも冷徹な王は、絶望的なまでに無駄を厭う。だからこそ、何ものに対しても平等なのだ。そう、彼以外のものには。

「あと半日も往けば、目的の街に着きます」

嗄れた老人のような声だ。見た目こそネロと同じ人身を取っており、顔立ちなどは精悍な男のものだが、 正体がこの姿でないことは確かだ。こちらの世界では珍しいことではなく、むしろ王の血を引きながら正体も何も持たず、 ほぼ人身であるネロの方が奇異な存在なのである。
ネロは男へ頷いて見せた。

「わかった。なら、今日はこの辺りで野営するか」

「それがよろしいかと」

無表情に賛同すると、男はそばにいた兵にその旨を告げた。伝達役の兵が駆け出すのを見送るでもなく、 ネロへ向き直って無言で顎を引く。けして出過ぎぬ態度を守り続けることは難儀ではないのか、 それともそもそもそういう性格であるのか。自分には真似できそうもないとネロは思った。
性格や性質といったものは、個々によってさまざまに違うものだ。ネロにはきょうだいはないが、 同じ親から生まれたもの同士であってもそうなのだと、昔、母が言っていたことがある。 無い物ねだりをしても仕方がないのだとも、言っていた。自分が持っているものをどのように伸ばし、活かしていくか、 そのことだけを考えろ、と。

母は誰が見ても大雑把な性質の持ち主だが、ごく稀に、とても王に似た面を見せることがある。 それはネロだけが気づいているのかどうか、確かめたことはないけれども。

伝達が行き渡ったらしく、兵らが手際良くひと時の野営地をこしらえ始めた。 皆が黙々と作業をする光景を、指揮官であるネロは眺めているしかない。
軍という集団に属していると、己にできることと、己に与えられた役割とが一致することは多くないのかもしれない。 そんなことをぼんやりと考えながら。



















戻。



ネロに名もなき部下がつきました。
隊長はネロなので、名前考えてやった方が後々のためになるかな…
あ、夫婦喧嘩は軽くスルーで大丈夫です。(何が)