遠雷――――第四幕
夜陰にひとつ、火の手が上がった。篝火のそれではない。集落の北端、粗末な屋根が赤く染まっている。
乾いた風が火の粉を運び、間もなく隣り合った屋根にも火の手が回った。
ざわざわと大気が揺らめくように影のような生きものが赤く染まった屋根の下から這い出し、あわあわと逃げ回る。
その間にも火は徐々に大きく育ち、横へ、縦へと踊るように、周囲のすべて飲み込んでいく。
はらはらと火の粉の舞うさまは、さながら花弁の散るようであった。
小さな邑がひとつ、月が天を一回りするより早く、炎に呑まれて消えた。
さらさらと、細い雨が天の皿よりこぼれ落ち、痩せた土地を濡らしていく。
黒い翼を持つものが、しっとり濡れた艶やかな羽をゆるゆると翻した。
翼の根元を啄むように掻いた嘴をぱくりと開け、紡ぐ声音は口汚い悪態である。
「ちっ。あとちょっと待ってくれりゃ、こんな濡れずに済んだってのに」
天候に文句を言ったところで虚しいばかりなのだけれども、濡れることを大いに厭う身としては、
目的地の寸前で雨に降られたことを呪わずにはおれぬのであった。
ぶつぶつ文句を垂れていると、不意に横合いから「災難だったな」と平坦な言葉が投げられた。
「……白々しい」
きょろりと鋭く動く瞳は、右目だけが紅い。胡乱な視線を受けたのは、こちらも濡れ羽色の翼を持つものである。
「これでも本心だ」
しれっとそんなことを宣うこちらの大鴉は、左目だけが蒼い。
まだ乾かぬ羽に辟易しているのがムニン、そしてそれを見守っているほうがフギンという名である。
見目瓜二つの彼らを見分ける方法のひとつが、この色違いの瞳だ。
彼らがこうして同じ場に集まることは、実のところとても珍しい。
いつもは王の尖兵として、フギンは悪魔の棲むこちらの空を、ムニンはひとの住むあちらの空を、
それぞれ飛び回り情報収集に忙しい。報告のため王の膝下へ戻ることはあっても、互いに顔を合わせることは稀であった。
フギンとムニンの関係は、ひとでいうところの双子とは少しばかり異なる。
互いが唯一の同胞であり、分身という言葉が相応しいだろう。身は離れていても、彼らは意志を共有することができる。
ゆえに別々の場所にいながらにして、己の意志を片割れへ伝えることが可能なのだ。
今、珍しくも彼らが時を同じくして王の居城で顔を合わせるに到ったのは、フギンが片割れへ、
こちらへ戻るよう伝えたからであった。
「それで、用ってのは? わざわざ呼び出すからには、よっぽどの急務なんだろ?」
彼らはいつなりとも互いの意志を伝えることができるが、その能力を使役することはほとんどない。
それこそ、よほど急を要することがない限りは。
フギンは蒼い左目をつと細めた。
「王がお呼びになったからだ。およその見当はついているが、違っているかもしれん」
「ふぅん……相変わらず、我らが王は秘密主義だな」
二羽の大鴉は王によって支配されている。
これまで様々な者が王座を得たが、大鴉らにとっては誰が王になろうとも、さして興味を持ったことはない。
現王は自分たちを己の耳目としてよく使うが、先王の時代はまるで逆だった。
その時々の王によって、尖兵の使い方は違ってくる。それをいちいち気にしていてはきりがないのだ。
ために、彼らには王への忠誠心は薄い。
王の耳目となって飛び回るのは、あくまでも己らの役目を全うしているだけであり、王に忠実であるがゆえではない。
例えば王が何がしかの理由によって斃れようとも、大鴉らにはかかわりのないことなのである。
そういう意味では、彼らに主はいない。
「まぁ、いいや。行こう。ろくな話じゃないことは間違いないだろうが……」
渋々翼を広げ、ふわりと止り木から脚を離したムニンの背を、フギンが無言で追った。
恐怖か、信頼か、それとも義務か。支配するものとされるものの関係は様々だ。
力こそがすべてを統べる、この闇に満ちた世界においての支配とは、すなわち恐怖によるものである。
王は最強であるがゆえに絶対の理であり、それに背くことは己の死と同義なのだ。
「叛乱?」
ここしばらく聞くことのなかった言葉を自ら口にして、ムニンは首を傾げた。
これが先王の時代であれば、まるで違った反応を示したであろう。
血と悲鳴をこよなく愛した今は亡き王は、同胞らの諍いや争いもまた好むという悪癖があった。
ひとも同胞もかかわりなくいたぶり、恐怖に陥れ命を奪うやり方に反抗して、しばしば叛乱が起こったものだ。
しかし、現王は違う。銀髪碧眼の王が立って以来、内乱は年を追うごとに減り、反乱分子もまたなりを潜めた。
あるものにとっては暮らしやすく、あるものにとっては生きにくいと言える秩序が形成されたのだ。
「そうかもしれぬ、という程度の話だがな」
怪訝そうに目を細める大鴉に、椅子に腰掛けた王はあくまで淡々と言った。
そのかたわらで、フギンがこくりと嘴を下げる。王は滅多に城外へ出ることがない。
叛乱の可能性があると判断した理由は、フギンがもたらした情報に因るものに違いなかった。
それを、ムニンはどうこう思うことはない。フギンの情報を疑うという選択肢は、ムニンにははなからないのだ。
「なるほど。俺にもこちらを警戒しろと、そういうことですね」
まだ可能性があるという段階にすぎないが、全くの零でない限り、警戒を怠るわけにはいかない。
そしてムニンがあえてこちらへ召集されたことを鑑みるに、
王は叛乱が起こる可能性がけっして低くないものと考えているからに違いなかった。
ならば、ムニンから何を問う必要もない。
「フギンは東、ムニンは西へ行け。何ごとかあればすぐに報せるように」
王は簡単にそう告げたが、こちらの世界は思いのほか広い。深い、という表現のほうが正しいかもしれない。
大鴉の翼をもってしても、すべてを巡察するのにかかる時間は数日では済まないのだ。
とはいえ、これは慣れだ。フギンもムニンも、王の命令を横暴であるとは思わなかった。
そもそも、いかに不平を申し立てたところで、大鴉が二羽しかいないことに変わりはないのだから。
「承知、」
「リョーカイ」
それぞれがそれぞれの返事をし、ほぼ同時に止り木を蹴った。
ふわりと中空で旋回し、律儀に扉から出て行くのはどちらの大鴉も同じである。
翼あるものたちが去った執務室で、王は椅子の肘掛けに頬杖をついて、斜に構えるような格好で物思いに耽っていた。
叛乱、というものはどんなものであったか、などと詮ないことをふと考え始めたのがきっかけである。
王――バージルは先王を弑逆し玉座を得た。あのときのことは忘れてはいないが、
少なくともあれは、叛乱とは違ったものだったと記憶している。
先王の時代は争いこそ絶えなかったし、それに乗じて王を討とうとするものが現れることも少なくなかった。
バージルもまた、そのひとりである。しかしバージルがほかと違っていたのは、玉座を欲しての凶行ではなかったことだ。
バージルは王になりたかったわけではない。玉座に縛られることをよしとするほど、権力への欲望はバージルにはなかった。
ならばなぜ、先王を弑したのか。
実のところ、バージル自身にもその理由は定かではない。若かったと、歳を経た今ではそう思う。
若かりし頃、バージルは常に強い相手を求めていた。
潜在的に能力の高かったバージルには、物心つく頃からすでに周りに敵らしい敵はいなかった。
親は顔も知らないが、よほど力のあるものから生まれたのであろうと予想することは容易である。
幼少期からして負けというものを知らなかったバージルにとって、文字通り弱肉強食であるこの世界は、
なんとも言いようもなく詰まらないものだった。
なので自分の足でさまざまな土地へ赴き、行く先々で強いものとの決闘を求めた。
決闘、といえば聞こえは良いが、相手方からすれば、ただの喧嘩っ早い餓鬼にしか見えなかっただろう。
強いものを求め、闘い、勝ち残ることでバージルの力は短期間で飛躍的に強化された。
もはやどんな土地へ移ってもバージルを打ち負かすことのできるものはおらず、どころか、
バージルの姿を見るや逃げ出すものさえあった。
そうして、退屈を持て余したバージルが最後に決闘を求めた相手が、悪名高き当時の王である。
結果はもはや言うまでもない。望む望まぬにかかわらず、玉座はバージルのものとなり、バージルは世界を統べるものとなった。
詰まらなかった。バージルは自身の強さを求めたのではなかったはずだ。ただ、強いものと闘いたかっただけなのだ。
それがいつの間にか、正しく世界の頂点に上り詰めてしまったのだ。もはやバージルに力で優るものはいない。
その事実に茫然とすると同時に、胸のどこかに、小さくはない穴がぽかりと口を空けていることに気がついたのだ。
王としての日常はとても退屈なものだった。
もはや争いを望まぬようになっていたバージルは、先王時代の名残を消し去るべく秩序を敷いた。
誰の血が流れようが、誰がどこで骸となろうが、例えば誰ぞが自身の命を狙いに来ようが、
すべてバージルには関心のないことであったが、騒々しいものを好まない性格は生まれつきである。
兵は王という存在に絶対の忠誠を誓っている。彼らは実によく働いた。
目に余る争乱へはバージル自らが鎮圧に赴くこともあり、ほどなくして、月の巡る世界は静寂に包まれた。
だが、目的を達成しても、バージルの胸に空いた穴がついに塞がることはなかった。
またしても去来する退屈な日々を、バージルはため息ひとつで受け入れた。
王座など棄ててしまってもかまわなかったのだ。けれどもそうしなかった理由は、棄てるに到る理由もなかったからだ。
たとえ王の名を棄てたとしても、バージルを待っている結局のところ退屈ばかりであることは目に見えていた。
それならば、この城から世界を睥睨し、瘧のように時折起こる争いを眺めているほうが、
ほんの少しばかりの退屈しのぎになるだろう。深く考えたわけではないが、ある種の取捨選択が脳内で展開された結果、
バージルは今も変わらずこの世界に君臨している。
例えば、これから起こる可能性のある叛乱が、結果的にバージルの退位をもたらすことになったとしても、
それはそれで構わないと思う。およそバージルに力で敵うものはいないけれども、力に頼らなくとも、
何らかの策を弄すればまったくの不可能ではないはずだ。
けれど実際には、バージルはまだ起こるかもわからぬ叛乱に備え、大鴉へ警戒を命じたところだ。
賢しい大鴉どもならば、バージルが神経を尖らせている本当の理由に気づいているかもしれない。
“半身”を得て以来、バージルは以前に増してこの世界の統治に力を入れてきた。それは違えようもなく彼のためだ。
彼の本質は闘争を好むが、無益な流血を望むたちではない。
甘えた考え方だと思う傍ら、彼が望むならばそれを叶えてやることもやぶさかではないと思うのだ。
彼のためにバージルはこの世界を治めているといっていい。
もし王が代変わりことになれば、再び秩序のない世界へと戻るに違いない。こちらの生きものは皆、血と悲鳴を好む傾向にある。
前王は例外などではなく、他よりもその傾向が強かっただけのことなのだ。
そして何より、何かことが起こった場合――もし城が落ちるような事態に陥れば、まず狙われるのは彼に違いない。
王の力の源である“半身”を殺しておかねば、バージルに血を流させることは不可能だ。
バージルは力を得るために“半身”を得たわけではないし、彼を喪ったからといって誰に遅れを取ることもないだろう。
だが、問題はそこではない。
万が一にも彼を喪うことがあれば。そう考えるだけで、うそ寒いものが背筋を這う。
それだけは避けねばならぬと、頭のどこかで警鐘が鳴り響く。本能に似た何かが、声の限りに叫び声をあげる。
どんな小さな火種にも、最悪の事態を想定して備えねばならない。彼を護るためならば、どんな徒労も惜しみはしない。
(おまえは俺のものだ。)
その声も、笑顔も、涙も、肉のひと欠片も、髪の一本たりとも、すべて。誰にも渡しはしない。
けれども、――血は。
彼を手に入れることで一度は埋まったはずの、胸のどこかに空いた穴は、あれがこの世に生まれ出でたことで綻び、
もはや誰の手にも繕えぬほど拡がってしまっている。
どうにも手の施しようのない空虚を、これ以上味わうことは是が非でも避けねばならないのだ。
王は瞼を閉じ、深く、ことさらにゆっくり、息を吐いた。
深く考えずに話を練るので、自分で作った設定等を忘れる、という失態をよく犯します。
それにしてもなんという味気のなさ。王さまの独白で力尽きるとは…無念…