遠雷――――第伍幕
ひと月の間に、大小の邑が十ばかり姿を消した。
出火か失火か、どちらかはわからないが、火災による災害はそのうち七箇所。
山のような体躯を持つ大型の悪魔が猛威を奮ったものが、二箇所。
残るひとつは、邑そのものは消えてはおらず、住人だけが忽然と姿を消したもの。
いずれも、取り立てて不可思議な事象ではない。住人にとってはどれも大層な災厄であるが、
それらの報告を受けるだけの者にとっては、気に留めるほどのこともない些事である。
けれども不可思議であったのは、それらの災厄がこのひと月に集中して起こったことであろう。
三日と空けず、邑が姿を消している。これは異常だ。原因が今ひとつ判然としないことを含め、
警戒するには充分な理由であった。
空を巡る大鴉らが緊迫した面持ちで鋭い視線を地上へ向ける中、それは起こった。
王のおわす城から北へ、大鴉の翼でもって約半日ほど飛んだところに、一際大きな街がある。
商人と呼ばれるものが多く棲家を持ち、彼らによってある種の自治が敷かれている街だ。
異変はまず、商人たちが順に殺されるという変事から始まった。月が天を一回りする間にひとり、
またひとり、変わり果てた姿となって発見されたが、住人らは騒ぎたてることも城へ通報することもなく、
ただ商人の数が減っていくのを傍観するだけであった。
商人とは、事実疎まれ蔑まれる存在である。
ひとの住まう世界と、闇の眷属が棲む世界は強力な結界によって正しく分かたれている。
そのためこちらの住人にとっての食糧となる人間を、自らでもって狩りに行くことは容易ではない。
彼らの糧は、時折こちらの世界に迷い込んで来た不運な人間。それを素早く捕らえ、
売りさばくことを生業としてしまったのが商人である。文字通り数に限りのある商品は、
当然のことながらとても値が張る。商人らが買い手の足許を見て値を吊り上げているからだ。
不平不満が商人へ向けられるのは当たり前のことで、けれども厄介なことに、商人はなまじの強さではない。
殺され商品を奪われては意味がないため、幾人も強者を用心棒として雇う一方、
自身もまたそれに引けを取らぬ強さを備えているのだ。
その忌々しい商人が、日を追うごとに数を減らしていく。
誰がそんな凶行を犯しているのかは知れないが、それを止めようとするものはこの街には存在しなかった。
自然と街ぐるみで商人の暗殺に加担するかたちとなった結果、街を事実上支配していた商人はすべて死に、
そしてその後、数日を置かずすべての住人が姿を消した。
「別の邑でも同じことがあったようで、どちらもくまなく調べてみましたが、確かに影ひとつ残さず消えちまってます」
家財道具、などといった上等なものを揃えている者は少ないが、略奪に遭った様子もない、と
紅い右目をもつ大鴉が首をかしげて言った。火を放たれるでもなく、破壊されるでもなく、
荒らされた様子がないのに住人だけがきれいさっぱり姿を消す。それが現時点で二箇所あるという。
彼らがどこへ隠遁したのか、大鴉は辺りを捜索してみたが、ただの徒労に終わったようだ。
「まだ他にも同じような邑があるかもしれないんで、見つけ次第連絡を寄越すよう、フギンには伝えてあります」
「ご苦労。まずはそれだけで充分だ。引き続き警戒を怠るな」
「はいはいっと……、んん?」
やる気のない返事をした大鴉が、妙な声を上げて扉を見やった。一方で王は軽くため息をついている。
呆れているようにも、こみ上げる怒りを抑えているようにも見える仕種だ。
事実、王の眉間にはいつになく深い皺が刻まれている。大鴉が王へちらりと視線を送ったが、
王はそれをきれいに無視して扉を睨むことに忙しい。
扉のあちら、両脇に控えた衛兵の声が聞こえて間もなく、およそ遠慮というものを知らぬ風体で扉が開いた。
現れたのは、王と大鴉のどちらの予想を裏切ることもなく――
「……何をしている」
低い恫喝に似た声音で、王は己の“半身"を迎えた。この世界に君臨する絶対者の発する冷徹な声と厳格な双眸に、
それを横合いから見ているに過ぎない大鴉が慄然として背筋を伸ばした。
王に相対して、まったく平然としていられるのは彼くらいのものであろう。
その彼は、悪びれるでもなく肩をすくめた。
「そんな睨むなよ。なんか外が騒がしいから、起きちまったんだ」
彼が王の執務室に顔を出すことはとても珍しい。王は彼に、極力部屋から出ないよう何度も言って聞かせてあるのだが、
生来奔放な性格である彼を一所に押し込めておくことは難しく、彼は度々脱走を企てるという悪癖を覚えてしまっていた。
その度に彼に小言の雨を降らせる王であるが、彼がそれを聞き入れ悪癖を改めたことは一度たりともない。
今はとくに、小言では済ませられない理由があった。
「何度言えばわかる。少しばかり具合がいいからといって、その度に部屋を抜け出すのはやめろ」
渋面を浮かべ、王が苦々しく言った。しかし彼には彼の言い分があるようで、でも、と唇を尖らせる。
「今日は本当に調子がいいんだから、大目に見てくれよ」
いつも大目に見てやっているだろう、とは、王は言わなかった。大鴉はふたりのやり取りを無言で見守っている。
「昨夜よりは確かにましだが、顔色がいいとは言い難い。……奴らは何をしていた」
「あいつらは俺が言いくるめて撒いてきた。いつも通りな」
けろりと答える彼に、王が頭痛を覚えたように目を閉じ、指先でこめかみを抑えた。王にこのような仕種をさせるのは、
世界広しと言えど彼以外にはいないだろう。そんなことを大鴉が考えているかどうかはわからないが、
少なくとも彼に自覚がないことは間違いない。
深々とため息をつき、王はふと大鴉へ視線をやった。
右目の紅い大鴉は、ひとが肩をすくめるように翼の付け根をもぞりと動かし、とんと止り木を蹴った。
何度か翼でばさばさと空を掻き、扉へ向かって滑空する。
「もう行くのか?」
呑気な彼がそんなことを言った。彼とて大鴉の役目は知っているが、
同時にこの紅い右目の大鴉が彼と似てとてもお喋りであることも知っており、
城へ戻るたびに彼や彼の子を相手にひとしきり話をするのだ。それが当たり前になっていた彼である。
大鴉が得意のお喋りもせずに任務に戻ろうとしていることが、ただ純粋に不思議だったらしい。
大鴉は扉の取っ手を止り木代わりにして器用に平衡を保つと、彼を振り仰ぎからからと笑った。
「構ってやりたいのはやまやまだが、何ぶん忙しい身でね。落ち着いたら、またゆっくり話もしようや」
「あぁ、楽しみにしてるぜ。気をつけてな」
「あんたが労ってくれるんなら、張り切り甲斐もあるってもんだ。……おっと、無駄口はここまでにしとくか」
こわいこわい、と。身を縮ませながら、大鴉は自力で扉を開けて王の執務室から飛び去っていく。
その後ろ姿を剣呑な目で睨む王には気づかず、彼は手など振って黒い影を見送った。
「それで、」
彼がいつまでも扉のほうを見ているのが気に入らないとばかりに、王は尖った声音で話を引き戻した。
「何の用だ、ダンテ?」
彼は王をちらりと見やってから、視線を床に落として唇を尖らせた。
「用がなきゃ来ちゃいけねぇのか?」
拗ねたような表情でそっぽを向いた彼へ、王はちょっと肩をすくめて彼の二の腕をおもむろに掴んだ。
なに、と彼が戸惑ったように声をあげるのを無視して、王は彼を腕の中へ閉じ込めた。
ほっそりとした彼の体躯をきつく抱きしめると、その感触が以前とはまるで違っていることを嫌でも思い知らされる。
彼自身はどうということのないように振舞っているが、実際彼は以前とは比べものにならぬほど痩せた。
彼の身を蝕んでいるのは病ではない。だからこそ厄介なのであって、王は忌々しく思うのも仕様のないことだ。
「そんなことは言っていない。珍しいことをするからだ」
王がそう言えば、まぁ確かに、と彼が笑った。
「笑いごとか。また倒れでもしたらどうする」
王は小言が多い、とは彼の言葉である。確かに王の口からこぼれるものは小言と言えるものが中心となっているが、
あくまで彼にのみ紡がれるものたちであって、他者とのやり取りにおいて王が小言など吐くことはないのだが、
それは彼の知らぬことであった。
それで、と彼が王の胸板を手の甲で軽く叩いて言った。
「何が起こってる? ここんとこ、やけに気が立ってるだろ」
なんでだ、と彼は問う。体調がよければすぐにも部屋を抜け出そうとする彼であるが、
それでも城の外へ出ることは一度もなかった。そこまでの無理を押して良いか悪いかくらいは、
薬師に念押しされるまでもなくわかるのに違いない。自身の躰がもはや、昔のようには動かぬということを。
だから彼は外の様子をまるで知らない。王の居室には大きな窓が設えてあるが、所詮、窓は窓に過ぎず、
そこから見えるものなどたかが知れている。
王は己を凝視する強い眼差しに見惚れるように、ただ彼を見つめ返した。痩せて体力こそ衰えたと言えども、
彼が彼であることに変わりはない。
「……何が起こるかわからぬゆえに、鴉どもに調べさせている。それだけだ」
王は彼へ嘘を吐くことがない。彼への言葉はすべて真実であり、彼もまたそれをよく知っているのだった。
「何か起こったとしたら、……どうする」
「知れたことだ。兵を送って黙らせる」
それ以外の手段は持っていないとばかりに肩をすめる王に、彼が眉をしかめた。
彼を知らぬものがその表情を見れば、実力行使に対する嫌悪からの表情だと思っただろう。
それはまったくの間違いであることは、彼のもらしたつぶやきに色濃く表れていた。
「ちぇっ、体調さえ万全なら、俺が出てって片付けてやるのに」
王は彼を閉じ込める力をわずかに抜き、眉間に刻まれた皺を深くした。
「……どちらにせよ、俺がさせんがな」
命を共有する文字通りの半身の腕から、身をよじるようにして抜け出し、彼はおどけるように言う。
「なんで。 面白そうじゃねぇか」
心底そう思っている様子の彼に対し、王は眉間を指で揉むような仕種をした。
「……おまえは何もわかっていないようだな」
今の今まで渋面が浮かんでいた王の顔に、妙に凄みを帯びた笑みがたたえられる。彼の頬がかすかに引き攣った。
「わ、わかってないって、何を」
「知りたいか、ダンテ?」
「うっ……、いや、いい、俺は部屋に戻って寝直そうと思う。うん」
ぎこちなく目を逸らし、わざとらしいまでに改まって言う彼の肩を、王は笑みを貼りつかせたままがしりと掴んだ。
氷のようだと誰かが評した双眸はまるで笑っておらず、口許の艶然たる微笑と相まっておそろしい雰囲気を醸し出している。
「今さら遠慮など無用だ。それとも暗に誘っているのか?」
「誰が誘うか! アンタのその曲解癖、いい加減どうにかしろよ!」
「生憎だが、直さねばならぬ癖に心当たりはないのでな。おまえが諦めるしかないだろうな」
「……アンタ、わかってて言ってんだろ。なぁ?」
じとり、彼が王を睨む。冗談めいた言葉の応酬も含め、彼のように王へ接することのできる者は彼以外には存在しない。
彼はそれがとても稀有なことであるとは露ほども思ってはいないし、王もまたその事実を彼に話して聞かせることをしないのだ。
彼にとっての自然な言動を、王は己が考える以上に大切なものと思っている。おそらくはそういうことなのだろう。
「さて、何のことだかわからんな」
くつくつと笑う王に対し、彼はいっそう目尻を吊り上げる。
「わざとらしいんだよ、てめぇ」
言葉にこそ険があるものの、彼らにとってこれらのやり取りは犬や猫のじゃれ合いと変わらない。
だからこそ、王の頬には笑みがあるのに違いなかった。
「そう毛を逆立てるな。……今日はできる限り早く戻るから、先に部屋で待っていろ」
柔和な表情や声音とは縁の薄い男が、唯一例外としているのが彼の存在である。
反対に、彼は誰に対してもあけすけで正直な性質で、齢もそれなりに重ねているため普段でこそ歳相応であるが、
王に対しては幼いと言える言動を取ることがある。
「……うん。待ってるから、早く、な?」
どこか舌足らずな声色に、王の笑みが深くなった。彼の痩せた腰に腕を回し、己の腕の中へ引き寄せる。
彼は抵抗するでもなく、すんなりと王の懐へおさまった。
彼の唇が何かしら言葉を紡ごうと開かれるのと、扉のあちら側からばさばさと大きな羽音が聞こえたのとは、
ほぼ同時であった。瞬間、王の目つきが厳しいものに変わる。
かの羽音が、おそらくは良からぬ報せを運んできたのだろう――黒きものは不吉を運ぶ。
闇に満ちたこの世界では、そのような迷信は信じられていないのだけれども。
バジダン。たまにしか出てこないバジダン。
三つ巴好きなのに、ネロまったく出せず。無念。
エロなしのままオチに行きそうな感じがむんむんしてるのも無念でなりません。