遠雷――――第参幕
轟く雷鳴は遠く、硝子越しの閃光はどこか非現実的で、己は確かに世界から切り離されているのだと教えてくれる。
正しく世界の中央に佇む巨大な城の一角で、彼は今朝も暗い覚醒を迎えた。
ゆらり、燭台の灯が、星の儚く瞬くように揺れる。
「どこへ行く?」
恫喝に似た声に、ダンテは驚くでもなく、まして怯えるでもなくひょいと肩をすくめた。
悪びれるふうのない彼に、声をかけたほうが渋りきった様子で言う。
「部屋から出ること罷りならぬ。王より厳しく命じられておるだろう」
わかってるよ。ダンテは大仰にため息をつき、扉の両脇を護る下僕(この呼ばわり方はダンテは好きではない)を交互に見やった。
「わかってるが、な。閉じ込められる俺の身にもなってくれよ。いい加減、気が滅入って仕方ねえ」
扉を護る下僕はふたり。どちらも筋骨隆々たる巨漢である。
見目こそ瓜二つであるが、一方は朱く、もう一方が碧い躰であるため、見分けることに関してはまったく苦労しない。
が、異様なのはどちらにも頭部が見当たらぬことだろう。
ではどのようにして彼と会話を成立させているかといえば、下僕らがそれぞれ手に握っている、奇妙な形状の剣にからくりがある。
刃先を床につける格好で垂直にして握った柄の先に、丸い、装飾らしきものがついている。
その丸いものが、操り人形の頭のようにかくかくと動く。
「我らとて、本意ではないと理解してもらいたい」
一方がそんなことを言えば、もう一方が「然り」と同意した。
「我らは好んでこの任に就いたが、あくまで汝を守護するためであり、監視するためではない」
「然り。我らは汝を護るためにある。が、我らは王の下僕にすぎぬ。王の命には逆らえぬ」
まったくもって不本意そうに言うものだから、彼は逆に呆れてしまった。
「なら、なんであいつに従ってるんだ? 嫌なら辞めちまえばいいだろ」
「そうはゆかぬ」
ふたりの下僕が声を揃えて彼の言葉を否定した。
「王は絶対である」
「王の命には誰も背けぬ」
「それが王である」
「それが理である」
交互に話すのは、この下僕らが人間で言うところの双子にあたるからなのか、それともいっそ癖のようなものか、
ダンテにはわからないが、彼らとの会話はいつもどこかしら噛み合わぬものを感じることは間違いなかった。
扉の守護者はいつのときも饒舌だ。彼らを黙らせ部屋を抜け出したことは一度や二度の話ではないが、毎度、
このやり取りには頭痛を覚える。ダンテは基本的に、自分より饒舌なものを好まない。
とはいえ、この口やかましい守護者らを嫌いにはなれないのが不思議であった。
「理、ねぇ……よくわからねぇけど、有無を言わせぬ感じならわかるかな……」
ダンテはあの男が王になる以前の姿を知らない。出合ったときには、男はすでに王であった。
ゆえに、あの独裁者のような口調や態度が生来のものであるのか、
はたまた王として君臨して以降の年月がもたらしたものであるのか、ダンテには判別のつけようがない。
そもそもこちらの生まれではないダンテにとって、王というものがいかに強大な存在であるのかもわからないのだった。
「王の“半身”たる汝もまた、理のうち」
「然り。……口惜しいが、致し方なし」
「口惜しい? って、何がだ?」
首を傾げるダンテだが、ふたりは然り然りと繰り返すばかりで話にならない。
これもいつものことで、ダンテはすでに慣れてしまっていた。
「いつも言ってるが、お前ら喋りすぎだ。ちょっと黙ってろ。いいな?」
子どもに言い聞かせるようなダンテの口調を、下僕らはどう受け取ったか。
鋸のような刃をもつそれぞれの剣の、装飾らしき丸いものに、びかりとふたつずつ、ひとが目を見開くように光を放った。
「我らは汝を護るためにあるが、汝の命を聞くことはできぬ」
「無念であるが、それが理」
「然り。そもそも、汝は我らが黙っている隙に逃げるつもりであろう」
「それはゆかぬ。我らはこの場を離れること罷りならぬ」
「ゆえに汝を護るため、汝を逃がすわけにはゆかぬのだ」
交互に忙しなくまくし立てる双子の番人に、ダンテはきつく眉をしかめた。
「だから煩ぇって言ってるだろ」
なまじ顔立ちが整っているため、彼が眦を吊り上げて凄むと迫力がある。
が、残念ながらこのふたりに凄んで見せたところで、竦んだ様子はまるでない。
もっとも、何があろうともこの番人らが動じることはないのだろうけれども。
しかしながら。ダンテにとっては奇妙なことに、双子の番人はダンテには途方もなく甘く、
近ごろとみに体力の衰えた彼の脱走が成功している理由はそれなのであった。
「何も城の外に行こうってんじゃねぇんだ。大目に見ろよ、な?」
王の命令云々について言及するならば、ダンテはいつもバージルに対して、脱走はあくまで己の意志である断言している。
番人らについてはあえて触れないが、聡いバージルは嫌そうな表情を浮かべつつも、これまで彼らを処罰することはしていない。
それは王もまた大いに彼に甘いがゆえのことなのだが、ダンテは知る由もない。
たかが人間と彼を侮るものが存在する一方で、彼に惹かれるものも少なくないのだが、
彼自身はやはり、どちらの感情にも気づいてはいないのであった。
彼に害をなそうとする輩は、すべて王が厳罰をもって処していた。
それを彼が知ればやめろと言うところであったが、彼という人間をよく理解している王は、微塵もその気配を見せることはない。
頼む、と両手を合わせ懇願するダンテ。仁王立ちでそれを見つめるふたりの番人。
しばしの沈黙のあと、折れたのはいつも通り番人らのほうだった。
「くっ……それは卑怯というものであるぞ……!」
「かように愛らしくねだられては……致し方なし……!」
ダンテにそれらの言葉の意味はわからなかったが、最後の一言だけは理解することができた。
「いつもありがとな、アグ、ルド」
双子の番人――見目の朱いほうの名をアグニ、碧いほうをルドラという。
ダンテはそのほうが言いやすいという理由で彼らの名を縮めて呼ばわるが、当人らはそのことを意外とすんなり受け入れていた。
細かいことは気にしない性格なのだろうと、勝手に解釈しているダンテである。
真実は違うのだと、彼に教えてやるものはどこにもいない。
ぱっと華やいだ笑顔を咲かせたダンテに、番人らが何をか呻いたような気がしたが、
軽い足取りで廊下を行く彼は振り向くこともしなかった。どうせくだらぬことに違いない。
それに気にして声をかけてしまうと、また余計な時間を食うことになるのだと、ダンテはつくづく身に染みて知っているのだ。
いつか垣間見た、秀麗であるがゆえに血の通わぬ彫像のような横顔に、一瞬、えも言われぬ寒気を覚えた。
銀髪の青年は小卓に肘をついて、ぼんやりと外を眺めている。
外界はぼんやりと明るい。薄雲の合間から月が顔を覗かせているからだが、その景色を美しいと感じることはない。
見慣れた――いっそ見飽きたと言っていい光景である。
月に支配された世界は暗い。雲が晴れればそれなりには明るいが、それだけだ。
母が語ったことのある、太陽というものの光に比べれば月の放つそれは暗いに違いない。
その母は、めっきり部屋から出て来られなくなっている。
自由気儘で、何ごとも反射的に行動しているとしか思えない母を、王は極力部屋から出ないよう制限をしていた。
母はそれを厭い、何度も部屋を抜け出しては小言を食らっていたようだが、最近はそれすらできないようである。
つい先日、引きこもりがちの母を案じてネロのほうから母の寝室を訪ねた。
ネロはその部屋への出入りを王によって禁じられている身であるが、己の母に会うことを制限される謂れはないと、
何度もその禁を破っている。
彼は寝台の人となり、白い掛布に包まれ眠っていた。燭台の灯に照らされてなお白い顔色に、ネロはうそ寒いものを感じた。
硝子越しの世界は暗い。ネロの狭い世界はそれ以上に暗く、日に日に翳りを増していく。
(あんなこと、聞くんじゃなかった)
若い青年の心は、後悔の一色に染め上げられていた。
城の底、月明かりの届かぬ書庫のさらに奥底で、書庫の主と呼ばれる男が語った内容に、
ネロは己でさえも不可解なほどに衝撃を受けた。彼に関わる、思わぬ話であったためだろうか。
理由は定かではない。しかしネロがそれ以降、書庫に近づくことすらしなくなったのは確かだ。
深い、悔恨のため息が無意識にもれる。彼の蒼褪めた寝顔を観てしまって以来、ため息の数は増えるばかりだ。
――それは、そう、まるで死人のような。
(違う。そうじゃない。……考えるな。)
自分自身へ言い聞かせ、どうにか平常を保っている現状の危うさを、ネロ自身もよくわかっている。
しかしこれ以上の方策などネロは持ってはおらず、このぎりぎりの綱渡りを続けるより他に道はないのだった。
もし万が一にも彼を喪うことになった場合のことなど、想像すらしたくない。まして、その後のことなど。
救いというべきかはわからないが、王の耳である大鴉がほとんど姿を見せなくなったことはネロにとって幸いであった。
あの小賢しく口やかましい鴉が今のネロの様子を見れば、確実にいらぬ世話を焼いていたに違いない。
何度目かも知れぬため息を深々と吐き出し、ネロは小卓の上へ目をやった。
考えることは、こんなときでも彼のことばかりだ。そして彼の身を案じては、蒼褪めた生気の感じられぬ寝顔を思い出す。
考えるなと、思えば思うほど、彼のことばかりが脳裏を占める。
この想いを吐露することができたなら、どれほど楽になれるだろうか。
いっそすべてさらけ出して、彼を組み敷きその身を蹂躙してしまおうか。
彼の肉は、どんなにか温かだろう。彼の声は、どんなにか甘やかだろう。
想像して、下腹に熱いものが集まるけれども、それを本当に彼にぶつけることはできないということは、
ネロ自身がもっともよくわかっている。不毛な妄想を繰り広げ、己で己を慰めることには、虚しいけれどももう慣れた。
(ダンテ、)
ひそりと母の名を囁く声はか細く、そして儚く。彼の白い横顔を思い出す。愛してやまぬひと。焦がれてならぬひと。
この命は彼のためにある。ネロはそう、信じて疑わない。
手を握り合わせ、頭を垂れる格好で額にあてる。それはまるで神へ真摯に祈りを捧げる、敬虔な信徒のように。
かちり、と金属がこすれる音に、ネロは驚いて立ち上がった。扉の取手がひねられたらしい。
しかし己を訪うものに心当たりのないネロは、息を詰めて扉を注視した。
この部屋に誰かが来るとすれば、彼と大鴉以外ではありえない。彼は前述のとおりであるし、大鴉もまた然りだ。
じっと、まばたきも忘れて来訪者へ備えるネロの目が、先ほどとは別の驚きに見開かれる。
「ダンテ?!」
慌てて、ネロは彼のそばへ駆け寄った。彼はにやりとひとの悪そうな表情を浮かべて笑う。
「なんだ、幽霊でも見たような顔だな」
顔色はあまりよくないが、ネロをからかう口は相変わらず達者である。
「なんでここに……寝てなくて大丈夫かよ?」
「今日は気分がいいんでね。調子の良い日まで寝てたんじゃ、腐っちまいそうだから逃げてきた」
得意の脱走である。彼の部屋には門番のようないかめつらしい下僕がふたり、詰めているが、どちらもが彼にとことん弱い。
いる意味があるのかと問いただしたいところだが、彼もまたその下僕らを気に入っている様子であるため、
口に出したことはなかった。
「また、どやされるぞ」
誰に、とは言わない。わざわざ名を舌に乗せるのも忌々しいことであるし、みなまで言わずとも彼に伝わらぬはずがなかった。
彼はひょいと肩をすくめ、悪戯好きのこどものように笑って見せる。
「ばれたらその時考えるさ。それより、茶ァくれ。喉渇いた」
にっこり笑って催促する彼に、ネロは苦笑した。これではどちらがこどもか、本当にわからない。
「はいはい。わかったから、座って待っててくれ」
「Thanks, ……それにしても、相変わらず殺風景な部屋だな」
放っておけ、とネロは口の中でつぶやいた。毛足の短い紺色の絨毯は無地であるし、小卓と椅子、
それから寝るためだけの寝台は装飾の類の一切ない、よく言えば簡素な作りのそれだ。
趣味らしい趣味もなく、壁に何かしら飾ることもしないため、寝る場所さえどこかにあれば、
いっそ部屋などなくても問題はないというのが実際のところであった。
ちなみに彼の部屋は絨毯にしろ家具にしろ、いちいち装飾が凝っており、うるさいくらいだとネロには感じられる。
あれは慣れだと彼は言うが、あの部屋を訪れるたびに趣味が悪いと眉を顰めている青年に、慣れることなどできそうもない。
王の趣味ではないと聞いたことがあるが、だからどうなのだとネロは思う。
「あんたなら、壁に何か飾りそうだよな。変な置物とか好きそうだし……」
茶を淹れてやりながら、ネロはふざけて言った。彼の部屋はすなわち王の居室であるため、
いつ足を運んでもきれいに整頓されているが、あれが彼個人の部屋であったならば、おそろしく散らかっていることだろう。
およそ、掃除や片付けなどとは無縁の彼である。
んん? と彼は妙に真面目に首をかしげた。
「そうだな、前に住んでた家は派手だと言われたが……」
「派手って、どんなふうに」
地味という言葉の似合わぬ彼であるが、なにぶん男の身だ。部屋を飾るにも限度というものがある。
「壁に悪魔どもの首をこう……剣で串刺しにしてあった」
小卓に小刀か何かを突き立てるような仕種をして、彼は若気の至りだと苦く笑った。
「あとはビリヤード台とか、ジュークボックスなんかも置いてたが、まぁ、若かったんだろうな」
他人事のように話す彼の声に、青年はぼんやりと耳を傾ける。彼が昔の話をすることは、そうない。
だからネロは一言も取りこぼさぬよう耳を澄ませるのだ。
それがたとえ、妙に物騒な話であったり、見たこともないものの話であったとしても。
「やっぱり趣味悪いな。人のこと言えないだろ」
何を置いていても、彼のことだから手入れなどとは無縁であるに違いない。ものが多く散らかった部屋に、物騒な飾り。
趣味がいいとは間違っても言えそうにない。
彼はちょっと首をかしげ、そうかな、などとうそぶいた。
「好きなもん置いてたら、ああなっただけなんだがな」
頬杖をついてつぶやいた彼の瞳は、どこか遠いところを見ているようだった。
ネロの知るよしもない昔のことを思い出し、懐かしんでいるのだろうか。
そこに、あの男はいるのだろうか。そうだとしたら、今すぐにも現実へ引き戻してやらねばならないが。
ネロにとっては幸いなことに、彼の唇が男の名を紡ぐことはなかった。何か、思うところがあるのだろうか。
彼は男との出合いなどを思い出しているわけではないようだ。――二親のこと、かもしれない。
母は早くに亡くなったと、ちらと聞いた記憶があった。
彼の過去には、どこか拭いきれぬ翳があると青年は感じている。だからだろう。
飄々として掴みどころのない彼は、あまり本心を見せることがない。
すべてに対して明け透けのようでいながら、時折見せる表情は暗く、すべてを諦めているようにも見える。
そんな顔をするなと、ネロの本心はそう言いたくてならない。
自分の前でそんな顔をしてくれるなと、彼の肩を掴み、碧い双眸を見つめ、言ってやりたい。
王のことではなく、過去などではなく、自分を。今目の前にいる自分を見てくれ、と。
そうして想いを告げたなら、彼はどんな顔をするだろうか。
「あんたがそうだから、俺がこうなったわけだ」
舌の根にこびりついた言葉を無理矢理嚥下して、ネロは笑った。
子に教育というものを施すことのなかった彼は、目をぱちぱちとまたたかせ、次いで奇妙なほど神妙な面持ちで頷いた。
「なるほど。俺もおまえも、好きなようにしてるって点では同じだな」
「そういうこと。ほら、ご所望の茶だ」
「お、やっとか。待ちくたびれちまった」
軽口を叩くわがままな彼に、ネロはやれやれと肩をすくめるだけで小言の一つも言いはしない。
この母はいつも気まぐれで、一瞬一瞬を衝動的に生きている節があることを、ネロはよく知っているし、慣れてもいる。
この程度の軽口で苛立っていては身が持たない。何より、彼の刹那的な性格もまた、愛すべきところであるとネロは思う。
よくよく、彼に心酔している。
久方ぶりの逢瀬に、ネロはいつにない気持ちの昂ぶりを感じていた。彼とこうして話ができることが、ただ、嬉しい。
触れることはできずとも、彼の声を聞き、彼の笑顔を見るだけでこんなにも嬉しいのだから、なんと単純なことだろう。
「ん、うまい。本当は酒がいいんだが……ばれると後が面倒だしな」
ぶつぶつと独り言をつぶやく彼に、ネロは渋面を浮かべた。
「ねだられても絶対呑ませないから安心しろ」
そればかりは、いかに母のわがままであろうと聞き届けるわけにはいかない。
きっぱりと断言するネロへ、彼は唇を尖らせ、拗ねたように舌打ちをした。
「なんでそんな、けちに育っちまったかね」
「誰かさんがそのへんの教育をしてくれなかったから、仕方ないんじゃないか?」
自業自得だと言ってやれば、彼はいっそう拗ねるかと思いきや、何かしら閃いたような表情を浮かべ、
それもそうか、などと言い出す始末である。
「もうちょっと考えるべきだったか……。や、でもまぁ、考えようによっちゃあ、丁度いいのかもしれねぇ」
「丁度いいって、何が」
「ん? だからな、俺がこんな性格だろ。その分おまえがしっかりしてくれてるから、
丁度バランスが取れてていいと思わねぇか?」
いい発想だろう、と。笑顔で宣う彼に、ネロは一瞬呆気に取られてしまったけれど、
妙な顔をしていると不審に思われかねないと、顔面の筋肉を総動員して平静を装った。
が、鼓動は早いまま、治まりそうもない。
「反面教師ってやつかね」
ネロの内心も知らず、彼はどことなく愉しげに言う。
「おまえが多少けちなくらいしっかりしてくれてるから、俺は気兼ねなく好きにやれるってもんだ。感謝してるぜ」
「……それって、本来は俺が言うことじゃないのか?」
できる限りの平常心を保ちつつ、ネロはぼやくように言った。きちんと揶揄するように言えたかどうか、
自分ではわからないが、それもそうだな、と彼が笑ったところを見るに、おそらく成功したのだろうと推測することはできた。
とても、とても心臓に悪い。けれど、どう天秤にかけても彼との時間のほうへ傾くので、
彼を追い出そうなどという選択肢はネロにはない。
躰の具合がいいからと、彼はわざわざネロの部屋まで足を運んでくれたのだ。
ここ以外に逃亡先のあてがないからには違いないが、それでもネロは嬉しいと思うし、
このひと時をでき得る限り大切にしたいとも思う。
(すきだ。どうしようもなく、)
彼の声が、瞳が、髪が、仕種が、頭の天辺から爪先まで、何もかもが愛おしい。
狂おしいほどに、ネロは一心に、ただひたすらに彼だけを愛している。
「なぁ、ネロ」
名を呼ばれた青年の、鼓動がひときわ大きく跳ねた。
「……なに、」
ぶっきらぼうに応じてしまったことを、少しばかり後悔する。
彼はふと窓へ目をやり、月を見上げるような仕種をした。少し反った首筋の白さに、ネロの視線が釘付けになる。
「……何があっても、おまえは俺の誇りだ。忘れるなよ」
奇妙と思わずにはおれぬほど、彼の声音は真剣だった。これまでの会話とその言葉はいかにもちぐはぐに思われたが、
それを指摘することはネロにはできなかった。月に何を想うのか、月明かりを浴びる彼の横顔はとても真摯で、
ひどく作りものめいて見えた。
まるで、魂はここにはないかのような。強い言葉を裏切るほどに儚げで。
「ダンテ……?」
「ん?」
ネロの声に応じ、こちらへ向き直った彼は、ネロのよく知るいつもどおりの彼だった。
ほっとした反面、心の片隅にこびりついたように不安が残る。
「俺も、あんたの子どもでよかったと思ってる。……ありがとう」
半分は、嘘だ。けれども半分は本心でもある。
彼の子に生まれなければ、おそらくネロが彼に出合うことはなかったであろう。
たとえ結ばれることのない関係であったとしても、出合えぬ不幸に比べてみれば、自分は確かに幸福なのだと思う。
彼はちょっと目を瞠り、照れたように、嬉しそうに頬をほころばせた。
今、この時。世界が終わればいいと思う。彼とふたり、見つめあったこの瞬間が永遠になればいいのにと、
叶わぬことを知りながら、けれども願わずにはおれぬ己を、彼はどう思うだろう。
しかしそれを問うことはもちろん、想いを伝えることすらできそうもない自分自身が、嫌になるほど情けない。
彼の喉を潤すそれと同じ、慣れ親しんでいるはずの茶の味が、なぜだかまるで知らないものに感じられた。
久しぶりのおやこの会話でした。息子の妄想は中学生レベルかもしれない。
門番じゃないけれども、奴らを出してみました。すきすぎてすみません。